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異世界で喫茶店を開いたら何故か救国の聖女と言われて大変なことに!  作者: 千葉 仲達
【5】満月の悪夢と姉弟と三毛猫のだまし合い
28/80

28.「こら、葉月。顔を上げなさい。大丈夫だから」

「こら、葉月。顔を上げなさい。大丈夫だから」


 とうとう涙を堪えきれなくなった私を見かねたのか、女神が音もなく大地に下り立ち、視線の高さを合わせるように両の膝頭を地面に突いた。


 大丈夫って、そんな訳ないでしょう。無責任なことを言わないでよ。

 お願いだから今だけはひとりにして。彼の死に浸らせてよ――。


 声が出せるのなら激情の(まま)に叫びたかった。だが臓腑(はらわた)の奥底から込み上がるのは嗚咽(おえつ)ばかりで、おおよそ人間が理解する言語にはなり得なかった。己の裡に根付いた強靱な理性だけが冷徹と客体(かくたい)を保ち、悲嘆に暮れる己を不思議そうに俯瞰(ふかん)している。

 

 女神の、氷雪の塑像(そぞう)の如し手が私の頭に乗せられる。頭頂部から前髪にかけてをそっと撫でつける――かと思えば、今度は(びん)から垂れる髪を、指先で一房一房丁寧過ぎるほど丁寧に(くしけず)り――今度は耳周りから顎にかけてを、輪郭を確認するかのように指先が這って――最後に、柔らかな親指の腹が頬を伝う雫を拭ってくれた。


 時間にすれば然程(さほど)も経っていない。甘い慰めの言葉をかけられたわけでもない。女神の接触に、いかなる作用機序があったのかも分からないが――滂沱(ぼうだ)と流れ()ずる私の涙はいつの間にか止まっていた。


 女神は私を凝然(じっ)と見詰めていた。生まれ落ちたばかりの嬰児(みどりご)を見るような慈愛に満ちた眼差しであった。どうして彼女がそのような顔をしているのか分からなかった。


「いい? よく聞きなさい」


 私の手を、両手で包み込むように握りながら女神は言った。人間が持ち得る確かな温度(ぬくもり)と、幽冥の存在にのみ宿る冷気が両立した、不可思議な感触であった。


「あなたの想い人は遠いところに旅立ってしまった。そして今のあなたでは呼び戻すことができない。力を貸してあげることもできない。でも、安心なさい。この世界は夢なのだから。いいえ、あなたが悲しむような世界なんて、(あたし)がすべて夢にしてあげるから」

「……どういう意味でしょうか」

「全部なかったことにしてあげる。妾くらいになるとね、世界の創造も抹消も、融合すらも――何から何まで簡単にできるの。できてしまうのよ」


 女神は、発言の真意を汲み取れずにいる私を見遣ったのち。


「分からないかしら。ここが、近い将来に起こり得る可能性のひとつ――現在(いま)という時間の尺度と地続きで繋がっている――いつか現実になるかもしれない世界だということ。きっとあなたは、夢を通じて偶然迷い込んでしまったのでしょう」


 もしかしたらあなたには素質があるのかもね、と含みを持たせるように言った。


「待ってください。こんな世界が未来だというのですか」


 ウィリアム様が。

 皆が傷付き死んでしまうような残酷な世界が。


「だから言っているでしょう。安心なさいって。あくまで可能性のひとつでしかないわ」


 失意に翻弄(ほんろう)される私を余所(よそ)に、女神が口角を持ち上げる。その小さな笑みと崩した態度は悪戯(いたずら)を成功させた童女(さなが)らであり、私はますます彼女の輪郭を見失ってしまう。


 いや、そんなことよりも。


 これが夢だというのか。今座っている地面の固い感覚も、時折頬を撫でる微かな夜風も、目の周囲に感じる涙の跡の冷たさも――全てが現実としか思えない。


 そして何より。


 今私がここに存在しているという確固たる自意識が。

 忘れようにも忘れられない、脳裏に刻まれたウィリアム様の死相が。


 ここは夢にあらずと。現実なのだと。仮令(たとえ)夢であるならば、永久(とわ)に覚めぬ紛うことなき悪夢に違いない――と声高(こわだか)に主張しているのだ。


 けれど。


 最初から判っていた(はず)だ。私は夢を見ていると。夢ならば覚めなくてはならない。私はここにいるべきではない。本来あるべき場所に帰らなければならない。それが道理というものだ。


「良かった。思い出したみたいね」


 女神は、ぽんぽんと私の頭を撫でたのち、すっくと立ち上がる。


「それじゃあ、お別れしなきゃね。妾はいつ何時(なんどき)でも、あの月からあなた達を見守っているからね。遠く離れているようだけど、ずっと側にいるからね。あとは――そうね。奇跡は私利私欲を満たすためのものじゃないわ。誰かを助けてあげたいって純粋に、心から思った時にしか使えない――いいえ、使わせてあげないわ。少しだけ厳しい気もするけれど、それがあなたの為になると思うから。お願いだから分かってちょうだい」

「……はい。ありがとうございます、女神様」


 私も起立して深々と(こうべ)を垂れれば「え、女神?」という、おおよそこの場に似つかわしくない素頓狂(すっとんきょう)な声が聞こえた。顔を上げれば女神は目を丸くしている。


「女神様って、もしかして妾のこと?」

「は、はい。そのつもりでしたが」

「嫌ねえ。妾は女神様なんかじゃないわ。この子ったら本当に面白いこと言うんだから」

「え?」


 それなら彼女は一体何者なのだ?


 呆気にとられる私に、私が今まで女神と思い込んでいた女性は口許に笑みを忍ばせるだけであった。その優しげな表情は、先刻までは確かに内包していた威厳はなりを潜め、肉親に向けるかのような気安さすら窺えるほどであった。


「そんなに驚かなくたっていいじゃない。そうねえ、どうしても信じられないって言うのなら大聖堂にでもお行きなさいな。あそこには本物の、女神様の大彫刻がでんと構えているから。街外れの古教会でもいいわ。ちょっとだけ小さいけれど同じものがあるから。あなたはお会いしたことがないから分からないだろうけど、吃驚(びっくり)しちゃうくらい本当にそっくりなのよ。――ああ、でも。きっと難しいでしょうね」


 難しい、というのは。


「だって、妾達がこうしてお話していることは全て夢にしてしまうんですもの。起きて少しでも経てば、妾のことなんて忘れちゃうに決まっているわ」


 名残惜しそうに彼女は漏らす。

 その顔が寂しそうだったから。

 あまりにも物悲しそうだったから。


「忘れません。忘れたくありません。今日ここでお会いしたことは――奇跡は誰かのためだけに使うべき力であることは――絶対に忘れません」


 私は宣誓した。宣誓してやった。

 女性は、私の反応が余程意外だったのか、鈴を張ったような(つぶ)らな瞳を二三度(またた)かせてから。


「どうもありがとう。あなたは――ううん、あなた達はとっても優しいのね」


 と言って、ふわり、という擬音が似合う柔和な笑みを浮かべる。


「でも、気持ちだけ頂戴するわ。だって夢は忘れるべきですもの。それがひどい悪夢なら尚更(なおさら)のこと。あなただって、大切な人の死に様をいつまでも覚えているのは嫌でしょう?」

「それはそうですが」


 尚も言い(つの)ろうとした私の唇に、女性は人差指をそっと(あて)がい、物理的に反論を封じてしまう。


「良いこと? 死者は忘れられるのも仕事のうちなのよ。いつまでも生者の心に居座ろうだなんて、そんな烏滸(おこ)がましくて(いや)しい真似だけはしちゃいけないの。死者には死者なりの礼節があるんだから。その反対に、生者は――残されてしまった者達は――過去に囚われてはいけない。いつかは愛別離苦(あいべつりく)の悲しみを乗り越えなければならないし、一寸先すらも分からない暗く険しい旅路をたったひとりで歩んでいかなくてはならない。でも、ね。悲観する必要なんてどこにもないのよ。それがどうしてか、あなたには分かる?」

「……ふぁかりまへぇん(分かりません)


 彼女の指を退けるのも何となく(はばか)られたため、そのまま答えれば、滑稽(こっけい)に映ったのだろう。「仕方のない子ね」と女性は再び笑ってみせる。同性の私でも、心臓がどきりと跳ねてしまうほどに美しく、それでいて今にも消えてしまいそうな(はかな)い|微笑であった。


 多分、きっと。


 月を見上げながら、刻一刻と迫る帰郷を憂うた『竹取物語』の赫夜姫(かぐやひめ)とは、きっと彼女のような人間だったのだろう――と私は場違いな空想に(ふけ)る。


「言ったでしょう。見守っているって。遠いように見えるけど、本当はずっとずっと近いところに妾はいるからね。何も心配はいらないわ。そろそろ頃合いかしら」


 女性はその場で軽やかに跳躍して、宙空で静止してみせる。


「葉月。あなたは、あなたの人生を精一杯謳歌するのよ。あなたの喫茶店が賑わってくれることを期待しているわ。妾は月から見守っているからね。世界を跨ごうとも、あなたがこの夢を忘れてしまったとしても」

「お言葉ですが忘れません。忘れたくありません」

「まったくもう。見かけによらず頑固なんだから」


 誰に似てしまったのかしら、と素直に頷かない私を持て余したかのように女性は眉根を寄せる。身を(ひるがえ)して、(おもむろ)に月へ昇って行くが――。


「頑固者と言えば」


 振り返らずに、女性は呟くように言った。


「もしも、あなたが起きてこの夢を覚えていたのなら。あの人に伝えてくれないかしら。()()()()()()()()()()()――って。妾は貴方をこれっぽっちも恨んでなんかいないって。妾はこっちで女神様と楽しくやっているからって」


 諦めろ? 恨んでいない?

 あの人とは一体――。


「あとは、そうね。家族皆が仲良くしてくれるなら、妾はそれだけで十分よ」


 それだけを言うと、今度こそ女性は昇天して――その神々しい姿も、やがて月光に溶けるかのように消えてしまった。


 彼女が見えなくなってからも、私は月を仰いでいた。彼女の名前を聞きそびれていたことに気付いたのは、月が城壁の向こうに沈み、真っ白な朝日が顔を出してからだった。

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