32.濡れた髪をドライヤーで八割ほど乾かしたのち、椿油を手櫛で揉み込むように……。
濡れた髪をドライヤーで八割ほど乾かしたのち、椿油を手櫛で揉み込むように馴染ませながら居間に戻れば、弟はまだゲームに夢中だった。
冷気と大槌を操る獣の撃破から場面は進んだらしい。
景観はがらりと変わり、荒廃した木造の安普請がごちゃごちゃと立ち並ぶ光景が広がっている。尤も、ダークファンタジーらしく荒んでいるのは舞台だけではない。罅割れた街道の石畳を闊歩するのは黒い作業服に身を包んだ亡者達であり、その手には手鎌や四又鋤、鉈や大木槌などといった物騒な得物が握られている。枯れて果てて一枚も葉がない樹には、どす黒く染まった包帯でぐるぐる巻きにされた、人間ほどの大きさをした蓑虫のような何かが吊るされているし、物陰を見れば痩せ細った野犬が死体を貪り喰らっている。更には荷車と思しき車輪に括り付けられた死体が、そこかしこに梟示され、道端には木乃伊の如し半裸の亡者が頭を抱えて蹲っている。
一段高い崖の上から街の様子を窺っていた騎士は、亡者の群れをやり過ごしたのち街道に飛び降りる。向かう先は石橋を渡った先にある廃教会であるらしい。
騎士を待ち受けるのは、赤い頭巾を被り、発達した肉体をもつ大男であった。何に使うのかも分からない大きな木板を背負い、ぐちゃぐちゃに磨り潰した肉塊を詰め込んだ石臼を小脇に抱えている。
男は騎士を見るなり、石臼を頭上に掲げると何の躊躇もなく投擲する。
騎士が回避すれば、地面に激突した石臼は粉々に砕け散った。
男はどこからか取り出した大鉈を持って走り出すが、騎士は既に構えていた。左手の中盾を背負い、右手の刀を鞘に収めて――勢いに任せた相手の横薙ぎに合わせて白刃を振り抜く。
独特な低く重い効果音と同時に、赤い火花が散る。
攻撃を弾かれてよろめいた男は、大きな隙を晒してしまう。
「はい、余裕ぅ」
嘲笑するような弟の声。
騎士は、相手の胴体を刀で貫き、蹴り飛ばす。
それでも男は死ななかったが、起き上がろうとしたところに両手からの兜割りを叩き込まれたことで、今度こそ絶命せしめる。その他、数名の亡者が騎士に襲い掛かるが、いとも容易く処理されてしまう。
「武器、変わっているんだね。装備は西洋甲冑なのに日本刀を持ってるのって、ちょっと違和感あるかも」
「そう? そこが格好良いと思うけどなあ。男のロマンってやつ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの。それに俺みたいな技量戦士は色々な武器を扱ってこそだからね。ゲームに限って言えば『打刀』は、入手も最序盤だし、振りもそれなりに早くてリーチも十分、出血の付帯効果もあるし、居合の弾きパリィなんて発生も早いし被ダメ軽減もあるから――序盤中盤後半と隙がない非常に優秀な武器なんだよ。スタミナ消費がやや重いことと、斬撃が通りにくい敵が多いこと、耐久値が低くて毀れやすいことが玉に瑕だけどね」
なにもそこまで現実に寄せることもなかったのに、と弟は実際に刀を振るったことがあるような口振りで饒舌に語る。具体的な内容はよく理解できなかったが、弟が打刀という武器をいたく気に入っていることだけは、ひしひしと伝わってくる。
「俺も今は力量が足りないけど、最終的には集中と信仰にも割り振って、奇跡も使える技量兼信仰戦士を目指すつもり」
「奇跡? それってどんなのがあるの」
「それはもう色々とあるよ。例えば――刀身に雷を纏わせる『雷の剣』とか『暗月の光の剣』。即死を一度だけ免れる『惜別の涙』。発生が早くて牽制効果抜群の『雷の矢』。至近距離で超ダメージが出せる『太陽の光の槍』。自分と味方の攻撃防御を上げる『固い誓い』。邪道なものになると、敵味方関係なく周囲の詠唱を一切封印する『沈黙の禁則』とか、大量の蟲を召喚して出血を強いる『蝕み』とか。他には宴会芸という意味でウケの良い『天使の光柱』とか、正直使いどころのない『家路』とか――」
話している最中に、次から次へと思い付いてしまうのだろう。弟はぽんぽんと指折り数えていく。後半の方はよくイメージできなかった(家路とは一体……? 残業を断って断固として帰宅したいときに用いるのだろうか)。
「凄いね。随分いっぱいあるんだね」
「これでも絞った方だよ。数だけなら、まだまだあるよ」
「そんなにあるんだ。それなら味方の体力を回復させるような奇跡ってないの?」
今弟が挙げたのは攻撃に用いられるものばかりである。
「そりゃあるけど、あまり頼りたくはないかなあ」
「どうして?」
「だって戦闘中は悠長に回復できる隙も余裕もないからね。それに触媒や術者の能力が育ってない場合は、燃費が悪くて却って消耗するだけだし。何より他の術に記憶スロットを割きたいから、俺の戦闘スタイルだと要らないかなあ」
「……ふうん」
何となく自分の存在を否定されているような気になってしまい、少しだけ嫌な気分になってしまう。聞いたのは自分の方だというのに。弟はゲームの解説をしているだけなのに。私は、自分でもそうと気付かぬうちに、奇跡を行使する聖女というものに存在証明を抱いていたらしい。
「どしたの? あ、もしかして観たいドラマでもあった? だったら止めるけど」
声色の変化を察したのか、弟が振り向く。
「違うよ。だったら勝手にチャンネル変えてるから」
私はただ。皆を癒やしたり、護ったりすることができるような奇跡がないかを知りたかったのだ。話を聞いた限りでは戦闘に用いられるものばかりであったが。
「ねえ。誰かを生き返らせるような奇跡ってないの?」
だから尋ねた。尋ねてしまった。
「……………ッ!」
息を呑む音が聞こえた。
弟は目を剥いて私を凝視している。
その表情は、驚愕という表現では生温い、戦慄とも恐懼ともつかぬ激情に染まっていた。まるで、心中の奥底にしまい込み、後生大事に秘匿したる感傷を踏み躙られたかのような。未だ癒えぬ惨たらしい古傷を無遠慮に指摘されたときのような。己も他人も、世界すらも騙さんと、貫き続けた嘘が露見してしまったかのような――。
泣き出しそうなところを、寸前で堪えている幼子のようでもあり、慟哭を噛み殺すことに飽いた末、精神に異常を来した狂戦士の如し形相のようにも見えた。
少なくとも。
今この場にいる弟は、私が知らない人間であった。
私は何か、致命的な失言をしてしまったのだ――と思った。




