34.(羨ましいな。誰かを好きになれるなんて)
(羨ましいな。誰かを好きになれるなんて)
我ながら頭でっかちというか、年頃の女子らしくない考えであることは自覚している。しかし私は、誰かを愛することは、きっとできないだろう。少なくとも今しばらくの間は。
勿論、祖父や両親に抱いている家族愛や、時に軽口を叩き合いながらも、その実大切に思っていると分かる姉弟愛、私に喫茶店の夢と美味しい珈琲の淹れ方を教えてくれた店主への師弟愛などといった清らかで誇らしい敬意と親愛は持っているつもりである。
私は基督教徒でもないし、社会心理学や文化人類学を専攻しているわけでもないのだが。ましてやギリシャ語なんてもっと知らないが。
無償の愛、隣人愛、家族愛はある。
それらが尊いことを、貴ぶべきことであることは知っている。人間を人間たらしめるものの中で、非常に大きなウェイトを占めるであろうことも知ってはいる。
知ってはいるのだが――。
男女間に芽生えて然るべき性愛だけは未だに分からない。
こういうのは、きっと理屈を並べて、ごちゃごちゃと考える物ではなくて。
良し悪しで語れるような底の浅い二元論でもなくて。
秋になれば紅葉が朱に染まるように。
渓谷の清流がやがては大海に流れゆくように。
心の根底――即ち本能に依存するものなのだろうといった漠然とした理解しかない。尤も、未だ恋というものを体験したことのない私が言っては些か滑稽なのかもしれないが。
恋に落ちるとはよく言ったものである。
英語でも"to fall in love〟などと表現されるから不思議なものである。人間ならば誰しもが持つ普遍的な感情なのか、はたまた直訳した都合なのかは分からないが。
いずれにせよ。
私は恋というものをよく知らない。
いや、正確に言えば――怖いのだ。
信じ切れずにいるのだ。異性というものを。
私は、未だにストーカー被害を受けたことを忘れられずにいる。別に、直接的な接触や性被害に遭ったわけではない。バイト時代に、執拗かつ無遠慮に声を掛けられたり、仕事終わりに背後を尾け回されたりした程度であるのだが、臆病な私は酷い恐怖を覚えた。男性という生き物は、人皮を被り人語を介するだけの獣ではないかとすら考えたほどである。
もしかすれば。
相手からすれば悪気など微塵もなくて。
怖がらせるつもりも全くなくて。
ただの積極的なアプローチでしかなかった可能性もあるけれど。
今でも自室の遮光カーテンは一度も開けられずにいるし、暗くなれば一人での外出はできないし、したくもない。脚が震えてしまうのだ。そもそも、私が実家ではなく祖父の邸宅に下宿している理由もとい原因がストーカー被害なのである。
自然に話すことができる男性など、この世界では弟くらい――否、弟しか残っていないのだ。
(私は誰かを愛すことが本当にできるのだろうか?)
内なる自分に問い掛けるが、分厚い理性の殻に籠城するもう一人の自分は、ただの一言も発さない。空虚な私の精神に不快な木霊ばかりが広がるだけであった。
「というか姉貴酷くね。何だよ間違いなくそうだけどって。ちょっとは否定してよ」
「自分から言い出したのに文句言わないでよ。それで、どうするの?」
「どうするって、何がよ」
精神的外傷を忘れられずにいる私に見向きもせず、弟は空惚ける。
「その子のこと。返事してあげたら? きっと喜ぶんじゃない」
「それは、まあ、そうだろうね。実際、連絡してくれたら嬉しいです待ってますから――なんて俺みたいな野郎に言ってくれたんだもん。見ているこっちが心配になるくらいに噛み噛みで、顔なんて林檎みたいに赤くしてさ。きっと真っ直ぐで良い人なんだろうなってのは――ウン、分かるよ。本当によく分かる。正直、嬉しくなかったと言えば嘘になるし。顔がニヤけそうになるのだって頑張って堪えたんだぜ。でも、なあ――」
弟は少しばかり俯いて何事かを勘案したのち。
「俺からは何もしないよ。絶対に、何も」
と断じてみせる。
逡巡の中に、いかなる葛藤があったのかは知る由もないが。
深く固い決意が窺える顔つきであった。
「まあ、あんたがそう思うのならそれでいいけど。でも、どうして?」
「だって非誠実だろ」
弟は即答する。
「非誠実って、あんた誰かと付き合ってたっけ」
「いないよ。残念ながら――いや違った当然ながら。今はフリーなのよ。多分これからもずっと。下手すりゃ一生。だからこう、何というか上手く言えないけどさ。糠喜びさせてしまうのも良くないでしょ。そりゃあ、友達から始めましょうなんて綺麗事でお茶を濁してしまえ――なんて考えたのは確かだけれど、それも違うかなと。可哀想だろ」
「可哀想、ね」
「うん? 俺、ヘンなこと言った?」
「ううん、何も」
私は顔も名前も知らぬ、従業員の心境を推察する。
――果たして。
勇気を振り絞って伝えた己の想いを無視されるのと。
有耶無耶な態度であしらわれてしまうのでは。
一体どちらが可哀想なのだろうかと。
そう思ったが、口に出すことはしなかった。
私のような部外者が立ち入ってよい領域ではない。それ以上に、既に弟は肚を決めているのだ。何を言っても意見は覆らないだろうと悟ったこともある。
「俺にはもう好きな人がいて――いや、いたのよ」
弟は言った。過去形であった。
「でも、もう逢えなくなってさ。だから――思い出を上書きされるのが嫌なんだ。怖くて仕方ないんだよ。今更他の誰かを好きになりたくなんてないんだよ。というかそれ以前の問題として、最近色々と余裕がなくてさ。恋愛なんかに現を抜かしている場合じゃないんだよマジで。下手すりゃ明日死ぬとも分からぬ身の上だからさ。仮に付き合ったとしても――俺がぽっくり逝ったら悲しませるだけじゃないか」
「冗談は止めてよ。縁起でもない」
「悪ぃ。でも本気なのよ。本気と書いてマジ。事実、死にかけたもん」
弟は己の右膝をいたわるように撫でつける。
バイクで事故を起こしたことを言っているのだろう。
「明日ありと、思う心の、徒桜。夜半に嵐の、吹かぬものかは」
目を瞑った弟は、紡ぐように一句を唱える。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人がこの世の無常を詠んだ歌である。
明日も咲いていると思う桜も、夜に嵐が来て散らないとも限らない――という理解で良かった筈である。ゆえに、私達は現在この時を懸命に生きるべき――と拡大解釈されることも往々にしてあるが。
「俺の場合、一寸先は闇だとか明日は淵瀬と言った方が適切かもね」
ああ畜生胸くそ悪い、と吐き捨てた弟は、自らの頭をがしがしと掻き毟る。
「とにかく――恋とか愛とか、そんなのは心にゆとりがある奴にしかできないのよ。それか、既に心を奪われて、周囲のことが何も見えなくなった愚か者の特権だよ。俺には恋愛なんてできないね。してたまるかってんだ。その子には本当に申し訳ないと思うし、合わせる顔もないけどさ」
「…………」
「何だよ黙って。姉貴だってそう思うでしょ」
弟は尋ねるが、私は頷くことができなかった。
弟の言うことはきっと間違ってない。否、真実なのだろう。
――けれど。
寂しそうに。心細そうに。
背中を丸める姿は、雨に打たれた野良猫のようで。
何かを言うべきだとは思った。
ここで、私が人間だけが持ち得る愛の素晴らしさを説くことができたら良かったのだけど。
私にはその資格がない。知識がない。経験がない。
ゆえに。
私が何を言った所で、上辺だけを取り繕った文句にしかならず。
何の慰めにもならぬと思うと、却って憚られてしまったのだ。
今だけは、恋愛をしてこなかった我が身が恨めしく思えてならなかった。




