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22.私が執務室に呼び出されたのは、血みどろになった医務室の床磨きが終わった昼前のことであった。

 私が執務室に呼び出されたのは、血みどろになった医務室の床磨きが終わった昼前のことであった。


 朝の一件の後、消耗した私を気遣ってアルフィー様は帰宅してもよいと言ってくれたが、残ってアリス達の仕事を手伝うことにした。もう少しだけ、誰かのために働きたかったのだ。

 優しい皆は、私を役立たずだとは思っていないのだろうが、私はカイル君を治せなかったことを気に病んでいた。あの場に仮面の騎士が来てくれなかったらと思うと背筋に冷たいものが走る。


 朝は怪我人で溢れていたこの部屋も、今では利用者も激減していた。奇跡でも治しようがない手脚を欠損させた者こそ残っているが、新たに立ち寄るのは、奇跡を使うまでもない軽傷者ぐらいであった。


 伝言役として私を呼びに来たアリスに断ってから、医務室を抜ける。

 ここに来て五日目、もう迷うことはない。

 三階の執務室。重厚な木製のドアを軽く叩けば、どうぞ、とアルフィー様の声が響く。入室すれば、談話スペースの安楽椅子にアルフィー様が座っていた。その横にはカイル君が直立不動で控えている。


 直前まで書類仕事や作戦立案をしていたのだろう。テーブルの上には沢山の書類の他に、図面や地形図までもが広げられている。

 中でも目を引いたのは、一目でそうと分かる上質な封筒であった。赤い封蝋は破られ、収められていたであろう数枚の便箋には流麗な文字が(つづ)られていた。かろうじて読み取れたのは『近日中に麾下(きか)と共に向かう。それ(まで)潰走(かいそう)すること(なか)れ』という堅苦しい文言だけであった。


「お呼び立てして済みません。どうぞお掛けください」


 私の視線を感じたのか、アルフィー様は手早く書類を纏めてテーブルの脇に除ける。対面のソファを掌で示した。私も、一言断ってから着座する。


 アルフィー様がいかなる用件で私を呼び出したのかは分からなかった。この場にカイル君がいることから察するに、彼の怪我に関することだろうか。ともすると、今朝の治療に対する苦情だろうか、などと頭の中でごちゃごちゃ考えていれば。


「葉月殿。具合の程はどうです?」


 ウィリアム様が尋ねた。


「もう大丈夫です、ご心配をおかけしてすみません」

「いえ。こちらこそ貴女を酷使してしまい申し訳ありません。監督不行き届きでした。そのお詫びというわけではありませんが、是非、貴女にお渡ししたいものがありまして」


 勿体振った口調でウィリアム様は言うと、床に置いた鞄から小さな硝子瓶(がらすびん)を取り出して目の前に置いた。私の手首から指先くらいまでの寸法をしたその小瓶には豪華絢爛な装飾が施され、その中身は淡い青色の液体で満たされている。

 香水にも化粧にも見える液体は、どこまでも冷ややかな光を湛えて、私を凝然(じっ)と見詰めている――。


 この瓶を見た瞬間、カイル君が言葉を発しないまでも、ひどく驚いたような顔をした。


「これは、何でしょうか?」

「聖水です」


 アルフィー様が答えた。だが、聖水とは耳慣れない言葉である。宗教用語だろうか。


「聖水とは、端的に言ってしまえば祝福を与えられた水のことです。この小瓶に詰められた聖水は中でも特別製であり、逸話が残っているのです。曰く、我が国の王妃(おうひ)が、今や誰も寄りつかなくなった故も知らぬ戦士達を(まつ)る墓地に(おもむ)き、彼らを祝福した際に作られたものである、と。『秘めた祝福』とでも言いましょうか」


 秘めた祝福――。

 何とも奥ゆかしい響きであり、私の中に不思議な余韻を残していった。


「この聖水には、消耗した集中力を回復させる効能があります。いざという時に備えて携帯しておいた方がよろしいでしょう」

「そんな逸話があるなんて、貴重な物ではありませんか?」


 今もなお小瓶を凝視しているカイル君の表情から察してもそうだ。きっと、お金では買えないような価値がある――否、下手をすれば()()()()()()()()()類のものではないだろうか。


「まあ、仰る通り確かに貴重ではあります。その貴重さゆえ後生大事に匿っていた訳ですが、いかなる逸話があるとはいえ所詮は道具、消耗品でしかありません。今日だって使い惜しんだ結果、未来ある若者を死なせかけたのですから、実は反省しているのですよ。私のような愚か者より、貴女が持っていた方がためになるでしょう。そういう訳ですから、さあ、お受け取りください」

「すみません。ありがとうございます」


 命云々を言い出されてしまっては、断りようがなかった。

 手を滑らせて割ってしまわないように、赤子を抱くように両手で持ち上げようとして――手が止まった。

 瓶に修められた液体の(きら)めきに――その美しさ、その儚さ、その神々しさに――()せられたのだ。吸い込まれるような錯覚を抱く程、清らかな光であった。まるで、満月をそのまま閉じ込めたかのような。


 私が、菓子や珈琲にふりかける簡便な祝福とは、格というものが遙かに違う。液体に込められていたのは、正真正銘、誠実な祈りであった。死者に対する、切実で、純粋無垢な――信仰そのものであった。


 アルフィー様は、カイル君を死なせかけたことを反省している旨を述べたが、人によっては、これを消費するくらいなら彼をそのまま死なせるべきだった、と言うかもしれない。そう思ってしまうほど、聖水の出来には鬼気迫るものがあった。


 きっと、私が同じ聖水を作ろうとしても、遠く及ばないまがい物にしかならないだろう。騎士団の皆様には、その「まがい物」を提供しているのだが――それは所詮、生者への施しである。すなわち、有る者から無い者へと――高いところから低いところへ流れ落ちる水のように――簡単で、誰にでもできる祈りなのだ。生者から死者へ――この大地から彼方の満月に捧げるような、純真かつ崇高な祈りとは、文字通り天と地ほどの違いがある。


 まがい物が悪だと言う気はないが、惨めな気持ちになってしまった。やはり私は聖女などと呼ばれるに相応しい人間ではないのだ、と悟ってしまった。


「葉月殿? どうされましたか」

「すみません。何というか、その、圧倒されておりました」

「貴女には分かるのですね。これがどれだけ貴重なものであるか」


 ここで言う貴重とは、当然品数の多寡(たか)ではない。品質を言っているのだ。側で聞いているカイル君がそれを理解しているのかまでは分からないが。


「一応伺いますが、葉月殿は、これと同程度のものを作ることは?」

「まさか。とてもできません。そもそも、どうやって作ったのかすら見当が付きません。いえ、きっと製法が分かったとしても、私には作れないと思います」

「ふむ。確かに、この聖水は(もっと)もらしい逸話こそありますが、具体的な製法は秘匿されております。(ちまた)では、雪解け水を満月に百日浴びせたものだとか、聖職者が死者を想い流す涙に違いないとか、色々と真実(まこと)しやかに(ささや)かれてはおりますが、所詮は眉唾でしょう。まさに『秘めた祝福』というものですが、効果は保証します。実は、私もそれを一滴だけ舐めたことがあるのですが、それだけで集中力は回復しましたからね」

「なるほど。飲み干せばいいものではなかったんですね」

「……それだけは、できれば止めていただきたい」


 苦虫を噛み潰したような表情でアルフィー様は言った。


(この人も、こんな顔するんだな)


 小さな感動を覚えながら、受け取った小瓶をポーチに収める。蓋はしっかり閉ざされており、硝子にもそれなりの肉厚がある。漏れたり割れたりという危険はなさそうであった。


「前置きはこれくらいにして、そろそろ本題に入りましょう」


 私が小瓶を滞りなく収めたのを確認してから、アルフィー様は言った。聖水を渡すために呼び出されたものだと思っていたが、どうやら違ったらしい。


「貴女を呼び出したのは、ここにいるカイルについてです」


 カイル君は、私に向けて目礼をしてみせる。


「どういうことでしょうか?」

「葉月殿に提案があるのです。こいつを、貴女の護衛につけようと思いましてね。いや、護衛と言うと(いささ)か大仰だ。下働きとでもお考えください。いかがです?」

「――あの、すみません。話の意図が見えないのですが」

「これは失礼、流石に唐突でしたね。それでは順を追って説明しますが――このカイル、王都商家の出身であり、ここに来るまでは、とある宿屋で奉公をしておりました。それゆえ頭の回転は速く、またそれなりの算術も修めております。男手が必要になることもありましょう。先日の、組合長との席で、貴女に商いの経験がないとも聞きました。以上、諸々のことを鑑みて、貴女の補佐にカイルをつけようと思い立った次第であります」


 そこで、アルフィー様はいつもの薄い笑みを浮かべる。本心をひた隠しにして、己の要求を相手に呑ませようとする参謀らしい顔である。


 この提案は、確かに私にとっては渡りに船であった。

 お店のことを誰かに相談したいなと思っていたし、掃除にしても何をするにしても人手があれば助かるなと常日頃から感じていたのも事実であった。また、その手伝いがカイル君であることに何の不満もなかった。


 けれど――。


 私は、ちらりとカイル君を見る。

 彼はそれを望んでいるのだろうか。

 補佐の存在はありがたいが、彼にだって果たすべき役割はあるはずなのだ。


 だが、口許を引き結んだ彼の表情からは何も読み取れない。何かしらの極秘任務を言い渡された兵士のような顔で――私が知っている人懐こい少年はどこにもいなかった。


「どうです、葉月殿。カイルはお役に立つと思いませんか?」


 アルフィー様が静かに間合いを詰める。


「あの、申し出は大変有り難いのですが、その、本当にいいんでしょうか?」

「と仰いますと」

「いえ、ですから――今はこういう状況ですし、騎士団の皆様も、カイル君が抜けてしまっては、困ってしまうのではありませんか。それに、カイル君本人の意思もあるでしょうし、私の一存で決めてしまっていいものではないように思うのです」


 彼本人に直接尋ねたことはないが、皆から漏れ聞こえる評判の限り、カイル君は騎士団でも一目置かれるような存在――例えるなら幹部候補生とでも言おうか――であると私は考えていた。彼がいつも身につけて離さない青色のスカーフだってきっと勲章のようなものだろう。誰もいないところで、彼が誇らしそうに撫でていたのを見たことがある。

 そんな彼に喫茶店の手伝をさせるなんて。それで困る人が出てしまうなら、この話を受けるべきではないだろう。


 アルフィー様は、少々の間、私を見詰めたのち。


「貴女は(さと)い。良く周りを見ている」


 と観念したように漏らした。続けて。


「ですが、現場を心配する必要はありません。それはそうと――カイル。お前の意思はどうだ?」


 カイル君を一瞥もせずに聞く。


「異論はありません。いえ、私に奇跡を使ってくれた恩返しをしたいと考えております」


 どうか、私を側に置いていただけませんか、と言ってカイル君は頭を下げる。やはり彼の本心は読めなかった。


「葉月殿。何か裏があると勘繰っておりますね?」

「――あ、いえ。そういうわけではないのですが」

「いいんですよ、正直に仰っても。貴女の想像通り、思惑があるのも事実ですから」


 アルフィー様は愉快そうに笑みを深めた。


「思惑、ですか」

「ええ。貴女の聡明さを見込んだがゆえに白状致しますが、貴女に何かあって困るのは我々なのです。言い方を変えれば、貴女は護衛されるに値する人間なのです」

「本当にそうでしょうか。買い被りすぎではありませんか?」

「そんなことはありません。貴女は今日だけで七人の命を救った。呆れるくらい乱暴な計算ですが――現状、貴女には兵士七人分の価値があるのです。そしてその価値は、貴女が我々に奇跡を(もたら)してくれる分、増えこそすれ減ることはありません。そう、貴女はもう少し自分の身に頓着なさった方がよろしいでしょう。脅すつもりはありませんが――仮に私が帝国側の人間だとして、いかにしてこの国を攻め落とすかと考えた時、真っ先に狙うのは貴女のような人間です。裏方でありながらも人の何倍もの成果を出す人間です」


 アルフィー様は僅かに思案したのち、続ける。


間諜(かんちょう)を何人も走らせて情報を集め、金に()かせて刺客を雇い、どうにかして始末せんとするでしょう。今後、貴女が喫茶店を営業するにあたって、そのような輩が出ないとも言いきれません。不特定多数が出入りする喫茶店という場所は、刺客にとって()()しやすい環境でしょう。ですから」


 そこでアルフィー様は私を見据えて。


「大人しく我々に護らせていただけませんか」


 と言った。

 やはり、その顔は笑顔であった。



 …………。

 ……。



 騎士団での仕事を終え、馬車に乗って私の店に着いたのち。私はカイル君とこの街の南東――商業区画を歩いていた。

 私が彼に、この街では何が売られ、何が好まれているのか――特産品や人々の趣向など、物価を含めて分からないと相談すれば、ならば直接目にした方が早いという話になり、街の散策を提案されたのだ。お互いに昼食を済ませていなかったこともある。


 私の格好は、仕事中に羽織っていた純白のクロークではない。大杖と共に、祖母の部屋にあった衣紋掛けに戻し、代わりに短杖を腰に下げ、新調したばかりの黒いコートに袖を通している。クロークに大杖のままでは、目立ってしまうと思ったのだ。


 流石に、いくら冬用のアウターを持っていないからといって、派手なオレンジ色のドテラを着る度胸はなかった。罰ゲームにしかならない。違う意味で目立ってしまうだろう。


 青い空に白い太陽が浮いている。

 気温こそ高くはなかったが、日差しは暖かで寒いとは感じなかった。


 大河沿いの大通りには、昼過ぎという時間帯のせいか大勢の人が出歩いている。

 辺りには飲食店や屋台が密集しているらしく、風に乗って食欲をそそる様々な匂い――粉物を煮立てた時の、湯気に混じったのあの匂い、油を絡めた肉が焼ける匂い、野菜をふんだんに使ったスープの匂い、それと少々ばかりの香辛料だろうか――が漂っている。


 この国で、本格的な食事をしたことは未だになかった。

 官舎の食堂にて出された、バゲットに似た硬質なパンと、鶏の出汁(だし)がきいた野菜のスープを、仕事終わりに軽食としていただいたことがあったくらいである。


「カイル君、どこかお勧めのお店ってある?」


 私の数歩後ろに付き従う少年に振り向けば、ばち、と視線が合った。

 目が合うと思っていなかったのか、少年はどこか照れたように目を逸らしてしまう。ここだけを見れば、中高生くらいの、年頃の男子である。もっとも、この国で立派に生きている彼のことを、異邦人である私が子供扱いできるわけもなかったが。


「どうしたの。私の後ろに何か付いてた?」


 聞きながらコートの襟元を確認する。

 一応、値札(タグ)は事前に取ったつもりであったが。


「――いえ、見事なお召し物だと思いまして」


 不躾でした失礼しました、と言って、少年は頭を下げた。


「そんなことないよ。安物だったし、何より地味でしょう?」

「地味なんてとんでもない。裁縫が綺麗で、非常に精巧な出来映えです。さぞや名のある仕立屋が作ったのではありませんか?」

「そんなことないって。これは手縫いじゃなくてミシン――機械で縫った大量生産品だよ。この国にだってあるでしょう?」

「確かに、足踏み式の縫い機というものはあります。ですが高級品であり、作られる物もまた高級品です。ゆえにそう多くは出回っておりません。仕立屋の連中が難癖を付けて、縫い機の普及に反発していることもありますが」

「そうなんだ。ちょっと意外かも」


 機械縫いは大量生産が可能ゆえに安価になると思ったが、そう簡単な話でもないらしい。


 街を()()う人々の衣装を見れば、確かにその多くが手縫いのようにも見える。

 あそこの少女の前掛けは、よく見れば(すそ)がほつれているし、あちらの男性は、シャツの(そで)周りがどこか歪である。しかしながら、それらの(ほころ)びは彼らの営みに馴染んでいるように見えて――ある程度の廃棄を想定した大量生産品には持ち得ない、人間らしい温かみを感じさせる物だった。


「それじゃあ、きみのスカーフも機械で縫ったもの?」

「これですか。これは――そうですね。きっとそうだと思います」


 似合っているよ、と私が言えば、ありがとうございます、と少年はまた照れくさそうに頭を下げた。彼の素直さは、不良である弟にも見習わせたいところである。本当に。爪の垢でも煎じて飲ませたい。


「カイル君、お昼ご飯にお勧めのお店ってある?」

「そうですね。この通りですと、すぐの先に肉料理で有名な店があります。もう少し海側に歩けば魚介を取り扱っている店が。パンやピザといった焼き物であれば神学校のそばにいい店を知っています。葉月さんは、食べられない物はありますか?」

「好き嫌いはこれといってないかな。それにしても詳しいね」

「非番の日はいつもこの辺りで済ませているんです。昔取った杵柄――と言えるほど経験を積んでもおりませんが――どんな店があって、どんな接客をして、どれだけ儲かっているのかが入団した今でも気になってしまうんです。店の人間に顔を覚えてもらえれば、こっちとしても仕事がしやすくなりますからね」


 そう言って笑う彼は、世渡りや処世を知っている早熟な少年そのものであった。


「葉月さんは、何か食べたいものはありますか?」

「これといって希望はないんだけど、この町の人が、どんなものを、どんな価格で食べているのかを知りたいの。だから、豪華なお店じゃなくて人が多いところがいいかな」

「なるほど、敵情視察というわけですか。分かりました。そういうことでしたら五番街の大衆食堂に行きましょう。あそこはメニューが豊富で値段も手軽、それゆえ人気がある店です。しかしながら、それ以外の部分――店構えや接客の質はお察しと言いますか値段相応ですが、まあ、あれほど標準的な他に店はないでしょう。よろしいですか?」


 私が頷けば、私を先導するようにカイル君は歩き出す。

 それとなく周囲の人間ひとりひとりに気を配りながら自然に歩む彼の姿は、案内役というより(こな)れた護衛そのもので――アルフィー様が彼を指名した理由にも察しがついてしまう。

 彼は、街に溶け込んでいるのだ。

 首元の青いスカーフこそ目を引くものの、着崩した鎧に、脱いだ鉄兜を腰にぶら下げ、装備しているのは短く寸胴な剣と棒切れのような杖だけである。まだ幼さが抜けきっていない彼の顔つきも相まって、その姿は、久々の休日に、浮かれて街をぶらつく若者にしか見えなかった。


 ならば、きっと。

 彼の後を付いて歩く地味な私は、非番の兵士に案内を頼んだ余所者か、もしかしたら彼の姉に見えるのかも知れない、と思った。


「こちらです」


 大通りを一本裏に逸れたところにその店はあった。

 余程の人気店らしく、軒先で立ち止まる私達の横を、多くの者が入っていき、またそれと同じくらいの者が、満足そうな顔で出ていく。


 店内のがやがやとした喧噪はこちらにも届いて――ざわめきに負けじと声を張る上げる給仕や厨房で矢継ぎ早に指示を飛ばす料理長、昼間から酒に呑まれて怒号を上げる荒くれ者達、大声で井戸端会議に勤しむ貴婦人達、一杯の安酒を片手に壁に向かって何やら喚き立てる薄汚い浮浪者、給女の一人を口説こうと一輪の花を縋るように握り締め果敢に喋っている伊達男、母とはぐれて泣き出す幼子、盗みを働こうとしてあえなく用心棒に引っ捕らえられた少年――あえて覗かずとも分かる盛況ぶりであった。


 表の垂れ幕には『五番通りの大衆食堂』という、何の捻りもない文字が堂々と威張っており、隣の不格好な看板には、品と値段が板に掘られている。

 前評判の通り、肉や野菜などに関わらずメニューは豊富であったが、私にはいまひとつ金額が掴めない。


 例えばドリンクのひとつである『麦酒(ビール)』に付けられた価格――小銀貨三枚には、果たしてどれだけの価値があるのか。

 砂漠で遭難して今にも飢えて死にそうになった時、自販機のコーラ一本に出すのもためらうほどの金額なのか。あるいは、スリに小銀貨三枚を入れた財布を盗まれても、翌日には忘れてしまう程度でしかないのか。つまるところ、小銀貨三枚にどれだけの効能があるのか――。


 やはり、私には喫茶店を経営する以前の問題として金銭感覚ないし一般常識が欠落しているのだ。営利目的というよりは喫茶店の経営そのものが目的だからまだ良いとしても、メニューの価格決定は他人に任せた方がいいだろう。


「葉月さんは何を頼まれますか? 副団長から頂いたので軍資金は潤沢ですよ」


 カイル君は、にやりと笑って胸元を叩く。財布が入っているのだろうその胸元は、少しばかり膨らんで見える。文字通り懐は温かいらしい。


「どうしようかな。カイル君はもう決めたの?」

「ええ。僕は、ここに来る時はいつも『神秘熊(ルーンベア)の煮込みシチュー』と決めているんです」

「美味しそうだね。私は――うん、『茹で海老と刻み野菜のサラダ』にしようかな。あ、ちょっと待って」


 私は、ポーチからスマートフォンを取り出して看板を撮影した。メニューと価格を、参考までに記録しておきたかったのだ。この世界に来てまで現代の機器に頼るのもどうかと思ったが、使えるものは、なりふり構わず使うべきだと思った。


「葉月さん? 今のは何ですか」

「写真機みたいなもの。さあ、行こ?」


 カイル君は釈然としない顔をしていたが。私が説明するつもりがないことを察すれば、黙って案内してくれた。

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