30.「姉貴ぃ。ちょっと汗臭いぜ」
「姉貴ぃ。ちょっと汗臭いぜ」
まだ私の前に立っていた弟が、すんすんと鼻を鳴らしながら私の胸元に顔を近付ける。まるで、いつものキャットフードを新しいものに切り替えたときの三毛猫のように。
「……あんたデリカシーって言葉知ってる? あと近いから」
弟の肩を両手で押しのければ――低い声で呻いた弟は、蹈鞴を踏んだのち、右膝を庇うように蹲ってしまう。
「え、やだ。ちょっとどうしたの?」
勿論そう強くは押していない。姉弟のじゃれあいの範疇に収まる程度には加減したつもりであったのだが。
「……悪ぃ。何でもないよ」
そう答える弟の顔は、たったの一瞬で脂汗が滲んでいた。
「そんな顔して何でもないわけないでしょ。あんたこそどうしたの」
嗅ぎ慣れてしまった鉄錆の臭いが私の鼻先を掠めた。多分、弟は怪我をしている。それも少なくない流血を伴うような。私が想像するよりもずっと程度の重い外傷を。
「まあ、その、何というかね。バイクで派手にやらかしたんだよ。脚というか膝を擦り剥いただけだから。例えるなら、紅葉おろしみたいな感じに」
「病院とか警察にはちゃんと行ったの? 誰かを轢いたりはしてない?」
「単身事故だから被害は俺と車両だけだよ。まさかこの俺が事故るとは思わなんだ」
澱みなく答えた弟は、ひいひい言いながら立ち上がると指定席の座布団へ戻っていく。
「病院には行ったの?」
「いいや、そこまでの怪我じゃないよ」
「駄目じゃない。ゲームなんかしてないで行ってきなよ」
「これくらい平気だって。止血も消毒もしたし、今のところは化膿もしてないから。感染症の兆候もないし、行ったところで塗り薬と抗生物質を渡されて、それでお終いだよ。要するに時間のムダ」
話は終いだと言わんばかりに弟はコントローラーを握り、ゲームを再開してしまう。
開いた城門から吹き込む風に、首回りの布をはためかせた騎士が、地面に突き立てられた剣に手を翳せば『BONFIRE LIT』という表示ののち、剣とその周囲に橙の火が宿る。ボス戦闘後に出現するチェックポイントだろうか。
「無茶というか腕白はほどほどにしてよ。その怪我、治してあげようか」
「治すってどうやってさ?」
画面を向きながら、弟は話半分に聞き返す。
「どうやってって」
そんなの奇跡を使うに決まってるでしょう、と言おうとして。
触媒となる杖を店舗に置いたままであることを――それ以前に、私が異世界に行っていることを未だ秘密にしていたことを思い出す。
「……ハンドパワーとか? 痛いの痛いの飛んで行けって感じで」
苦し紛れに答えを絞り出せば、今時小学生でも言わないよそんなこと、と弟は嗤う。
「笑いすぎだから。人が折角心配しているのに」
「それで治ったら病院も医学部も必要なくなっちまうよ。でも、もしそれで治るんだったら。本当に治ってくれるのなら」
「だったらなによ」
弟は何かを言わんと口を開いたが、結局、何も言わなかった。
力なく首を横に振るだけであった。
「何でもないよ。金が簡単に稼げそうだとか、胡散臭い宗教の教祖サマになれるとか、そんな俗物らしいことを考えただけだよ。うん? この場合治るのは本当だから胡散臭くはないのかね」
そう語る弟の目はテレビに向けられていたが、羨望と郷愁、そして後悔がちらちらと瞬き、ここではないどこかを――否、誰かを見詰めているようだった。
「あ、そうだ。金で思い出したんだけどさ」
暗くなりそうな雰囲気を察知したのか、弟は声の調子を上げて、己の両股を軽く叩いた。その衝撃が傷に響いたらしく「痛ェ!」と大袈裟に喚く滑稽振りも忘れない(いや、本当に痛そうだから決して全てが演技ではないのだろうが)。
「姉貴って何か欲しいモノある? 俺が買ってやるよ」
「どうしたの急に。何か悪いものでも食べたの?」
殊勝な態度なんてらしくない、と私が言えば、そんなの自覚しておりますよ、と弟は拗ねたように言い返す。
「まあ、何というかお礼だよ。日頃世話になっているし、今だってこうして勝手に上がって、五十二型の大画面でゲームさせて貰ってるし、この前なんかもマジで助けられたからさ。んで、何かないの欲しいモノ」
「欲しいもの、ねえ」
急に言われたところで、ぱっと何かを挙げられるほど困窮はしていない。こと物欲に対しては薄い方だと自覚もしている。良くも悪くも現代日本で暮らす若者らしいと我ながら思うが、まあ、それはそれでとても幸せなことなのだろう(無論、多少なりとも皮肉が混じっているが)。少なくとも、迫りつつある戦争に怯え、自分や仲間が明日を無事に迎えられるかも知れぬ環境にいるよりはずっと良い筈である。
「これに関しては何でもいいぜ。姉貴が一着も持ってないオシャレな服でも、どうせ名前も知らないだろうブランドものの化粧品でも、レア雑貨でも有名処の美容院代でも、稀覯本でもアンティーク家具でも。何なら旅費って形で、費用は俺が負担するから、お袋とどっか良いとこの宿にでも泊まるってのもアリだよ。俺のオススメは東北にある旅館なんだけど、なんでもそこには座敷童が出るらしいんだ」
「さらりと言ってるけど、あんたそのお金はどこから出てくるのよ」
あと妖怪が出るような旅館をお勧めしないでほしい。決して悪い存在ではないことは知っているが――そして私は霊感がある方ではないのだが――ちょっとだけ怖くなってしまう。本当に、少しだけ。
「あー、うん。そこは心配いらない、かな?」
「かなって何よ。まさか悪いことしてないでしょうね」
「してないよ。バイトだってば。臨時収入が入る見込みなんだって」
「一応聞くけど、予算はいくらまでなの?」
「少なく見積もってざっと五十万円。上手くいけば百万円は超えてくれる」
「えぇ?」
予想外の金額に弟を見れば、憎らしそうな笑みこそ浮かべているが嘘は吐いてなさそうである。
「どうしてそんなに持ってるの?」
「あれ、言ってなかったっけ。俺、現場解体と特殊清掃のバイトを掛け持ちでやっているのよ。まあどこの現場でも大概はごちゃごちゃ残置物がありまくるワケで――そこから色々と、あれやこれやと拝借しているワケでございます」
「現場解体は分かるけど、特殊清掃ってどんなことをするの?」
「有り体に言えば死体漁りかな。いや、屍体サマは警察が回収しているから厳密に言えば違うけど。床や布団に蛆蟲が集って、人型のどす黒いゲル状のシミが残っているだけだけどね。諸々を回収して廃棄した後、徹底的に清掃するのよ。この前なんか現場が風呂場だったから、硫黄と蛋白質の腐敗臭が酷い中、色々とやらされましたよ」
先輩が吐瀉ったせいで俺まで吐いちゃった、と弟はなぜか嬉々と語る。
「気持ち悪い話しないでよ。というかそれ、色々と大丈夫なの?」
「今のところ呪われたりはしてないよ。これでも死者への畏怖は持っているしつもりだし、月一で個人的にお祓いにも行っているからね」
「そういう意味じゃなくて。横領とか窃盗になるんじゃないの?」
「あー。もちろんその辺りの配慮はしているよ。そりゃ被覆を剥いだ銅線だとか、一目で価値があると分かるような貴金属だとかを個人で業者に持ち込んで換金したら一発アウトだろうけど。俺の場合、一見地味な品物をバラしたのち、細々と通販で売っているだけだだから。親方や施主からも許可は貰っているからね」
「…………」
「建前としては、蔵を清掃していたらこんなモノが出てきましたっていう体で売ってるワケだし、事実として盗品でもないからセーフだよ。営利目的として何度も売り捌いているワケでもないから古物営業法にも引っ掛からないよ」
演説の如し滔々と語る弟は、懐から愛飲の煙草を取り出してその一本を咥えると、年代物のオイルライターで着火する。一口目の濃い煙を吐き出しながら、テーブルにある南部鉄器の灰皿を引き寄せる。
香ばしくも甘いバニラの芳香と紫煙を燻らせるその姿はとても高校生には見えなかった。頼もしくもあり、それでいてどこか危ういようで――弟が随分と遠くに行ってしまったようで、私は何も言えなくなってしまった。
持ち前の頭脳と美顔を恃み、悪巧みをする姿はどこか祖父を彷彿とさせる。以前受け取った祖父からの手紙に、弟には色々と仕込んだということが書いてあったが、その内容に偽りはないようであった。
弟君のキャラが便利過ぎて筆がノッてしまう。
あ、未成年の喫煙は法律で禁止されてます。ダメ、ゼッタイ。
この小説に犯罪行為を推奨もしくは助長させる意図はございません。
あくまで個人の妄想に基づく妄想であり、決して筆者の体験談ではありません。




