3.一階に下りた私は厨房を物色していた。
一階に下りた私は厨房を物色していた。
この世界がどういうところかは未だ分からないが、オーブンやガスコンロ、電子レンジなどといった電化製品はなかった。
目立つのは、外部に煙突が設けられた石窯と竈、透明な水が溜められた大きな水瓶、いかなる原理で稼働しているのかも分からない木製の冷蔵庫であった。中には小麦粉や砂糖、卵やバターといった食材が紙袋やビンに収められている。
戸棚に収められた調理器具を見れば、私の知るものとそう変わりないものばかりで、それでいて多様に揃えられている。祖父が用意してくれたものだろうか。
厨房の隅、勝手口の横には暖炉や石窯に使うであろう割薪が積まれている。割合を見れば、火付きの良い針葉樹と火持ちの良い広葉樹がそれぞれ同じだけある。十分乾燥した証だろう。断面には細かな罅が入り、そのひとつを手に取ると軽い。
過去に石窯で調理した経験はなかったが物は試しである。使いこなすことができれば料理の幅も広がるだろう。本格的なピザだって作れるはず。もしかすれば魔法で補助することもできるのかもしれない。
(うん。材料もあるし、早速使わせてもらおうかな)
自分でも好奇心に突き動かされているのが分かる。
普段の私であれば、勝手に使うのが申し訳ない、初めて触る設備で料理をして失敗するのが怖い、などと出来ない理由を先に考えて手を出そうともしなかっただろう。それどころか、いくらここが自分の店だと言われても、不安に負けて、すぐにでも元の世界に帰ろうとしていたはずだ。
やはり、私は喫茶店が好きなのだ。これから作る品を、コーヒーと一緒に、お客さんに出せないかな、と皮算用しているくらいには。
もっとも、いくら意欲があるといえども、失敗する可能性は当然ある。ここは簡単にプレーンクッキーでいいだろう。
そもそも、目的は祝福というものを使えるのか試してみることである。カウンターに置いてあったサイフォン式のコーヒーメーカーの使用感も試してみるのもいいだろう。
…………。
……。
調理を始めて分かったことがある。
想像以上に魔法というものは便利であった。杖を向けて念じるだけで、薪に火を点けることができたし、光の球を天井に留めて照明の代わりとすることもできた。
初めて使う道具ばかりで手間取りはしたものの、目立ったミスもなく、誰が見てもクッキーと分かるものを作ることができた。強いて失敗を挙げるなら、計量せずに経験則からなる目分量で作ったため――致命的なことに計量カップがなかったのだ。それ自体が失敗なのかもしれない――生地が多くなりすぎて小皿に収まらない量になってしまったことだろうか。
味見として一枚をつまんでみれば、バターの風味もしっかりと残り、サクサクとしながらもホロホロと崩れる食感が美味しい。少しばかり固いように感じるのは、火を通しすぎたのか、あるいは生地がダレてしまったせいだろう。まあ、一発で成功するとは最初から思ってはいない。今後、試行錯誤を重ねていけばいい。
サイフォン式のコーヒーメーカーも、バイト時代にマスターの蒐集品を一度使わせてもらったきりであったが、これもそれなりに淹れることができた。
カウンター内の椅子に座りながら、ガラスの容器を上下する液体と、踊るように揺らめく炎を眺めているだけで楽しかった。
火を消して、立ち上がる。
棚からカップを取り出す。
(あの明るい窓辺の席で、少し休もうかな)
ホールの時計は既に四時を回っていて――その光景に違和を抱いた。もう夕方であるはずなのに、どうして外はまだ明るいのだろう、と思った。青白い光が舞い込んでこそいるが、あれは私の知る夕暮れではない。
何となく、嫌な予感がした。
今の今まで目を背けていた胸騒ぎが戻ってくる。
コーヒーとクッキーに保温の魔法をかけたのち、おそるおそる窓に近づく。
空を仰ぎ見れば――。
巨大な満月が、濃紺の空に吊り下がっていた。
否、巨大なんてものではない。今にもこちらに向かって堕ちてきそうで、目を凝らせば、ざらざらとした岩肌の質感が分かるほどであった。
(あれは、なに? 私の知っている満月じゃない!)
得体の知れぬ岩の塊が、空の半分以上を占有している。しかも、品性の欠片もない死んだ光と、腰が抜けてしまいそうになるほどの威圧を撒き散らしながら。
それだけではない。鈍色の薄い雲からは、氷晶の大きな雪が、はらりはらりと静かに降っている。
訳の分からない光景であった。
浮遊感を伴った眩暈を感じながら、月明かりの届かぬ暖炉まで後退する。
不気味な光景であり、強烈な畏怖がこみあげるが――恐怖や忌避は感じなかった。昔からの友人に町で偶然出会った時のような、奇妙な懐かしさすら覚えるほどであった。
呼ばれている、と思った。
あの月は。
あの月にいる誰かが。
私を呼んでいるのだ、と直感した。
脚が勝手に動いた。
玄関の分厚い扉に架けられた閂を脇に除け、迷うことなく外に出る。
私を迎えてくれたのは、足許に這い寄る冬の冷気と、眩いばかりの月光であった。
地面には石畳が敷き詰められ、表面にはうっすらと雪が積もっている。
振り返れば、私が先刻までいた喫茶店は石組みの洋館という外観であり、近隣に立ち並ぶ家屋も角張った石造建築ばかりである。どの家の軒先にも、家紋ないし象徴が描かれた垂れ幕や看板が掲げられていることから察するに、この一帯は確かに商店街であるらしい。その全てが戸口を閉ざし、分厚いカーテンで窓を覆っているため、明かりひとつ漏れてこない。
前方には広大な河が広がり、落下防止の手摺りが設置されている。月に照らされた川面は、濡れた黒猫の背中のようにきらきらと揺れ動いている。対岸は闇に呑まれて何があるのか分からない。
人通りは絶えていた。
長い間、立ち尽くしていたかのように思う。
世界にひとりだけ残されたかのような錯覚を抱いてしまった。
ふらふらと覚束ない足取りで柵に近付き、何をするわけでもなく空を見上げる。意図などなかった。ただ、こうしていなければならないような気がしたのだ。
無機質な丸い月は刻一刻と私に迫っているようで。いや、天体というものには全て重力が備わっているのだから、私があの月に吸い込まれているだけなのかもしれない。
私も、向こうに行けるのだろうか。
仲間に加えてもらうため、天に手をかざしてみれば――。
「――もし、そこのお嬢さん。こんな夜更けに何をなさっているのですか」
背後から声を掛けられた。
夜の静寂を乱さぬよう心遣った、落ち着いた青年の声である。
振り向けば、馬に跨がり、無骨な甲冑を纏った騎士が私を見下ろしていた。蹄鉄の音は聞こえなかった。空間から突如として現れたかのような存在であった。
「月を、見ておりました」
戸惑いながらも答える。
相手の顔は、鉄兜に遮られて見えなかった。
相手が若い男性――それも確かな教養をそなえた凜々しい好青年だろう――と感じたのは、背筋を伸ばした美しい姿勢と、すらりと伸びた長い四肢、そして先程のたった一言に、月のような穏やかな知性を感じたからである。
「月を?」
騎士が、怪訝そうに眉をひそめたのが見ずとも分かった。
指輪のおかげなのか、どうやら言語は通じるようである。
「はい。いけないことでしたか」
「月を見るのは、よろしくありません。月蝕病になって、連れて行かれてしまいますよ」
「月蝕病――」
耳慣れない言葉であった。
それに、連れて行かれるとは。
この世界における諺ないし方便のひとつなのかもしれない。
「知りませんか。いや、それよりも。あなたは月の光を浴びて平気なのですか」
「ええ。あの月は、身体に悪いのですか。こんなにも綺麗で、懐かしいのに――」
私の問いに、騎士は否定も肯定もしなかった。
ただただ、絶句したかのように口を噤んだのち。
「月は、生ける者を惑わし、死せる者を裡に閉ざしてしまう――神の造った楽園ですから」
とだけ言った。
その声は、死別してしまった誰かを悼むようでもあり、あるいはその原因をつくった誰かを心底憎むようでもあり。なぜか、私は名前も顔も知らない騎士に見惚れてしまった。
そこで、彼の手脚が小刻みに震えており、肩で息をしていることに気付く。彼が跨がる黒い馬も、ここまで全力疾走したかのように息を荒らげ、忙しなく足踏みをしている。まるで、一刻も早く月光の届かぬ場所へ逃げてしまいたいという様子である。
「あの、大丈夫ですか。あなたも、お馬さんも、お疲れのようですが」
「心配には及びません。この月光のせいで、少し疲れてしまっただけですから。やはり、いくら急いていたとはいえども、夜分に出歩くものではありませんね」
「これから、どちらに向かわれるのですか」
「騎士団の官舎に戻らなければなりません。あと一時間も走れば着くでしょう。行き倒れでもしなければ、の話になりますが」
「行き倒れ、ですか」
「ええ。貴女には耐性があるようですが、普通の者であれば、月の光を一時間も浴びてしまえば、中てられて精神に異常を来してしまうものです。最近になって薬も作られるようになったと聞きますが、まあ、浴びないに越したことはないでしょう」
騎士は嘆息した。
「よろしければ、私の家で休んでいかれませんか」
私の提案に、騎士は驚いたように黙ってしまった。
「お嬢さん。お気持ちは有り難いのですが、こんな夜に、しかも月光に濡れた男を家に上げるなど、褒められたものではありませんよ」
「こちらは構いません。かなりお疲れでしょう。それに、私にとっては好都合ですから」
「好都合とは」
「はい。実は今、喫茶店を開くためにお茶や料理の練習をしているんです。よろしければ感想を聞かせてほしいな、なんて思っておりました。もちろん、そちらがよろしければの話になりますが」
騎士を招くことに打算がないと言えば嘘になる。だが、疲れ果てた彼のために何かしてやりたいと思っていることも事実であった。第一印象で、彼が悪人でないと直感したこともあるが――このよく分からない世界における初めての出会いを大事にしたい、という好奇もあった。
騎士は顎に手を遣り、少しばかり逡巡したのち。
「本当によろしいのですか?」
と念を押した。
「どうぞ。さあ、こちらです」
彼を先導するように店舗に引き返せば、馬を下りた騎士はついてきてくれた。