14.それからしばらく、私は彼の顔を見ることができず、また口を開けずにもいた。
それからしばらく、私は彼の顔を見ることができず、また口を開けずにもいた。
私の何気ない一言が彼を不快にさせてしまったのだ。ならば今不用意に喋り出したところで彼をまた不機嫌にさせないとも限らない。
――ああ、失敗だったな。
私はこの世界のことを何も知らない。知るところから始めようと思った矢先にこれである。
もっとも、他人の性格や地雷など――何を好み、何を厭うているのか――避けようがないのも事実であるが、それでも嫌だった。無知であることを理由にはしたくなかった。何より、彼に馬鹿で面倒な人間と思われたくはなかった。
「ウィリアム様。不快な思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
ゆえに謝った。
私にとっては重い空気であり、口を開くのは確かに勇気がいることであったが、謝罪のポイントはスピードである、とかつて世話になった喫茶店の店主に教わったことを思い出したのだ。
私が謝るとは思っていなかったのだろう。
青年は困ったような表情をすると。
「どうして貴女が謝るのですか」
と言った。
「貴方を嫌な気分にさせてしまったからです」
「いえ、悪いのは私の方です。意地の悪い言い振りになってしまい、また葉月殿に当たるような真似をしてしまい、こちらこそ申し訳ありません」
青年はうなだれるように頭を下げる。
私達の会話が漏れ聞こえたのだろう。馭者が、咎めるように私を返り見る。その眼差しは、雇い主に頭を垂れさせる侍女など聞いたことがないと語っているようで、今度は違う意味でいたたまれなくなってしまう。
「ウィリアム様、どうか頭を上げてください。立場ある方にそうされては、こちらの立つ瀬がありません。それよりも、この国について聞かせてください」
多少強引でも、話題を変えることにした。
「隣国との関係が良くないとは聞いております。国防に携わるウィリアム様が大変苦労なさっていることも。戦争になるというのは本当ですか」
「ええ。残念ながら」
「……そうですか」
「このような時勢に、貴女に助力を仰いだことは心苦しく思いますが――我々とて他に術がありませんでした。縋るものが貴女だけであったことはどうかご理解いただきたい。貴女の身は我々が守ります。この命に代えてでも」
「命って、そんなことは軽々しく仰らないでください」
「私は本気です。ですが、もし貴女が身の危険を感じたならば、仕事などすぐ辞めてしまっても構いません。むしろ貴女がどこか安全な場所に逃げてくれた方が私個人としては嬉しく思います。喫茶店を開くことに関しては、戦が終わり、世が落ち着いてからでも遅くはありますまい」
その時に我々がいるのかは分かりませんが、と青年は言い、私を見遣る。
彼の瞳はどこまでも真っ直ぐで、それでいて、どこか危うさを内包した――余命僅かと宣告された若者のような眼をしていた。死を覚悟した軍人とはこのような顔になるのだろうか。平和な日本で生きてきた私には分からない感覚である。
彼と視線が交差しても、今度は羞恥も劣等も感じなかった。ただただ、この人の為に何かしてあげたい、という多少の義務が混じった献身と、このような世情で本当に喫茶店など開けるのだろうか、危険なことに巻き込まれたらどうしよう、というごく当たり前の不安があった。
「確かに、巻き込まれたくないとは思っております。ですが、仮に戦争が始まったとして」
この国は勝てるのですか、と聞こうとして――止めた。
この質問は、絶対にしてはいけない類のものと直感したのだ。
どうして戦争になったのでしょうかと聞きもしたかったが、これも止めた。この国の歴史や文化をよく知らぬ私が聞いたところで理解できる自信もなかったし、官舎に着くまでに終わる話題とも思えなかったのだ。
ゆえに。
街の生活はどうなってしまうのか。
私は本当に喫茶店を開いて良いのだろうか――と言おうとして。
「私にできることはありませんか。お役に立てることがあれば何でも言ってください。尽力いたします」
口が勝手に動き、言葉が転がり出た。
意外だったのは私もだが、私以上に驚いたのは彼の方だった。
その瞳の奥に喜色が灯ったのは、きっと気のせいではないだろう。
「本当に、宜しいのですか?」
そう尋ねる彼の声は震えていた。
今更撤回することもできず、私も頷いてしまう。
青年は何かを言おうとしたが。
「――いや、止しておきましょう」
「え?」
「今はそのお気持ちだけで十分です。貴女の力が本当に必要になったら、改めてお伝えします。それに、今でさえ祝福を与えてくれとお願いしているのです。これ以上何かを望んでは、きっと神罰が下ることでしょう」
「……そうですか」
青年に断られ、私は安堵とも落胆ともつかぬ、何ともいえない気分になってしまった。彼が何を言いかけたのか気になったが、詮索しようとも思わなかった。
それからは、また互いに沈黙していたが、先程のような気まずさは感じなかった。
…………。
……。
いつの間にか、景色の毛色が変わっていた。
見事な石造建築ばかりの中心街から打って変わって、何とも形容しがたい寂れた街並みになっていた。内心、奇妙に思った私を察したのであろう。
「ここからは、いわゆる貧民街になります」
解説するかのように青年が言った。
「貧民街、ですか」
「ええ。ここも、少し前までは神学校に通う学徒達や、彼らを相手取る商業組合の店舗が立ち並び、中心街に負けないぐらい賑わっておりましたが今はこのような有様です。復興のため、教会では寄付を募り、我々も防犯のため警邏をしているのですが、進捗が良いとはとても言えません」
「……何があったのですか」
「前も言ったとは思いますが、あの少年が暴れ出したのが、この辺りなのです」
あの少年――月を堕とそうとした化物のことである。
「もし時間があれば、後ほど街外れの教会にも案内いたします。神父殿にも挨拶しなければ」
そこで会話が途切れた。
私はまた寂れた景色に顔を向ける。
中心街には、背の高い建物や活気溢れる人々で賑わっていたのに、ここではそのどちらも見受けられない。あるのは廃墟一歩手前の家屋ばかりで、住人がいたとしても乞食同然の者ばかりである。
具体的には――皆薄汚れた麻のボロ布を纏い、痩せて痩けている。活発に動いている者など一人もいない。道端に座り込むか、路地裏で身を潜めるかのように寝ているかのどちらかである。
建物にしても、石造りであることこそ中心街と変わりはないが、煤と埃に塗れている。風化すらしているようだった。酷いところであれば、木を組んだだけのあばら屋であったり、屋根代わりに帆布を張った住居とすら呼べないものもある。
よくよく見れば、かつて賑わっていた名残を感じないこともないが、今となっては何の意味もないだろう。
生気を喪い、明日に失望している多くの者が、皆一様に馬車を――否、私だけをじっと見詰めている。
彼らが、一体何を思って私を見ていたのか全く汲み取ることができなかった。遠目であったというのもあるが、それ以上に、私と彼らの間には途方もない格差がありありと横たわって――出身や地位、金銭や教育、端的に言えば人生というものが何から何まで違うのだ――私の心が理解を拒んでしまったのだ。
もっと言えば。
何となく、自分とは違う種類の人間であるような気がして、私は彼らのことを怖いと思ってしまった。彼らが、金品を目当てに――あるいは、今までその身に宿した嫉妬や怨恨を晴らさんがため――私達に襲い掛かってくるのではないか、とすら思ってしまった。
(ああ、私はなんて身勝手な人間なんだろう)
自身の裡に生じた傲慢さを自覚した途端、私は途轍もない情けなさを感じてしまった。
私は、聖女だなんて呼ばれる人間じゃない。
皆から慕われ、尊敬されるような人間じゃない。
もちろん、私をそう呼ぶ人に悪気などなく、むしろ純粋な期待を込めて呼んでいるだろうことは理解しているのだが、それでも私にとっては重圧でしかなかった。
今度、誰かからそう呼ばれたら、その資格がないことを理由に強く断ろう、と思った。




