18.医務室での一件ののち、また青年が官舎内を案内してくれた。
医務室での一件ののち、また青年が官舎内を案内してくれた。
官舎は横に長い長方形の構造となっていて、主なところでは、一階には医務室、食堂、資材倉庫、詰所などがあり、二階は団員の宿舎となっていた。三階には資料室、会議室、執務室などがある。厩舎や武器庫、魔術訓練場は各々独立して建てられているという。
(余談ではあるが女子トイレがあることに安堵した。しかも汲み取り式ではなく水洗式である。便座の形こそ異なってはいるが、下水設備が存在しているのだ)
私は執務室に連れてこられた。休憩という名目でソファに座らされ、青年が呼びつけた侍女に紅茶まで出されてしまった。執務室には私と青年しかいない。侍女は用事を済ませるとすぐに下がってしまった。
青年は執務室に入るや否や。
「少し事務処理を済ませたい。少々ばかりお待ちください」
と言って、一際大きい両袖机に向かうと数多の書簡に目を通し始める。重要なものとそうでないものを仕分けしているようであった。
その姿は、まるで出社後の朝一番にメールソフトを開いて、仕事の段取りや面倒な案件に難儀するサラリーマンのようで――管理職という仕事は、たとえ世界が異なっても似てしまうものなのか、と思った。人間の営みや精神的な部分は、根本的なところではきっと何一つ変わらないのかもしれない。
もっとも、こちらのは戦争を間近に控えているのだから、二つの世界の間では――もっと言えば、日本人である私の感性と、この世界にいる人々の常識には――どこか致命的な隔たりが存在しているのかもしれないが。
紅茶のカップを持ち上げ、静かに傾ける。
特筆することは何もない。
どこにでもあるような普通の味と香りである。
(それにしても、ちょっと驚いたな)
思い出すのはつい先刻の出来事である。
オスカーという仮面の騎士に奇跡をかけたまではよかった。加減を誤り、部屋全体にまで効果が及んでしまったことも一応は理解できる。その際不思議な声が聞こえたことも、私の空耳ということで説明がつく。
しかし、そんなことよりも。
問題は奇跡の効果である。
あの場にいた者達に傷や病の具合はどうかと聞けば、皆口を揃えて完治したと言うのだ。事実、外傷を負っていた者の患部を見れば、酷く化膿した深い裂傷も、骨格が変形するほどの打撲も確かに治っていた。あの老兵の視力が復活したのが良い例だろう。流石に欠損した手脚が生えてくる、なんてことはなかったが。
正直、私は奇跡がそこまで効果絶大だとは思っていなかった。
奇跡だなんて大仰な名前こそ付けられているが、せいぜい気分が良くなり、消耗した体力や気力が回復する程度――例えば、ドラッグストアで売っているような栄養ドリンクや怪我薬くらい――と思っていた。青年も、かつて神殿で治療したことがあると言っていたが、日本で言うところの病院に行って診察を受けた程度にしか考えていなかったのだ。
だが、奇跡とは、本当の意味で奇跡であったのだ。
「…………」
奇跡を使った直後の、皆の視線を思い返す。
おおむね好意的ではあったが、そこには途方もない距離がありありと感じられて――感謝と崇拝、羨望を綯い交ぜにした余所者を見る目でしかなかった。
確かに、あって困らない力だとは思う。
自分が誰かのために祈り、相手の怪我や疾病を立ち所に治してしまえるなど誇らしいことであろう。人助けが好きな性分の私に向いているとも思う。
だが、私は自分の持つ力が怖くなった。
この力は、はっきり言って異常である。少なくとも、現代日本の価値観を持つ私にとっては。ゲーム好きの弟がいたら、チートだバグだと騒ぐのかもしれない。このような力を好きに使ってしまえば、いつか必ず、途轍もない代償を支払うことになりそうな予感がしたのだ。
それが精神的なものなのか身体的なものかは分からない。もしかしたら私が今の今まで積み上げた日本人としての常識や価値観――『人間性』とでも言うのだろうか?――を綺麗に粉砕してしまうのかもしれない。
代償を恐れるのであれば使用を制限する他ないのだが、治癒の奇跡は誰しもが欲するところだろう。医務室で皆が私に向けた視線でも察するに余りある。慎み深く、私を常に慮ってくれる青年ですら、今朝馬車の中で何かを言いかけたのだ。
もし、彼らに「戦友の怪我を治してくれ」だとか「私の子供が病気で死にそうなの」などと乞われたら私は絶対に断ることができない。むしろ、それは奇跡を使うに相応しい場面なのだろうが――安請け合いを繰り返せば、きっと際限はなくなってしまう。多くの者が奇跡を求めて、私もそれに応えようとして――諸々の重圧で、私は潰れてしまうだろう。
(この世界の神官が、奇跡の対価にお金を要求する理由が分かった気がする)
私は、奇跡を受けるには相応のお金が必要だと聞いたとき、神を信じる者が足許を見るなんてちょっと嫌だな、なんと思っていたが、今ならその理由も分かる。
人の生死に関わり、多くが求める治療であるからこそ慈善事業ではいられないのだ。奇跡を受けられる者とそうでない者の線引きを、どこかで明確に引かなければならないのだ。それが金銭であったというだけの話である。
地獄の沙汰も金次第とは言い得て妙である。
(結局、私はどうするべき――いや、どうしたいのだろう)
杖から出た光に驚いたのは確かである。畏怖を感じたことも。この奇跡というもの、そして扱い方に、より慎重に向き合わなければならないと改めて思ったことも。
ただ、それだけである。
それ以外は何も変わっていない。
奇跡の触媒であるこの杖を祖父から譲り受けたことも。この力を使い、青年のために何かしてやりたいと思っていることも。その対価に金銭や人脈を得て、喫茶店を開きたいと強く思っていることも。
(なんだ。何ひとつ変わっていないじゃないか)
難しく考えたって仕方がない。
力を使う前によく考える。この世界の歴史や常識を学び、それでも分からないことがあれば誰かを頼れば良いだけなのだ。ありがたいことに、私には頼りになる、知的で誠実な雇用主がいるのだから。
近々戦争になるかもしれないことは確かに懸念である。騎士団と距離を置くことも選択肢としてはあるのだろうが、私が戦争に傷ついた者を癒やせると判明した以上、自分だけが逃げたくはなかった。皆から、あの女は俺達を見捨てて逃げ出したのだ、と思われたくなかった。また、私には日本という帰る場所があり、今も嵌めている指輪に念じるだけで瞬時に帰還できることもあり、敢えて逃げる必要を感じなかったこともある。
だが、それ以上に私は――。
青年との縁をこれで終いにしたくはなかったのだ。
国を護るために戦うことが彼らの役目なら、それを後ろから支え、もし彼らが傷ついたならそれを癒やしてあげるのが私の役目でありたい――と思ったのだ。
一言で言えば、使命感を抱いたのだ。
きっと、祖父も祖母も応援してくれるだろう、と思った。
ちらり、と青年を盗み見れば、彼は未だに書類の仕分けに難儀しており、一通の封筒を片手に何かを思案している。よほど判断に困る案件があったのかもしれない。
「ウィリアム様。今後のことで、少しよろしいでしょうか?」
私が呼べば、どうされましたか、と青年は封筒を置き、顔を上げる。
「私は、確かに戦争が起きてしまうことに不安を感じております。あくまで、私の目的はこの街で喫茶店を開くことです。ですが」
そこで息を継ぎ、手にしていた紅茶のカップをソーサーに戻す。
私は彼を見ていた。
彼も私を見ていた。
「私は、この世界で初めて出会った貴方のお役に立ちたいと思っております。至らぬことばかりとは思いますが――騎士様、どうか今後ともよろしくお願いいたします」
そこまでを言い切り、私はその場でお辞儀をする。
なぜ、今ここで決意表明じみたことを言ったのかは自分でも分からない。
強いて言うのなら。
――この夜の出会いと、貴女の慈悲に感謝申し上げます――。
――聖女様に息災あらんことを、どうか――。
私と初めて会った日の夜、彼は言ってくれたのだ。何となく、私からもやり返したくなったのだ。多少、気障に過ぎるとも思ったが、今の私にできる精一杯の宣誓であった。
書き溜めが尽きたのでまた充電期間に入ります。
くぅ疲。




