20.いつもより早く起きた私は、暖炉側の席で少しだけ早い朝食を摂っていた。
いつもより早く起きた私は、暖炉側の席で少しだけ早い朝食を摂っていた。献立は、バターを塗ったトーストと軽く炒めたベーコン、牛乳を少量混ぜたスクランブルエッグ、そして一杯の珈琲という手軽なものであった。
ねじを巻いたばかりのホールの大時計は朝の五時半を差している。
騎士団で侍女として雇われてから今日で五日目である。この世界の生活にも少しは慣れてきた。その間、日本には一度も戻っていない。ここでの生活や文化に慣れるため、あえて帰らないようにしていたのだ。
休暇中の大学生だからできることである。なお課題のレポートは未だに作成途上であるが、締め切りにはまだ余裕がある。焦る必要はないはずである。たぶん、きっと。
弟にも、しばらく家を空けることは既に伝えている。
何をどう勘違いしたのかは知らないが「姉貴にもついに彼氏ができたんだ。今度その人のこと紹介してよ」などと愉快なことをのたまっていた。訂正するのも面倒であり、ムキになって否定するのも癪だったので黙殺したが。
今日早く起きたのには理由がある。まだ慣れぬ寒さで目が覚めたのはいつものことだが、食材の納入業者が来るのだ。
経緯を語れば――。
昨日、侍女の仕事を終えたのちのこと。
副官のアルフィー様が、この街の商業組合責任者と、会ってお話しできる場を設けてくれたのだ。その組合長――鋭い目元が特徴の妙齢の女性だった――に私が喫茶店を開くつもりでいることを、世間話を交えながら伝えれば、あれよあれよという間に、食材の仕入れ先と配送業者を紹介されるだけでなく、困ったときは何でも相談して頂戴、と便宜まで図ってくれるようになったのだ。
今思えば、きっとアルフィー様が根回しをしてくれたのだろう。もしくは、組合長が私と同じ女性であることから、向こうが共感ないし同情を抱いてくれたがゆえの温情だったのもしれない。あるいは、組合長がアルフィー様に向ける熱っぽい眼差しが一番の理由だったのかもしれないが――いずれにせよ、今日がその納入日であった。
早朝とは聞いていたが、時間までは聞くのを忘れていた。
いつ来るのだろうと思った時、正面の扉が三度叩かれた。
「おはようございます。納入に参りました」
穏やかでありながらも張りのある男性の声であった。
口に入れたばかりのトーストを珈琲で流し込んでから、はい今行きます、と返事をする。
閂を側に立て掛けてから扉を開ければ、労働階級らしい、蓄えた口髭が特徴の男性が立っていた。彼の後ろには、くたびれた顔の驢馬が引く幌馬車が停まっている。
「ええと『ハヅキ様』で、『喫茶店用の食材』ですね。どちらまで運びますか?」
「いえ、店先に置いていただければ、あとはこちらで運びますよ」
「大丈夫ですか。結構な量があって、そこそこ重いですよ?」
ほらこの通り、と男性は『小麦五袋』と書かれた木箱を抱えてみせる。見ただけで重量があると分かった。それに今回は、珈琲豆や茶葉はもちろんとして、小麦や米といった穀物、牛乳やバターなどの乳製品、砂糖や塩といった調味料、その他、肉や野菜、卵や油などといった各種食材も頼んでいる。きっと、私だけでは運べないだろう。運べたとしても相当な時間がかかるだろし、朝から筋肉痛になるのもちょっと嫌だ。
「すみません、お店の勝手口までお願いしてもいいですか」
こちらなのですが、と裏口まで案内すれば、分かりました、と男性は嫌な顔もせずに応えてくれた。
食材の搬入と数量の確認が終わったのち。
カウンターに男性を招き、珈琲とお茶請けのパウンドケーキを出した。男性が表と厨房と往復している間に準備をしていたのだ。パウンドケーキは、昨日作った試作品の残りである。
運び入れてくれたお礼と、宣伝を兼ねたもてなしである。かつてお世話になった喫茶店の店主が、いつも配達業者に飲み物を差し入れ、丁寧過ぎるくらい丁寧に労っていたことを思い出したのだ。
良好な人間関係があってこそ僕達はお店を潰さずに続けていけるのだ、と。
これもひとつの営業さ、と。
当時まだ高校生だった私に、店主は誇らしそうに語ってくれた。当たり前のことかも知れないが、きっとその当たり前のことが大切なのかもしれない。
「これはこれは。ご丁寧にありがとうございます」
「運んでくれたお礼ですよ。こんな朝早く、しかも寒いのに。本当にありがとうございます」
さあどうぞ、と勧めれば、パウンドケーキを珍しそうに眺めたのち、男性は一切れをつまんで、大きな口で半分ほど囓ったのち、珈琲で流し込んだ。
「こりゃ美味いじゃないか。お嬢さん、ここは喫茶店なのかい?」
男性は店内を見回したのち、さっきよりも砕けた口調で尋ねる。
「ええ。今はまだ開店準備中ですが、お店を開いたら是非お越しください」
「もちろん。今度、妻と娘を連れてくるよ。オープンの日取りは決まっているのかい?」
「それがまだ。メニューの価格と、お店の名前が決まらなくて」
「なるほどなぁ。ここは立地もいいし、お店の雰囲気も落ち着いているから、きっと流行るだろうな。しかし今の時期に店を開こうだなんて、よく思い切ったな」
「え? 思い切ったって、どういうことでしょうか」
「戦争だって始まるだろう。いや、俺達がそれに気付かないだけで、きっともう始まっているんだ。俺達は騎士様がいるお蔭で、こうして今も日常を過ごしているけど、それがいつまで続くかなんて分かりやしないんだ。もしかしたら明日には帝国軍が攻めてきて、最悪、俺達市民は殺されるのかもしれない。こうして美味しい菓子と珈琲にありつけるなんて今日が最後なのかもしれない」
男性はそう言って、残った半切れを口に放り込むと、カップを呷った。
「あぁ、すまない。別にお嬢さんを責めているわけじゃないんだ。不安のせいで変なことを口走ってしまった。愚痴ったところで俺のような市民に行き場なんてないのにな。妻子を置いて逃げ出すわけにはいかないからな。忘れてくれ」
男性は席を立ち、逃げるように去ろうとするが。
「待ってください」
思わず、呼び止めてしまった。
「やはり、戦争には勝てないんでしょうか?」
今まで、誰にも聞けずにいたことを聞いてしまった。
振り返った男性は、意外そうな顔をしていた。
「あの、私、おかしなことを聞いてしまいましたか」
「そうか。そういえば、あんたは国の外から来たばかりだったか。それじゃあ知らないのも無理はないか」
流暢な言葉を話すもんだから忘れていたよ、と言うと、男性はなんとも言えぬ表情を浮かべた。
「今俺達に戦争を吹っかけているのは北の大国なんだ。こう言うと自分の国を貶めているようで気が引けるが、軍事も文化も人口も、全部向こうの方が一枚も二枚も上なんだよ。そもそも国土の広さからして違う。ほら、あそこに描かれている通り」
男性は壁面に貼られた大地図を指差す。一頭丸々を用いたであろう一枚布の羊皮紙には、左側に弦を張った、上部が膨らんだ歪な欠け月のような――横向きの胎児と言い例えた方が分かりやすいだろうか――大陸が描かれている。
肥大した頭部には『太陽の国・へーリオス』と。
萎びた下半身には『暗月の国・ネアセリニ』と。
国土の差は見たところ四五倍はありそうであるが、それ以前の問題として。
(あぁ、今私がいるここは、暗月の国なのか)
私は今更なことを気付く。
「相手は、大きな国だったんですね」
「大きさだけじゃない。この街の場所もよろしくないんだ。首元を見てくれ」
男性は、地図に向けた人差し指を右方向にスライドさせる。
弧の外側――胎児の首元には『古都・パンセリノス』と書かれている。
地図によれば、今私達がいるこの都市は、北部と西部を国境に接しており、国防上の観点に立てば、どうにも難所なのかもしれない。
「囲まれている、ということですか?」
「その通りだ。しかもここは他の都市からも遠くて、その上悪路ときたものだから、いざ戦争が激化したところで後方支援なんかまず期待できないんだ。運び屋泣かせなんだよこの街は。唯一ありがたい点は、南北が大河に挟まれて、東は海、西は崖と密林といった具合に、天然の要塞に囲われていることくらいかな。いずれにせよ、第一騎士団がいくら精鋭揃いだとは言っても、きっと厳しいだろう。それに――噂があるんだ」
「噂、ですか?」
「ああ。行商をやっている仲間から聞いた話なんだが――何でも、北の大国には不死身の騎士と呼ばれる奴がいるらしくてな。そいつは黒馬に跨がり、巨大な得物を振るう大男だそうで――数々の戦績を積み上げてきた猛者らしいんだ。奴さんも、ついにこの戦争に駆り出されたらしい」
私は何かを言おうとして――自分の胸が、締め付けられるような痛みを発していることに気付く。
(ウィリアム様は無事だろうか?)
何事もないと信じたかったが、そうと言えるだけの証拠は何ひとつとして思い付かなかった。この男性も言った通り、平穏がいつまでも続いてくれる保証などどこにもないのだ。
もしも、仮定の話として。
(ウィリアム様が帰らぬ人となったら、私はどうなってしまうのだろう?)
別段、私と彼の間には何もない。
言葉にすれば、騎士と侍女――ただそれだけの役割である。いずれは私がこの店の店主になり、彼もまたお得意様のひとりになってくれるのかもしれないが――どうしたって特別な関係にはなりえない。ゆえに、こう言っては悪いが、彼の生死がどうあれ、私が喫茶店を営業することに変わりはないのだ。
けれど――。
そうなった時、私は私ではいられないだろう。自分だけがのうのうと生きていることに堪えられないだろう。祖父と祖母から受け継いだ力を全て用いて復讐に走るか、あるいはここでの出来事をすべて無かったことにして、泣きながら日本に帰るだろう――。
「お嬢さん、大丈夫かい?」
いつの間にか、私は俯いていた。
男性は私の顔を見て、何かを察したように頷いた。
「あんたは騎士団の侍女だったな。すまない。いらないことを喋ってしまったな」
「――いえ、聞いたのは私の方です。親切に教えてくださってありがとうございます」
「まあ、なんだ。所詮、騎士でも傭兵でもない一市民としての意見でしかないんだ。真に受ける必要なんてどこにもない。これ以上余計なことを言う前に、俺は失礼させてもらうよ。今度、妻と娘を連れてくるから、そのときはよろしくな。今後とも『運び屋・大袋』をご贔屓に」
男性は扉に手を掛けると。
「俺もあんたも、落ち込むには少し早過ぎたのかもな」
と思い出したように言った。
「どういうことですか?」
「さっきの話さ。向こうは確かに大国だ。普通に戦ってもまず勝てないだろうが、それでも地の利はこっちにあるんだ。逆に言えば、王都から応援だの補給だのが届いて、それらが上手く機能してくれれば、まだ手はあるんじゃないかなと思うんだ。素人意見だけどな」
男性は笑うと、今度こそ去って行った。
分厚い扉の向こうで荷馬車が石畳を辷る音が聞こえて――それも次第に、朝の大通りに特有の、がやがやとした喧噪に紛れて消えていった。
(あぁ、なんて優しい人なのだろう)
きっとあの人は、お世辞でも何でもなく、約束通り奥さんと娘さんを連れてくるのだろう。
私も、頑張らなきゃ。
美味しいと思ってもらえるものを作れるように。
また来よう、と思ってもらえる店づくりを。
確かに、この世情において喫茶店を開くことに問題がないとは言わないが、それでも私の夢なのだ。応援してくれる人も確かにいる。今更諦めるつもりは全くない。
男性に出した食器をお盆に乗せ、厨房に向かおうとした時――正面の呼鈴が鳴った。
振り返れば、副官のアルフィー様が入ってきたところであった。今日の出迎えは彼らしい。しかし、いつもの時間よりもだいぶ早いように思う。
「おはようございます、葉月殿」
私を見ると、アルフィー様は安堵したように嘆息した。その表情には憔悴がありありと滲み出て、その額には冷や汗すら浮いている。急いで来たのだろうか。いつも余裕を崩さない彼にしては珍しい態度であった。
「おはようございます、アルフィー様。今日は早いようですが、どうされましたか?」
「申し訳ありません。至急、官舎まで来ていただきたい」
「それは構いませんが、何かあったんですか」
私が聞けば、アルフィー様は呼吸を整えたのち。
「負傷者が出ました。命に関わる怪我です」
と告げた。
決して大きな声ではなかったが、その声はやけに響いて聞こえた。
「今は医務室に寝かせておりますが、いつまでもつかは分かりません。さあ、早くご準備を」
「――はい、分かりました」
急いで二階に向かい、いつもの外套と大杖を取りに行こうとして。
ぐらり、と目の前の視界が回った。




