27.玄関に向かう時間も惜しく、窓の縁に手を掛けて屋外に飛び降りた。
玄関に向かう時間も惜しくて、窓の縁に手を掛けて屋外に飛び降りた。
頭上に鎮座する望月を見上げながら取り憑かれたように駆ける。しかし、どれだけ走ろうとも、いくら手を伸ばそうとも、月との距離が縮んでくれる気配はない。
足が縺れ、前のめりに転倒してしまう。
我に返って近傍を見回せば修練場の真ん中にいた。
いつもであれば騎士団の面々が稽古に励み、群れを成す軍馬達が外周を緩やかに駆け回っているのだが、当然この時分この状況では人気が絶え、硬質かつ無機質な静寂が広がるだけであった。夜風が草木を撫でる騒響はおろか、鵺や椋鳥の啼き声ひとつ聞こえぬ深閑ぶりに、世界に取り残されでもしたかのような錯覚を抱いてしまう。
私は再び月を見上げる。
立ち上がる気力は疾うに失せていた。
目に涙が滲み、月が輪郭を失っていく。
万華鏡のように乱反射した幽界の光が網膜を刺激する。
(嗚呼、ウィリアム様。どうか、お赦しください)
私は、貴方のいない世界に。
貴方を喪った事実に堪えることができません。
私は今から禁忌を犯すでしょう。その愚行が、立派に生きて、立派に死んでいった貴方を貶めることになろうとも。貴方の矜持を冒涜することになろうとも。貴方を連れ戻すためならば、世界のありとあらゆるものと敵対することも厭いません。人間社会に息づいた倫理道徳正義その他一切を振り切ってみせましょう――。
満月から降り注ぐどこまでも冷たい光が――瞳の奥に宿る、熾火の如し確かな熱と疼きが――私に幾許かの平静を齎してくれた。復活した悟性は、人間らしく彼の死を嘆き悲しむことを是としなかった。
涙を流す前に。声を上げる前に。
為すべきことを為すのだ、という強烈な自戒が働いた。
ゆえに。
自分でも意想外な程、合理的な判断を下すことができた。
私がこれから犯すであろう途方もない悪行を想像しても、忌避も罪悪もなかった。
――きっと、満月にいる誰かに逢いたかったのかもしれません――。
以前、月を墜とさんとした化物の話を聞いたことを思い出す。その化物こと少年とは面識もなく、どこの誰とも分からない。生死すらも。だが、今なら少年の本懐が理解できるような気がした。
大切な人が遙か彼方に逝ってしまったのならば。
そこがもう、手を伸ばせば届きそうな距離にまで迫ってきているのならば。
ならばもう、すべきことはひとつである。
青年曰く、少年の試みは、この大杖を掲げた祖父によって阻止されてしまったらしいが、逆に言えば、この杖はそれだけの力を秘めているのだ。この杖ならば月をも墜とせよう。ウィリアム様を生き返らせることだって――本当の意味で奇跡を起こすことだって――できる筈である。否、できないわけがない。
そこまで考えた時には、全身に活力が漲っていた。
私は立ち上がる。目を瞑り、諸手で杖の柄を握り締める。
頭上に君臨する月よ。神が造りし楽園よ。
どうか、私の願いを聞き入れ給え。
私の大切な男性を返してください。
連れて行かないでください。
祈る。
彼は、この世界で初めて出逢った人なのです。月光に中てられ、自分が倒れそうであるにも関わらず、夜にふらふらと出歩く私に声を掛けてくれるような優しい人なのです。私が出した珈琲と焼菓子を美味しそうに食べてくれたのです。きっとあれこれ聞きたいことがあったであろうにも関わらず、雰囲気を慮って、敢えて沈黙した儘でいてくれたのです。私はそれが何よりも嬉しかったのです。
祈る。
私がお店を開いて、彼がまたお客さんとしてきてくれたら良いなと。その時もまた、互いが互いを尊重するがゆえの静かな空間であったならと。そうと思ってもらえる店を作りたいと。幸福な将来を描いておりました。その妄想に陶酔すらしておりました。
更に祈る。
彼は非凡に過ぎる人なのです。国を護る騎士団の長を務め、戦争の最前線に指揮官として立っているのにも関わらず。精神的な負荷は無論のこと、いつ命を落とすかも分からない過酷な環境に身を置いているにも関わらず。その負担や苦労を決して表に出そうとはしません。部下や同僚からも篤く慕われているのです。この国には彼が必要なのです。
祈り続ける。
包み隠さずに胸の裡を打ち明けましょう。私が彼を支えたいのです。傷付いた彼の心身を癒やして差し上げたいのです。そして彼に必要とされたいのです。あの月のような穏やかな微笑みを私だけのものにしてしまいたいのです。私の夢には彼の存在が必要不可欠なのです。
どうして彼なのですか。彼が何をしたと言うのですか。
私は兎も角、彼は何ひとつ罪を犯してなどいないでしょう。
お願いだから彼を返してください。
早く返してよ。今すぐにでも。
返せ。返せ。返せ。
さもなくば墜ちてしまえ――。
強く、只管に祈り続け。
真摯たる祈願が慟哭交じりの呪詛に変貌しかけたとき――。
「駄目よ。いくらあなたでも、その願いは聞いてあげられないわ」
声が聞こえた。丸い響きを帯びた女性の制止であった。耳元で囁かれたようでもあり、天高く発せられた轟きのようでもあり、不思議な音響を秘めた声であった。
目を開ければ。
年若い女性が、前方少し高い位置に浮いていた。
困り顔で私を見下ろしている。
私は言葉を失ってしまった。
唐突に現れた存在に驚愕したことは確かである。彼女が宙に浮遊していることにも。月光に貫かれた身体が僅かに透けて見えることにも。だが、それ以上に私を困惑させたのは。
(これは、私? それとも、ただ似てるだけ?)
月光を浴びて輝く碧髪。黒真珠をそのまま嵌め込んだかのような深い憂いを帯びた双眸。陶磁器のように肌理の細かい白く滑らかな膚。純白の外套に身を包み、豪奢な装飾が施された儀礼用の大杖を抱くように持っている。
鏡を見ているのかと思った。
だが、よく観察すれば他人の空似と分かる。
黒い髪と瞳こそ日本人らしい特徴ではあるが、顔の造形は明らかに異なっている。一切の歪みを排除した均衡比のとれた目鼻立ちも。女性らしい長い睫毛も。丸みを帯びたほっそりとした腮も。
いかなる罪をも赦してくれるかのような嫋やかな微笑も。いかなる悪事を裁こうとするかのような強い信念が垣間見える眼も。総てを拒絶するかのような近付きがたい神秘をその身に纏っていることも。
そのどれもが、今ここに生きている私には絶対に持ち得ぬものであった。
月の化身かと思った。秘匿され続けた女神が、私の要請によって顕現してくれたのだと思った。だが、私に似ているようで全く似ていない女神は言ったのだ。願いを叶えることができないと。
「どうして、ですか。死んでしまった人間を生き返らせることは。生と死の境界を踏み越えることは。神様でもできないことなのですか」
だから聞いた。
そして乞うた。
「お願いします。ウィリアム様を連れて行かないでください。返してください」
女神はすぐには答えなかった。
何かを言い倦ねるように逡巡したのち。
「どうして、あなたのお願いを聞いてあげられないか、分かる?」
と聞き返す。
「できるかできないかで言えば、できる。できてしまう。何の造作もなく。誰かのために本気で祈ることができるのなら尚更のこと。奇跡に不可能なんてないのだから。でもね、葉月。あなたの捧げた祈りは違ったでしょう?」
女神は私を睥睨する。
その眼差しは、神罰を下す厳格なる主神のようにも、不出来な我が子を諭し叱る正しき母親のようでもあった。彼女が私の名を知っていることは少しも気にならなかった。寧ろ、それが自然であるかのように思えた。
「あなたは今、奇跡を自分のためだけに使おうとした。あまつさえ癇癪を起こして月の落下まで願った。願ってしまった。そんな自分勝手な我儘を聞いてあげることなんてとてもできません」
「待ってください。それでは、彼は。ウィリアム様は」
生き返らせることができないのか。
清らかであるべき祈りに、私が醜い独占欲を込めてしまったから。
私の所為で――。
「…………」
脚から力が抜け、その場にへたり込んでしまった。身の丈に合わぬ奇跡を希求したことによる集中力の摩耗ではない。絶望に呑まれ、どうしたら良いのかを――否、どうにもならぬことを悟ってしまったのだ。




