1.私は齋藤葉月。都内の大学に通う女子大生である。
※この物語は作者の妄想に基づく完全なる虚構です。実在する人物、地名、所属、その他名称において一致があったとしても、創作上の偶然です。
※本作品は、フロムソフトウェア製「DARK SOULⅢ」および「ELDEN RING」の影響を大いに受けていることをここに白状いたします。
私は齋藤葉月。都内の大学に通う女子大生である。
夏期の長期休暇を迎えた現在、下宿先として世話になっている祖父宅で、課題のレポートに頭を抱えていたのだが――更に困った事態に直面してしまった。
「姉貴。読まないの?」
平日の昼下がり、うちを尋ねてきた弟が言った。
彼は居間のテーブルに置かれた茶封筒を見ている。つい先程「これ、爺様から姉貴にだってさ」と言って、縁側から上がってきた彼が放り投げたものである。
「おじいちゃんって、それ本気で言ってるの?」
書きかけのレポートを上書き保存してからノートパソコンを閉じる。
封筒には、確かに祖父らしい達筆で『葉月へ』と宛名書きがされている。裏返せば『八月一日』と昨日の日付が書かれているが、封緘はされていない。
「マジだって。昨日の夜、爺様がウチに来たんだよ。それで、姉貴に渡してくれって言ったあと、すぐに出て行ったよ」
「……それ、お母さんは知ってるの?」
「いいや。すぐに帰ったし、爺様も言ってほしくなさそうだったからそのまま。姉貴も黙っててよ。バレたら俺がお袋に殺されるから」
軽口を叩きながら、弟は布製のマイバッグを提げたまま台所に向かう。無断で冷蔵庫を開けると、がちゃがちゃと音を立てながら洋酒の瓶と、肴となるであろう食材を押し込んでいく。咎めるのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、勝手知ったる様子であった。
「姉貴さぁ。いくら独り暮らしだからって、卵と砂糖しかないってどうかと思うぜ。自炊とかしないの?」
「うるさいなあ。それよりあんた、未成年のくせにお酒なんてどこで買ってるの」
「んー、企業秘密。まあ、俺は悪いことはしてないから別にいいでしょ」
俺は、と強調するあたり、未成年の飲酒は提供した側が罰せられることを彼は理解しているのだろう。
「いいわけないでしょ。というか今日は平日でしょ。学校はどうしたの?」
「だるいから自主休校」
「あんた内申は大丈夫? 今年受験でしょ」
「考査の成績はいいから大丈夫。たぶん、きっと」
台所から戻った弟は、縁側に腰掛けると、ポケットから煙草を取り出してその一本を咥える。
「ちょっと。臭いからやめてよ」
「ごめんごめん。一本で止めるから勘弁してよ。甘くて軽いやつだから大丈夫だよ」
「私が大丈夫じゃないから。まったくもう」
この通り弟は不良である。
まだ高校生だというのに伸ばした髪を金色に染めて、酒や煙草にも手を出している。今日だって学校をズル休みして、バイクに乗ってここまで来たのだろう。
母も、彼が夜な夜な家を出て、どこで何をしているのか分からないと心配していた。聞けば一週間も帰ってこないこともあるそうだ。私だって一応は気を遣ってしまう。
こんな弟であるが、中学生までは本当に模範的な優等生だったのだ。だが、高校生になったばかりの頃に大怪我をして――彼がどうしてそんな怪我をしたのか、そしてどのような心境の変化があったのかは分からないが――変わってしまったのはそれからであった。
それでも、依然として成績は良いから、まったくもって不思議である。加えて、祖父譲りの整った顔立ちをしているものだから、まるで神様から恩恵を与えられているかのようであり、少しだけ羨ましく感じてしまう。
「姉貴。読んであげなって。爺様が悲しむぜ」
ああ、そうだ。祖父のことである。
祖父は一年ほど前にこの家を出たきり帰ってきていない。つまり失踪してしまったのだ。もちろん警察に相談をして捜索願も出したし、私と母のふたりで近所を何度も探して回ったが、結局何の手がかりも見つけることはできなかった。
祖父は六十歳を超えていたが、記憶はしっかりしていた。物腰も同様で、一言でいえば老紳士のような人だった。だからこそ、何か善からぬ事件に巻き込まれてしまったのではないかと私達は本当に心配していたのだが――。
(どうして今になって手紙が来るのだろう)
(あれ? 封筒の中に何か入っている)
封筒を逆さまにすれば、数枚の便箋とともに、金色の指輪が転がり出てきた。控え目でありながらも凝った装飾が彫り込まれ、一目で上質なものと分かる品であった。
思わず左手の薬指に嵌めてしまいそうになるが――別に他意はない、はずである――それを我慢して、便箋を見れば。
『前略 元気にしているか。長らくの無沙汰、申し訳なく思う。時間もないゆえに簡略に記す。葉月のやりたがっていた喫茶の件だが、用意ができた。店舗と設備、器具その他は、素人判断ではあるが揃えたつもりである。
しかしながら気が遠くなるほどに離れた場所である。同封した指輪をつけて、蔵に行け。行けば分かるはずだ。驚くなかれ。魔術や奇跡が存在する珍妙奇天烈な世界である。何はともあれ、挑戦してみるがいい。そして人生の糧としてくれれば、お前の祖父としてこの上ない幸せである。お前の祖母にも顔向けができるというものだ。早々』
『追伸 私には生涯を賭してやることがあり、当分はお前達のもとに帰るつもりはない。だが世に背くことはしていないため心配は無用である。何かあれば弟を頼れ。奴には色々なことを仕込んだ。役に立ってくれるだろう』
年配らしい言葉遣いと、筆ペンで書いたのだろう黒々とした文字が綴られている。ふわり、と墨の匂いが鼻先をくすぐる。
何度読み返しても、文字以上の情報は得られなかった。
弟を見れば、いつの間にかやってきた地域猫のミケ――書いて名の如く三毛猫である。年齢は分からないが、三毛猫であるからにはきっと女の子なのだろう――を膝に乗せ、呑気に彼女の首回りを撫で回している。
弟の手に煙草はもうない。私がいくら注意しても止めないのに、ミケが来るとすぐに止めるのだから彼の考えることはよく分からない。
「ねえ。ちょっといい?」
私が呼べば、弟は億劫そうに振り向く。ミケも同じように顔を上げて「みゃあ」と挨拶をしてくれる。
昼下がりの陽光を受けて、弟の襟元からのぞくアクセサリーのチェーンがきらりと光った。
「あんた、この手紙読んだりした?」
「いや、見てないけど。なんで?」
「なんかあんたをこき使えって書いてあったんだよね。でも、それ以外はちょっと分からない」
「なにそれ。俺にも見せてよ」
「はい、どうぞ」
私が手渡せば、さんきゅ、と弟は受け取る。
そして便箋に目を通して。
「話盛るなよ。こき使えなんて書いてないじゃん」
「意訳すれば一緒でしょ」
「横暴だよ。なぁ、ミケ」
弟に話を振られた猫は、目を閉じて喉を鳴らすだけであった。
「あんた、手紙に書いてある意味分かった? おじいちゃん、頭がおかしくなったんじゃないよね」
「そこは心配しなくていいと思う。昨日会ったときは普通だったし。手紙の内容はサッパリ分からないけど。あ、その指輪ってある?」
「うん、これだと思う」
便箋と同じように見せれば、質屋に持って行けば高く売れるかも、と弟は揶揄するように笑った。
「何言ってんの。絶対に売っちゃ駄目だからね」
「さすがに冗談だって。でも、もしかしたら本当かもよ」
「本当って何が?」
「いや、だから手紙の話。別に悪いことは書いていないんだし、騙されたと思って、信じてみてもいいんじゃない」
「え?」
「姉貴、今でも喫茶店好きだろ」
「それは、まあ、そうだけど」
「だったら信じてみれば? 指輪つけて裏庭に行くだけだし。爺様が嘘ついたとしても、まあ、高そうな指輪を貰えるんだからいいんじゃね? あと俺が面白いし」
「面白いってのは余計」
「ごめんって。怒るなよ」
弟の云う通り、私は幼い頃から喫茶店が好きだった。
きっかけは、私が祖父に預けられたときに、近所の喫茶店によく連れて行ってもらったことである。その店の主と祖父は学生時代からの友人であるらしく、祖父は暇つぶしくらいの軽い気持ちで行ったのだろうが――私にとっては衝撃であった。
ステンドグラスを通して光る橙色の間接照明。
真鍮の喇叭からノイズ混じりの音色を響かせる年代物の蓄音機。
ショーケースに整然と収められた舶来品のティーカップ達。
額縁に飾られた、小さいながらも色彩豊かに描かれた海辺の風景画。
布製ながらも手触りのよい安楽椅子。
空間に染み込んだコーヒーの豊かな芳香。
白髪の交じった店主が、カウンター越しに私を見下ろす優しい眼差し。
今でも、初めて訪った際の驚きは鮮明に覚えている。
当時の私は、自分がお姫様にでもなったように思い有頂天になっていた。
カウンターを隔てて軽口を叩き合っている二人の老紳士を見ているだけでも楽しくて仕方なかった。絵本や小説に出てくる執事や騎士というのは、きっと彼らのように素敵で格好のいい人なんだろうな、と思っていた。帰る時間になれば、まだ帰りたくない、ずっとここにいる、と泣いてしまうくらいには、子供心ながらに喫茶店というものに魅せられていたのだ。
大学生になった今でも、いつかは自分の店を持ってみたい、という夢は消えずに胸の中で燻っている。否、年を経るごとにその願いは大きくなっていた。
私自身、料理が得意なわけでも、コーヒーの香りや淹れ方に詳しいわけでもない。雰囲気にこだわる店に特有の、あの空間がもたらす一種の特別感が好きだった。
普段会えない友人と連れだって雑談に花を咲かせるのもよし。手帳や愛読書を持ち込んで、ひとりの時間を満喫するのもよし。
いつか自分が、その空間を提供する側に立ちたいとずっと思っていたのだ。
ゆえに、高校生になると同時に、当時お世話になった喫茶店でアルバイトをさせてもらっていた。頻度は週に二日程度。ありがたいことに、店主は快く私を受け入れてくれた。
一年目は、掃除や雑用、注文やレジ対応など、ホール業務が主だった。
二年目からは厨房に入れてもらえるようになり、珈琲や紅茶の入れ方を教わり、また料理の簡単な仕込みもできるようになった。
三年目になると、少しずつではあるがお店のことを任されるようになり、高校生ながらも「お店の営業ってこんなに大変なんだな」と現実的な視線を向けられるようになった。
お店に来てくれるお客さんも、雰囲気を大事にしてくれる人ばかりで、大学生になってからも続けられるといいな、なんて考えていたのだけれど。
アルバイトは高校を卒業する直前に辞めてしまった。
何てことはない。客のひとりに、ストーカーをされるようになったのだ。
相手は私よりも年上で、おそらく社会人くらいの外見であった。押しが強くて、少しばかり礼節に欠けるところがあって――私が最も苦手とするタイプの人間であった。
その人が、私の何を気に入ったのかは分からない。名前を聞かれ、よく声を掛けられるようになり、次第に家まで尾けられるようになってしまった。それだけならまだ良かったが、学校のない日などは自宅のインターホンをしつこく鳴らされたり、教えた覚えのない番号から頻繁に電話がかかってきたり、ということもあった(怖くて出たことは一度もなかったが)。
弟にも相談して、一時期はどこに行くにも弟と一緒だった。我ながら面倒をかけてしまったと思う。私からあえて口にしたことはなかったが、彼が三日もあげずここに来るのは、私を心配してくれてのことなのかもしれない。
高校生になって彼の素行は確かに悪くなってしまったが、人間の本質とでもいうのか、家族の仲というのはそう簡単に変わらないものなのかもしれない。
以上の事情があり、実家から通える距離の国立大学に進学したものの、身の安全を考慮した結果、大学からも実家からもほど近い祖父の家を間借りするようになったのだ。
以来、あのストーカーはもちろん、店主とも会わず、喫茶店とはまったく無縁の生活を送ってきたのだけれど――。
私は未だに夢を捨てきれずにいる。
焙煎まではできないけれど、毎日コーヒーを淹れる練習を欠かさずにしているし、暇を見つけて料理やお菓子作りに励んでいるくらいには。
「姉貴? どしたの」
「……なんでもない」
「悪ぃ。嫌なこと思い出させたね」
「大丈夫だって。別に、そういうのじゃないから」
手紙の内容はよく分からないが、もう一度夢に近付くことができるなら何でもよかった。
「行ってくる。たぶん、すぐに戻ってくると思うけど」
薬指に指輪を嵌めて――繰り返すが他意はない。強いて言うなら、男避けになる、と友達から聞いたくらいである――立ち上がる。ありがたいことに、指のサイズは測ったようにぴったりであった。
「行ってらっしゃい。ついでに掃除でもしてくれば? あそこ、ネズミとかゴキブリとかよく出るし」
「絶対に嫌。あんたも手伝うなら考えるけどね」
ミケならネズミくらい退治してくれるんじゃない、と私が言えば、こいつ美味しい缶詰しか食わないから無理だよ、と弟がミケの代わりに答える。
「あ、そうそう。俺今日泊まっていくから何か作ってよ。できればツマミになるような味の濃いやつ。食材ならもう買って冷蔵庫に入れてるから」
「はいはい。考えておくから」
玄関の戸棚に隠している蔵の鍵を取り、サンダルを履いて外に出る。
祖父自ら手入れをしていた庭も、今では草木が繁茂して、最早どこから手を付けたらいいのか分からないくらいになってしまった。
戦後間もなく建てたという白漆喰の蔵は、夏の日差しを浴びながら堂々と鎮座している。
観音開きの扉は、太い鎖と錆びついた南京錠で厳重に施錠されている。大袈裟な光景で、片田舎の屋敷には似合わないように思える。
(この中には何が入っているんだろう?)
祖父からは物置として使っていると聞いただけで、立ち入ったことは一度もなかった。もしかすると何か家宝でもあるかもしれない。それこそ、私の夢を簡単に叶えてしまえるくらい高価なものが。
そんな馬鹿げた期待を抱いていたからなのか。
解錠して鎖を解き、半分しか開かない扉に身を滑りこませた瞬間――周囲の世界が一変しても、私はただただ呆然とすることしかできなかった。