23.私達が通されたのは落ち着いた内装の二階席だった。
私達が通されたのは落ち着いた内装の二階席だった。
二階はフロアの中央が吹き抜けとなっていて、手摺り越しに一階席の賑やかな様子を見下ろすことができる。
一階は満席と言ってもいいぐらいの混み具合であった。
決して広いとはいえないテーブルとテーブルの間隙を、給仕や給女達が縫うようにすり抜けていく。彼ら彼女らの両手には、グラスを山のように積み上げたトレイや、これから配膳するであろう何枚もの料理皿が載せられている。にも関わらず、飛び込みの注文や問い合わせがあれば愛想良く対応をしていく――。
なんて素敵なんだろう。
特別なものは何もなかった。給仕は、変哲もないシャツにズボンという格好であり、給女もまたブラウスにスカートという格好である。統一されているのは前掛けぐらいである。
それでも。
給女は、まるでステージを舞う踊り子のようであったし、給仕は、その踊り子と肩を並べる騎士のようであった。そう思えるほどに彼らの動きは洗練されていた。
食事と会話を楽しみたい模範的な客への歓待は当然としていながらも、ふらっとひとりで立ち寄ったり、あるいは仲間と飲んで騒いだりできる気軽さもあり、全ての需要に、十二分に対応できる懐の広さがこの店の魅力なのだろう。
カイル君は、ここを値段相応のお店と評したが、きっとそれは正当ではないだろう。確かに客層はこの騒ぎからも察しが付いてしまう程度だが、店側の対応は立派に過ぎる。自分の服装が場違いではないかと心配してしまうくらいには。
カイル君は鎧、いわば騎士団の制服であるからいいとしても、私はもうちょっと良い格好をしてくるべきだった。ただでさえ私はファッショに疎いのだ。コートを給仕に預けてしまえば、それこそ地味な女子大生でしかない。
(余談ではあるが。少し前、今日と同じ服を弟に見せたことがある。そうしたら彼は「モノトーンを勘違いした芋だぜ」と述べ、嘲笑するどころかむしろ心配してくれた。女性モノのファッション誌まで買ってきてくれた。彼に悪気がないのは分かっていたが流石に泣きそうになった)
支配人らしき年配の男性は、私達を席に案内して注文をとった後、どうぞごゆっくり、と告げて去っていった。執事かホテルマンにも似た、落ち着いた立ち振る舞いであった。
一階席と比較して、二階の混み具合は然程でもない。また無礼講と言わんばかりに騒ぐ客ももいない。皆、小綺麗な格好に身を包み食事を愉しんでいる。どうやらフロアによって客層の線引きがされているようである。
「僕一人であれば一階のカウンター席で黙々と済ませてしまうんですが、今日は奮発して二階席をお願いしてしまいました。初めて座りますが、中々いい眺めですね」
カイル君はそう言って、一階を見下ろしたのちに天井を見上げる。天井はドーム状になっていて、高いところで梁が十字に走り、その中央からシャンデリアが吊り下がっている。夜には蝋燭が灯されるのだろう。
梁の上に、黒い人影がちらりと見えたような気がするが――きっと清掃か設備管理の人間だろう。
「このお店、夜もやっているの?」
「ええ。夜は主に酒場としてですが。あ、行くのはお勧めしませんよ。仕事を終えた船乗りや、親方にこき使われて鬱憤が溜まった奉公、酒を呑むのが公然の秘密となった主教達、何ならウチの連中も何人かが常連ですからね。今以上の大騒ぎで、落ち着いて食事もできませんよ」
「でも、賑やかなのはいいことだと思うな」
「賑やかとは上品な言い方ですね」
カイル君は苦笑いをする。
食事の席で大騒ぎをするのは、きっと国民性なのだろう。ああやって、他人の目を気にせず自分をさらけ出せるのは、人生を謳歌しているようで――私にはできないことである。眩しくすら見えた。少なくとも、戦争を予感して、将来に怯えるよりはずっといい。
「ねえ。あの人達は、戦争のことを知っているんだよね?」
「戦争、ですか?」
カイル君が不審そうに聞き返す。
不用意な発言だったかなと思い彼を見れば、少々困ったように眉根を寄せたのち。
「葉月さんには、あいつらが戦争を忘れているように見えますか」
と聞き返した。
「どう、かな。よく分からない」
周囲を顧みずに喚く姿は、戦争など露も知らぬようにも見えるし、あるいは単なる現実逃避にも見えてしまう。鈍い私には、それ以上のことは察し得なかった。
「知っていますよ。あいつらは確かに馬鹿ですが――それでも、頭の回る馬鹿なんです」
カイル君は庇い立てするかのように言った。
「この街の人間は皆、戦争がもうそこまで来ていることは知っているんです。一歩間違えれば、明日にはこの街が戦火に包まれてしまうことも。葉月さんからすれば、あんな風に騒いで、変わらない日常に留まっているのは不思議に見えるかも知れませんが、それが奴らの生き方なんです。街の中心には大聖堂がどんと構えて、歴史と宗教だけが取り柄のような古臭い街でも、人間までがそうだとは限りません。連中の名誉のために言いますが、あいつらは他にやりようがないから騒いでいるのではありません。あえてあのように振る舞っているんです。そこには、きっと誇りのようなものがあるんだと思います」
「そう、だったんだね」
私は思う。戦争の足音を聞きながらも日常を変わらずに過ごすというのは、なんと勇気がいることだろうと。私であれば、身の保身を考え真っ先に逃げる算段を立てるのかもしれない。そうでなくとも、今朝、私を励ましてくれた運び屋のように将来を憂うはずだ。
個人だけの話には留まらない。社会についても同様である。
私が、教科書や博物館にあるような資料としてのみ知る戦争は、赤紙や学徒動員があったり、食料が配給制になったり、鉄は全て軍事生産に回されたり――端的に言えば総力戦であった。
幸福な日常を犠牲にして成り立つものが。勝利のため、他の一切をなげうってするものが戦争である思っていた。欲しがりません勝つまでは、などという標語が最たる例だろう。
だが、この街は違う。大国に押し潰されそうである今この時も活気に満ちて、どこにも戦争の気配は感じない。果たして、個人と社会の両方が成熟しているだけで、こうも人間らしさ――『人間性』とでも言うのだろうか――を保てるものだろうか。
疑問に思ったから私は尋ねた。
「あの人達を支えるものは何だろう」
どうしてああも人間らしく振る舞えるのだろう、と。
「おそらく、人としての誇りでしょう」
そしてそれは満月がもたらしてくれるものです、と。
「それは、皆には宗教があるから、という解釈でいいのかな」
「そうです。ああ、そうか。葉月さんはこの国のこと、あまり知らないんでしたっけ」
「うん。正直いうとね、私には信仰なんて大層なものなんてないの。自分でもどうして奇跡を使えるのか不思議に思っちゃうくらいにはね」
ウィリアム様は、私には自覚がないだけで信仰が宿っているようなことを以前仰ってくれたが、言いくるめられたようで、どうにも腑に落ちなかった。
きっと今の私は、純白の外套と大小二本の杖に使われている聖女未満の存在なのだ。この国の宗教を学べば――ウィリアム様曰く、畏怖と崇拝からなる信仰心を持てば――奇跡を自在に扱うことができるのかもしれない。
そういえば、喫茶店の本棚には聖書のようなものがあったはず。
今度時間を作って読んでみるものいいかもしれない。
「カイル君。この国の宗教って、どんな感じなの?」
「どんな感じ、ですか」
「曖昧な聞き方でごめんね。私がこの国の生まれじゃないことは知ってるよね。私のいた国では、宗教はあったにはあったけど――ひとつの神様を信じるようなものじゃなかったの。神様は大勢いて、それを祀る場所も沢山あったんだけど、皆が皆信じているわけじゃなかった。きっと、神様を信じていない――正確には、それを自覚していない人の方が多いと思う。私自身、胸を張って何かを信仰しているなんてとても言えないもの」
もっとも、無神論者かと言われればそれも違う。
そこまで振り切ってもいない。
元旦には初詣に行くし、子供の頃はお雛様を飾ってもらって喜んでいた。夏には祖父の家で盂蘭盆の仏事だってやっていたし、弟や飼い猫のミケが出入りする居間には神棚がある。冬にはクリスマスを親友と祝った。バレンタインには友達同士でチョコを交換したし、食べきれない分は弟にお裾分けをしてやった。
もっと言えば、丑三ツ刻に一人でお墓に行くことなんて怖くてできないし、神社で買った厄除けの御札を破り捨てることなんてもっての外。仏罰や神罰を恐れる――果たしてそれが、私の裡から生じる悪影響に過ぎないのか、それとも本当に上位者から齎される呪いであるのか証明のしようはないのだが――臆病かつ節操なしでもある。要は典型的な日本人なのだ。
(ちょっと汚い話になるけれど。バスや電車に乗っていて、急な腹痛に襲われたときにはいつも神様に祈ってすらいる。困ったときの神頼みとはよく言ったものである)
だが、それでも私には、他人に誇れるような信仰はないのだと思う。天にいる主に向けて、胸の前で十字を切って祈りはしないし、一日に五回、聖地を向いて礼拝する習慣も当然ない。自分のお墓が何宗なのかも知らないし、近所にある神社の主祭神すらも分からない。
「だからね。カイル君には奇妙に聞こえるのかも知れないけれど――私は、皆のことが素敵だなと思うんだ。何かを信じて、それに誇りを持つということが」
あえて、理解できないとは言わなかった。
少々の間ののち。
「この国の教えを無理矢理一言でまとめるのなら」
カイル君は静かに切り出す。
「巡礼者よ、月明かりの静謐を乱すこと勿れ――でしょうか」
「月明かりの静謐を乱すこと勿れ」
意味も無く私は復唱した。
その文句は、なんの抵抗もなく私の中に収まる。
良い言葉である、と思った。
満月の神秘を遵守しながらも、地を這い天を崇める者を言い現した――警句なのだろう、これは。
どういう意味なのかとは聞かなかった。
あえて言葉にするものではない、というより、何となく理解したからである。周りにいる者は皆、満月を畏れている――否、あの巨大な月を見て、畏れを抱かない者などいないだろうと思ったのだ。
あの月が、最初からああも大きくなかったことは聞いている。以前はごく普通の天体だったらしいが、あの満月を見てからでは想像もできなかった。
私が何か言おうとしたとき、来ましたね、とカイル君が言った。控え目に振り返れば、先刻の給仕が料理を持ってきたところであった。
カイル君は『神秘熊の煮込みシチュー』、私は『茹で海老と刻み野菜のサラダ』である。固そうな二切れのパンと、香草が浮いたスープはセットらしい。
「早速いただきましょう」
カイル君は、銀製らしき食器を取った。私もそれに倣い、スプーンとフォークを足して二で割ったような食器――学校給食で出た先割れスプーンに近い――を取る。当然、箸はなかった。
「熊肉は味に癖がありますし、森で出会えばちょっとだけ面倒な相手ですが、それでも奴らを駆除する狩人達には感謝しなくてはいけませんねえ。鉈と猟銃を持って、全身血塗れで表通りを闊歩するのだけはいただけませんが」
シチューに浸したパンをリスのように頬張り、カイル君は美味しそうに言った。事実、美味しいのだろう。肉と野菜の旨味を凝縮した香りがこちらにまで漂ってくる。
私の方は、彩り豊かで瑞々しい野菜が、大きな海老と共にボウル盛り付けられている。その身肉をひとつ食べれば、ぷりぷりとした食感があり、コツがあるのだろうか塩加減もちょうどいい。美味しかった。大袈裟かもしれないが、サラダ一つとっても料理人の拘りが透けて見えるような気がした。
テーブルマナーはうろ覚えであったが、カイル君がパンにスープを浸している以上、それを気にするのも野暮というものだろう。そもそも、この国の常識や礼節すらも知らないのだから気にしたところで仕方ない。
出される料理、そしてメニューを見た限り、日本とそう大差ないものであった。この国の人間が好みそうな味覚も、そう癖がないように思われる。独特な発酵食品だったり、癖のある香辛料が使われていたりもしない。主菜となるのは肉や魚、野菜であり、それらの調理ないし風味づけに油脂や酒、香辛料が使われて――西洋風の料理に似ているのかも知れない。もっとも、神秘熊なる生き物や肉厚にすぎる海老などは私の知るものではなかったが。
(これなら、喫茶店のメニュー候補も受け容れられるかもしれない)
実は不安に思っていたのだ。
作った料理が不味いと言われたらどうしようと。
食事の合間合間に、喫茶店の具体案をカイル君に聞いてもらった。
現在想定しているメニューはこのようなものであるとか。今は二人ともパンを囓っているが、この国の主食はパンなのか。米は一般的なものなのか。きみが食べているのは熊肉だが、他にはどんな肉があって、それぞれどんな特徴があるのか。それなら魚介はどうか。野菜や果物はどうか。茶房ゆえ珈琲と紅茶をメインに据えようと考えているが問題ないか。またお客様にお出しする料理に祝福を使いたいと考えているが悪目立ちしないか。そうなった場合、騎士団にとって都合は悪くないのか。そもそも喫茶ないし軽食の需要はあるのか――。
カイル君は、ひとつひとつの質問に、真摯に答えてくれた。
彼の返答を総括すれば――何も問題ないとのことであった。私が祝福を使うことに難色を示すと思っていたが、それについても彼は快く頷いてくれた。
「聞いておいて何だけど、本当にいいの?」
「ええ。祝福をしてくれる喫茶店なんて絶対に流行るじゃないですか。むしろ使わない選択肢はありませんよ。そんなお店、僕だったら毎日通っちゃいます」
「ありがとう。でも、きっと目立つよね きみの負担にならないかな」
遠回しに、仕事を増やしてしまうのでは、と聞く。私だってアルフィー様に釘を刺されたばかりなのだ。わざわざ自分から命を狙われる機会を増やそうとは思わない。
「大丈夫ですよ。というか、逆ではありませんか?」
「逆?」
なんのことだろうか、と聞けば。
「え、だって僕らは葉月さんに助けられているんですよ。というか無理を言って侍女をお願いしている側なんですよ僕たちは。その恩返しにお店の手伝いをしようとしているんです。ほら、副団長も理屈っぽく、つらつらと長ったらしく喋っていたじゃありませんか。葉月さんには何人分の価値があるって。だから、なんというか、こう――もっと自由にしていいんじゃありませんか。あなたがやりたいことをやるために、副団長は僕をつけたんだと思います」
「そう言ってくれるのはありがたいけれど」
生憎、誰かが護ってくれるならいいやと気楽に振る舞えるような度胸は持ち合わせてはいないのだ。どちらかといえば臆病な性分ですらある。
「私の方が皆に助けられているんだよ。対価としてお給金はいただいているし、この間は商業組合の組合長まで紹介してくれたんだよ。仕事だって午前中だけだし――条件を付けたのは確かに私の方だけど、それでもかなりの好待遇だと思う。これ以上望むのは贅沢じゃないかな」
「でも、それだって葉月さんが月蝕病になりかけた団長を救ったのが始まりなんでしょう? 僕らは恩返しをしているんです。これでも一応は騎士団なんて大仰な名前を戴いておりますから、貰いっぱなしは矜持に関わるんですよ。葉月さんは、もっと堂々としてもいいと思いますよ? まあ、僕からしたらありがたい話ですけどね」
そこで、カイル君は最後となった一切れのパンを口に放り込み、固そうに何度も何度も咀嚼して――それでも飲み込めなかったのか、手元にあった水で流し込む(水には麦酒と同じ小銀貨三枚の値段がつけられていた。水が貴重な国でもなさそうであるため、席料の代わりなのかもしれない)。
「そういえば、お店の名前は決まっているんですか?」
先刻の話は終い、とばかりにカイル君が聞いた。確かに、善意の応酬における謝意や遠慮がどうという話なんて永久に決着が付きそうにない話題である。
「それがどうしても決まらないんだよね」
「珍しいですね。自分の店を持ちたいというやつは真っ先に屋号を考えるものだと思っておりました。かくいう僕も、自分の店を持つならカイル商店だとか宿屋カイルだとかになるんだなぁと皮算用していた時期がありました」
ネーミングセンスについては言いっこなしですよ安直なのは自覚しておりますから、と水の入ったグラスを片手に、カイル君は懐古するように目を細める。
どうしてきみは騎士団に入ったの?
そう聞きたかったが、止めた。人には多種多様な事情があり、根掘り葉掘り聞くものではない。余計なことを口にして気まずい思いをしたことは過去にも何度かあった。経験則である。
「どうして、葉月さんは喫茶店を開こうと思ったんですか?」
「喫茶店が好きだから、かな」
私が迷いなく答えれば、カイル君は再びグラスを傾けたのち。
「それなら、その好きな思いを名前にしたらいいじゃありませんか」
と、難しいことを、さも簡単なことのように言ってのけた。
「あ、すみません。別に揶揄っているわけではなく――」
表情に出ていたのだろう。
私の顔を見て、カイル君は慌てて弁明しようとする。
「分かっているよ。変な顔をしてごめんね。もう少しだけ考えてみるよ」
「あのう、今の失言、団長や副団長に絶対に言わないでくださいね」
「え? どうして。というか失言だと思ってないよ」
「どうしてって、僕がこってり怒られるに決まっているじゃないですか。団長の方は特に。本当にお願いしますよ」
そう言ってカイル君は冗談半分におどけてみせる。
ウィリアム様が私を気に掛けてくれていることに悪い気はしなかったが、それよりも心配なのは彼の身である。
「葉月さん。僕は追加で珈琲を頼みますが、葉月さんは何にしますか?」
「私も珈琲にしようかな」
片手を上げて、給仕を呼びつけると、カイル君は珈琲をふたつ頼んだ。
珈琲はすぐに来た。
カイル君は躊躇なく砂糖を入れると、スプーンでくるくるとかき混ぜる。
私も、まずはブラックのまま一口つければ――最初に感じたのは、鮮明な苦みであった。次いで丸く軽やかな酸味と、珈琲らしい香りが追いかけてくる。余韻はほんのりと甘い。
(美味しいには美味しいけど、私にはちょっと重たいかな)
エスプレッソを優雅に愉しむイタリア人ではないけれど、カイル君を見習って私も砂糖を入れることにした。スプーン二杯の砂糖を入れるだけで、味の印象は打って変わり飲みやすいものになってくれる。
「カイル君。ウィリアム様は、まだ帰ってこれないんだよね」
「ええ。心配ですか?」
「それはそうだよ。私は戦争のことを何も知らないけれど、何が起きるか分からないでしょう? 無事に帰ってくれる保証なんてどこにもないんだから」
「お気持ちは分かります。でも、心配は無用です」
カイル君は断言した。
「あの人は本当に強い人ですから。今は後詰めの部隊と合流して、そちらの指揮をとっております。守秘義務に反するため、本当は口外できないのですが――僕たちの小隊が、たった一騎の騎馬兵に蹴散らされて仕方なしに撤退を決めたときも、あの人は殿を務めたくせに無傷でしたから。最前線に立って部下を守ろうとする指揮官なんて。しかもそれで全くの無傷どころか敵兵を返り討ちにしてしまうんだから、我らが団長は凄まじいんですよ」
だから大丈夫ですよ、とカイル君は笑ってみせる。
私を励まそうとしているのだろう。
人間らしい温かい笑みであった。
だが、気になることがあった。
「騎馬兵というと、もしかして黒い馬の大男だった?」
「ええ。そうですが、どうしてそれを」
「今朝、お店に食材を運びに来てくれた人が教えてくれたの」
運び屋の男性から聞いた話をカイル君に伝える。黒い馬と大きな得物を恃みに数々の戦績を積み上げた猛者であるらしいことを。不死身と称されていることを。この度の戦争に派遣されたことを。お昼時に話す話題ではなかったが、今更であった。
「不死身か。なるほど道理で。噂というのも、存外あてになりますね」
訳知り顔でカイル君は頷く。
「どういうこと?」
「いや、聞いても面白い話ではありませんよ」
「でも、ウィリアム様が気になるの」
教えてお願い、と私が乞えば、僕が戦況を喋ったなんて秘密ですからね本当に頼みますよ本当にお願いですからね、と早口で言ったのち、カイル君は渋々と話し出す。
「その不死身とか言われている騎馬兵が、何度もご自慢の薙刀で団長に斬りかかったんです。大方、頭を殺れば僕らが瓦解すると考えたんでしょうが――そこは流石、団長でした。雑に振られた横薙ぎを盾で弾いただけであいつを落馬させたんですよ。間髪入れずに団長は駆け寄り、そいつの胸元を剣で貫いたんですが――それでも、そいつは起き上がったんです」
「え?」
「起き上がって――また馬に跨がると、そいつは団長には敵わないと分かったのか、今度は他の者に斬りかかったんです」
「…………」
「確かに、魔術で篝火を隠しているから自分が安全圏にいるんだという油断はありました。縦しんば敵に見付かったところで、密林という立地ゆえ歩兵同士の戦闘であり、魔術を使える僕らに分があるだろうと、たかを括っていたのも認めます。ですが、真夜中の森に騎兵が出張ってくるなど予想外でした。しかもそいつが何故か死なないものですから、僕達も流石に面食らいましてね。そして案の定とでも言いますか、浮き足だったところに矢が中ったわけです。いやはや、団長に僕らは戦っていけると息巻いた結果がこの様ですから、情けないにもほどがあります」
まあこうして僕は生きているし小隊も誰一人として欠けていないから敗北ではありませんがね、とカイル君は肩を竦めてみせる。
「――ん、ちょっと失礼」
不意にカイル君が立ち上がった。
「どうしたの?」
「いえ、ちょっと野暮用ですよ」
すぐに戻りますから、と言ったカイル君は、鉄兜を被り直すと、左腰の剣と杖を手で確認したのち、足音もなく去って行った。
階下を見れば依然として騒がしい。酒も入り顔を赤くした男達が取っ組み合っているし、それを囲う者達は、いいぞいいぞと煽っている。傍観していた老人に至っては、逆さまにした紳士帽に見物客から巻き上げた金をせっせと収めている。どうやら賭け事のつもりらしい。この騒ぎを商機と見た給女の一人は、鎮静を呼びかけるでもなく、グラスに入った麦酒を次々と売りつけていく――。
カイル君は騎士団の一員としてあれを止めに行ったのかもしれない。
だが、いくら待ってもあの場にカイル君が現れはしなかった。誰からの静止もないまま、喧嘩未満小競り合い以上の見世物は終わってしまった。投げ飛ばされた側も投げ飛ばした側も互いに笑っていることから、これ以上の発展はないだろう。二人の男以上に笑っているのは、賭けの元締めとなった老人と、臨時の売り上げを得た給女であるが――。
では、カイル君は一体どこに行ったのか。
お手洗いだろうか。
それとも会計を済まそうとしてくれたのか。
しかし、去り際に見た彼の横顔は、何かを決心した男の顔つきであった。それはつまり、彼は仕事をしにいったということになるが――。
「そこのお嬢さん。ちょいとばかし時間をくれねえか?」
不意に話しかけられた。
顔を上げれば、目の前にひとりの男が立っていた。
鎖帷子に身を包み、弓手にはアイロン型の金属盾を、馬手には抜き身の直剣が握られている。とてもこのような場所には相応しくない格好であったが――何より目を引いたのは、この世の全てを倦んだかのような酷くくたびれた表情であった。
明かり取りの窓から差し込む細い陽光に照らされ、鎖帷子は薄らと青い光を放っている。
心臓が、どきり――と跳ねた気がした。




