喫茶・のしてんてんへようこそⅢ~晩秋の輪舞~
私はその日、ガシガシと道を踏みしめながら歩いていた。
あああ、腹が立つ!
そもそもまだ秋だというのに、なぜこんなに強くて冷たい風が吹くのだ!
それに、これだけ踏みしめて歩いても道が変わらず平然としているのにも、何だか無性に腹が立つ。
社会的に現役でなくなった男はクズなのか?
透明人間なのか?
否。
断じて否!
そんなことあるはずがない!
十年前、私はめでたく二度目の定年退職をした。
子供達も皆、無事に巣立った。
確かに私の手には今現在、是非ともやらねばならぬほどの仕事はない。
悠々自適といえば聞こえはいいが、無為な暮らしであることは否定しない。
仮に、生意気な若造どもに、食べて寝て息をしているだけの役立たずではないかとそしられたとしても、私は言い返す言葉を持たない。
百万の憤怒を奥歯で噛みしめ、むっつりと押し黙るだけだ。
しかし!
しかし、だ!
『言い返す言葉を持たない』からと言って、そう扱われて唯々諾々と従うほど、私は己の誇りや尊厳を捨て去ったわけではない!
目も眩みそうな憤懣の中、荒れ狂う心を抱えてひたすら歩いていたせいだろうか?
いつの間にか私は、自宅からかなり離れた大きな公園へ来ていた。
こんなに歩いたのは実に久しぶりだ。
立ち止まり、背の高い木々を何ということもなく見上げる。
軽く汗ばんでいたらしく、風が更に冷たく感ぜられた。
不意に軽い眩暈めいたものに襲われ、私はややうろたえる。
こんな所で倒れたらことだ。
素早く辺りを見、並木道のベンチを見つけて腰を下ろす。
しばらくじっとしていると、視界のくらくらが治まってきた。
それと同時に血の沸くような怒りも治まってきたらしい。
息をつき、私は座ったまま高い秋の空を見上げた。
空は青く、美しい。
陽射しはやや黄色味を帯び、木々も色づき始めている。
冷えた胸に虚しさが転がる。
不意に目頭が熱くなり、私は驚き、慌てる。
乱れた心をなだめるように、カーディガンのくるみボタンを首元までしっかり閉じる。
袖に縄編みの入った、生成りの太い毛糸で編まれたカーディガン。
大きめの、茶色い革のくるみボタンが五つ。
古稀のお祝いに、と妻が編んでくれたものだ。
なのに、それからわずか五年六年で人の心はここまで変わるのか?
何故こんな情けない事態に陥ったのか、まったく理解できない。
確かに私は優しい夫と言えなかっただろうし、今も言えまい。
このカーディガンをもらった時も、ありがとうより先に文句をつけたような記憶がある。
確か、こんな子供が着るようなものを七十の爺が着るのか、とか。
(ありがとう、嬉しいよ。素直にそう言うべきだったのだろうか?)
ずっとそれを怠ってきた結果が、今のこの情けない状況なのだろうか?
「帰ろう」
あえて私は声に出す。
そうだ帰ろう。
あれは私の家だ、私が稼いだ金で買った家だ。
たとえ、話しかけてもことごとく妻に無視され、掃除機の吸い込み口の先で邪険に尻をつつかれるような、情けない仕打ちをされるのだとしても。
食事の時間に呼ばれることもなく、当然茶碗を並べてももらえず、それどころか私の分のおかずすら満足にない。
文句を言っても聞こえないふりをされた挙げ句、嫌味たらしく仏壇へ、私用の食事を置くのだ。
さすがに私の我慢も限界に達した。
それら全部をなぎはらい、足音高く私は家を後にした。
妻が何やら叫んでいたが、当然無視だ。
ざまあみろ!
実は私はここ最近、まともに食事をしていない。
一年ほど前に厄介な病を患い、大きな手術をした。
つい最近まで入院してもいた。
以来食欲が無くなり、一膳の飯すらまともに食べきれないのは確かだ。
しかしだからといって何も食べさせないなど、鬼畜の仕打ちではないか!
立ち上がり、公園の出入口へ向かおうとして、戸惑う。
どちらへ向かえばいいのかよくわからない。
(まあ、いい……)
歩いていればそのうち出口も見えてくるだろう。
しかし公園というものは、三十年経っても四十年経っても大して変わらない。
私も昔、子供たちを遊ばせるためにちょいちょいここへ連れてきた。
その頃との違いを強いてあげれば、遊具類の多くが軽薄なプラスチック製に変わったくらいだろうか。
定年後すぐは私もここへ、時々散歩がてらに足をのばした。
いつしかそれも面倒になり、根が生えたように居間でテレビを見る様になって久しい。
考えてみると、今まで散歩に妻を伴ったことはなかった。
別に嫌だったのでも恥ずかしかったのでもない。
ただ単に、そういう習慣がなかっただけの話だ。
(一緒に散歩に行こう、一度くらいそう言って誘えば良かったな)
今からでも言ってみようか?
そんなことを考えている自分に驚き、再び腹が立つ。
何故私の方から、あいつにおもねらねばならないのだ!
そんなことを鬱々と思っていた時。
ひとりのご婦人が風のように軽やかに、私を追い越していった。
追い越された瞬間、ふわりといい香りがした。
うつむき加減で己れの腹立ちばかりを見つめていた私ですら、はっとして思わず顔を上げる、そんな甘やかな香りだった。
上品でどことなく懐かしい気がする、さわやかな香りだ。
(これは……桃、かな?)
初夏から梅雨時辺りに、午後の茶うけにちょいちょい出た、ガラスの皿に盛られた瑞々しい桃の実を思い出した。
前を行くご婦人は、私とあまり変わらない年配に見える。
雪のように白い髪をゆるく結い上げ、綺麗にまとめている。
背筋がすっと伸びていて、足取りも軽やかだ。
彼女が身に着けている、柔らかな素材の藤色のハーフコートの裾が時々、楽しげにひるがえる。
幾度目かにコートの裾がひるがえった、その時。
ひらり、と何かが落ちた。
私は思わず立ち止まり、それを拾う。
淡い桃色の、薄手の小さなハンカチだった。
地と同じような色合いの糸で、四隅に花が刺繍されている。
持ち主と同じ香りがふわりとただよい、私は何故かうろたえた。
訳もなく後ろめたい気がしたのだ。
(後ろめたく感じるのはおかしいだろう、返してあげるつもりで拾ったのだから)
己れへ言い聞かせるように心でつぶやき、顔を上げる。
彼女は、細い路地へと出る小さな出入り口へ向かっていた。
うっかりしていると見落とすような、ごくごく小さな出入り口だ。
そこから彼女は、相変わらずコートの裾を楽し気にひるがえして公園から出て行った。
出た先の路地を彼女は進む。
私は追いかける。
彼女が角を曲がったので、私も曲がる。
再びくらりと眩暈がし……立ち止まり、一瞬目を閉じた。
眩暈が治まり、目を開けた。
曲がった先に、どこか懐かしい感じのする建物がポツンと建っているのが見えた。
立派な木のドア。
木製の窓枠に、べっこう飴を思わせるようなガラスがはまった窓。
細く開けられたその窓から、清潔そうな木綿の白いカーテンが見える。
下に置かれたイーゼルに立てかけられている、
『welcome ! 喫茶・のしてんてん』
という手書きの看板。
ずいぶんと静かだが、建物の中にそこはかとなく人の気配があるし、コーヒーのいい香りもただよってくる。
営業しているのだろう。
それ以外は草ぼうぼうの空き地と、空き家らしい、古びた住宅が幾つか。
(あのご婦人は?)
消えたのでないのなら、この店の中へ入ったのだろう。
しかし、まったく知らない店のドアを開け、公園ですれ違っただけのご婦人の落とし物を届けに行くのも気が引ける。
私は手の中のハンカチを見、思わずため息をついた。
面倒なものを拾ってしまった。
その時突然、低いベルの音がのどかに響いた。
驚き、思わず私は顔を上げる。
「まあ」
半分開いたドアの影で目を丸くしているのは、さっきのご婦人だ。
コートの下ははんなりとした桜色のセーター、暖かそうな布地の濃い赤の、幅広のズボンだ。
「私のハンカチ、拾って下さったのですか? ありがとうございます」
優しげで品のいい声。
丁寧な言葉遣い。
白い髪や顔の皺すらも魅力的な、春風を思わせる柔らかなほほ笑み。
こんなご婦人に会ったのは何年、いや何十年ぶりだろうか?
私は感動していた。
「どうかしましたか、モモさん」
奥から誰かがやって来た。
声に、彼女は振り返る。
「こちらの方が私のハンカチ、拾ってわざわざ届けに来て下さったのですよ、マスター」
掛け値なしの感謝がにじむ声に、私は少々きまりが悪くなる。
ついさっきまで、面倒な拾い物をしたと持て余していたのが正直なところだったから。
「いえ、そう大したことでも……」
うつむきがちにもごもごとそう言い、彼女へハンカチを渡すと私はきびすを返した。
「あの、お待ちになって下さいな」
彼女が呼び止める。
『お待ちになって下さい』などという女性らしい言葉、どのくらいぶりに聞いただろうか。
再び感動した私は思わず立ち止まり、振り返る。
「わざわざ届けて下さってありがとうございます。あの、もしお急ぎでないのでしたら、コーヒーでも飲んでいかれませんか?」
お礼をさせて下さいな、と、彼女は再び柔らかく笑う。
いえその、とんでもないなどともごもご言っているうちに、彼女に腕を取られ、なし崩し的に私は喫茶・のしてんてんの店内へと足を踏み入れていた。
気付くと私は、テーブル席のひとつに座っていた。向かいには彼女。
何だかドギマギする。
妻以外の、それも身内でない女性とプライベートで向かい合って座るなど、考えてみれば何十年ぶりだろうか。
「お好きなものは何ですか?」
そよ風のような声で問われ、私は年甲斐もなくうろたえる。
「は、や、別にその、特に何というほどのものは……」
「私はこちらでいつもハーブティーをいただいているのですけど。でもハーブティーは好き嫌いがありますから、コーヒーとかココアの方がよろしいかもしれませんねえ」
「ああいえ、その、何でも……」
答えながら私は、落ち着けと己れへ言い聞かせる。
初めてのデートに臨む若者ではないのだ、私は。
ひとつ息をつき、笑みを作る。
「何でもいただきますよ、特に好き嫌いはありません」
それでは、と、彼女がいつも飲んでいるハーブティーが注文される。
その後、改めて彼女から礼を言われた。
このハンカチの刺繍は私がしたのですよ、だから思い入れがありまして、おやそうなんですか優雅なご趣味ですね、今の時期は散歩にいいですね、ちょっと肌寒いですが、そうですね木々も色付いてきましたし……などなど、とりとめのない話をしているうちに、さすがに私も落ち着いてきた。
改めて見ると、この店はなかなかいいではないか。
まず静かだ。
最近の食べ物屋はガチャガチャと騒がしい音楽を流したり、逆に気取りかえったクラシック音楽を嬉しそうに鳴らして得意がっている所が多いが、ここは違った。
BGMは食器の触れ合う音、こぽこぽと湯の沸く音、沸いた湯を注ぐ音……のみ。
あとはカウンター席にいる常連客たちとマスターの、低く静かなやり取り。
磨かれた木の調度品は歳月を内に秘め、飴色に鈍く輝いている。
まさに大人の為の空間だ。
六十がらみのマスターが、目をむくような赤い布切れで頭を包んでいるのがやや興ざめだが、彼の蓄えられた白い髭や柔和な表情などは悪くない。
癇性なほどきちんと身に着けられている黒のエプロンも、パリッとしていて好もしい。
(あいつを……ここへ連れてきてやってもいいかもしれないな)
いつもバタバタしている妻を思い浮かべ、思う。
心に余裕のない暮らしを毎日しているから、亭主すらいない者のように扱うささくれ立った精神状態になるのだ。
あれがそうなった原因は、私にもあるだろう……。
「お待たせ致しました」
マスターが注文の品を持ってきた。
まずティーカップがふたつ置かれ、次に紫色の乾燥した花と乾燥した葉が底に入ったガラスのティーポットが現れた。
そこへ銀色の、注ぎ口が優美な曲腺を描くやかんから優しく湯がそそがれる。
「……ほう」
私は思わず声をもらした。
湯をそそいだ途端、ドライフラワーのような茶葉から透き通った青が広がった。
そしてそれが、ゆっくり紫へと変わってゆく。
「色粉か何か……の、元になる植物なのでしょうか?」
こういうものは茶色か薄茶、せいぜい赤茶色あたりの色しか想定していなかったので、正直かなり驚いた。
「マロウ、つまりウスベニアオイの花を乾燥させ、そこに少しだけミントをブレンドしたハーブティーなんです。わがままを言っていつもこちらで出していただいてるんですよ」
メニューにはないんですけどね、と、彼女はいたずら好きの童女のように笑う。
「でも好きなんです。味や香りにも癖が少なくて飲みやすいですし、何といっても色が美しいのですもの」
「ええ。私も初めて見た時は驚きました」
やかんを戻した後、蜂蜜と輪切りのレモンを持ってきながらマスターが言う。
「まずはそのまま召し上がって下さい。それからレモンを入れるといいですよ。あ、甘みの方はお好みで」
おそるおそるカップを持ち上げ、静かにすする。
鮮やかすぎる見た目からは拍子抜けするくらい、味らしい味は無かった。
後味というか残り香というかに、薄荷の風味があるくらいだ。
「確かに……飲みやすいですね」
他に言い様もない。
あからさまに言って良いなら、お茶というより『薄荷風味の色付き湯』だ。
別に不味くはないが、まったく旨くない。
なんとなく持て余すような気分で私は、添えられた蜂蜜を入れ、言われた通りに輪切りのレモンをカップに浮かべてみる。
再び驚いた。
レモンが入った途端、カップの中身が澄んだピンクになった。
「ね?美しいでしょう?」
いたずらが成功した、と言いたげな彼女の笑み。
つられて私もほほ笑む。
「確かに。ちょっとした手品のようですな」
久しぶりに女性と人間の会話らしい会話をした、そんな深い満足感と一緒に私は、ピンク色のお茶を飲む。
蜂蜜の甘味とレモンの香りのお陰か、それは喉から腹へじんわりしみる佳味だった。
不意に、一陣の風が店内を吹き抜けた。
「風向きが変わったようですね」
カウンター席にいた、厚地の白いシャツにVネックのベストを重ねた、嫌味なほどきれいに口髭を調えた男が言う。
六十代半ばほどの、彫の深い男前だ。
声楽をやってそうな深みが声にあり、いかにも二枚目っぽい雰囲気なのが、やや鼻につく。
「だからか、何か聞こえてきましたよ」
口髭の男の席から少し離れた、出入口寄りのカウンター席に座っている女性が言った。
マスターと静かな声で、印象派画家の中では誰が好きかなどという話をしていた人だ。
小柄でふくよかな、染めているのか赤みがかった髪の人だ。
どこかの民族衣装のような刺繍が裾にある、布地がたっぷりした胸当て付きの赤いロングスカートという、少女じみた服装なので実際の年齢はよくわからないが、おそらくこの中で一番若かろう。
「地区の運動会が、そういえば今日でしたね」
カウンターの向こうでマスターが言う。
「今年から競技とは別に、みんなで一緒に楽しめるイベントとしてフォークダンスをするとかいう話でしたよ」
あっはははは、と赤毛の女性が不意に大きく笑った。子供のように遠慮のない笑い声で、私は驚いた。
「やっぱり。これって『コロブチカ』ですよね、懐かしーい。小中学生の頃にやらされましたよ。ウチの息子の時代にはどういう訳か、やらなくなりましたけど」
「我々は職場のレクリエーションで少し」
口髭の男が言う。
「これでも上手かったのですよ。では……マダム・レイ」
席を立ち、彼女の前で口髭の男は芝居がかった感じで右手を胸に当て、恭しく頭を下げる。
「お美しいマダム・レイ。吾輩と踊っていただけますか?」
「わ、吾輩?」
彼女はひっくり返った声でそう言った後(そりゃあ、知り合いが急に芝居がかった調子で『吾輩』などと言い出したら驚くだろう)、人の悪そうな感じににやっとした。
「光栄ですわ、嘘つき男爵様」
「おやマダム、それは心外ですな。吾輩は嘘などつきません。法螺を吹くだけです」
しれっとそう答える口髭へ、皆からなれ合った笑いが向けられる。
この男がこういうお調子者なのは、店では周知のことらしい。
笑いながら『マダム・レイ』と呼ばれた女性は、スツールからすべり降りた。
しかしまさか本当に踊り出すとは、当然ながら私は思っていなかった。
お調子者ふたりはレジスター前の少し広い場所へ出てくると、真面目くさって向かい合った。
そして切れ切れに響いてくる音楽に合わせ、手を取り、ステップを踏んで踊り出した。
驚くのも通り越し、私は唖然とした。
カウンターからマスターが出てきた。
注意するのかと思いきや、踊っているお調子者たちのそばを行き過ぎ、レジスターの向こうにあるピアノの前に立つと鍵盤を叩き始めた。
素人くさいたどたどしい音だったが、ちゃんと『コロブチカ』のメロディだ。
(な……、なんなんだ、この店は)
歌声喫茶だのダンスホールだのという単語が、脈絡なく私の頭の中を回った。
素面の若くもない男女が真昼間から、当たり前のように楽しそうにフォークダンスを踊り出す。
正気の沙汰とも思えない。
それを店主が、止めるどころか煽るとはどういうことなのだ?
不意にぞくっと背が冷えた。
この喫茶店の周りが、ひと気のない荒れた雰囲気だったことを何故か急に思い出したのだ。
ここは……何かが変、だ。
うまく言えないが普通ではない。
常連客もマスターも常識外れだとか、そんなのは些末なことだ。
何か……何かが。
もっと根本的な何かが、うまく表現できないが、歪んでいる。
逃げろ。早く。捕まる前に!
私の中にかろうじて残っている獣の本能がそう言う。
静かに立ち上がろうとする私の腕を、誰かがそっと引いた。
白髪も皺も魅力にしてしまう、魔物じみた聖母がいつの間にか、そこにいた。
「Shall we dance?」
少女のように屈託なく彼女は笑い、諧謔を含んだ声で楽しそうに誘う。
「シャ、Shall we dance?はこの場合、ネイティブスピーカーには違和感があるそうですよ、奥さん」
腋に冷たい汗をかきながら、精一杯の強がりで私は言う。
彼女が『奥さん』と呼ばれる存在、つまり既婚者なのかどうかはわからないが、同世代の女性に呼びかけるのに、私はこの呼称しか思いつかなかった。
「う……Would you like to dance? あたりの方が適切でしょうね。Shall we……を使う場合は、ダンスを踊るのがある程度自明であって……」
怪しい英語の知識を総動員し、必死に言い募る私が可笑しいのか、ころころと彼女は笑う。
そして笑いながら私の顔を覗き込んだ。
「あらそういうものなのですか? でもこういうことは『ある程度自明』なのではありません?」
踊らない、選択肢はないらしい。
「わ、私はジジイです、フォークダンスなんか踊れる訳……」
「踊れますとも」
確信に満ちて彼女は言い、よろめく私を引いて連れてゆく。
彼女の柔らかな指が私の指先をつかむ。
ほとんど忘れていた優しいその感触。
かっと頭に血が上る。女性、いやそれ以前に誰かと手を取り合うなど、もはや半世紀ばかり無かったのではないだろうか?
ワンツースリー、の掛け声。
もたもたとした足取りの私へ、パートナー役の彼女だけでなく、先に踊っていたお調子者ふたりもさり気なくサポートしてくれる。
「本当に初めてですか?お上手でいらっしゃいますな」
まんざら嘘でもなさそうな声音で、口髭の男がターンの合間に私へそう言う。
おだておってこのお調子者が、その手に乗るかと思う反面、嬉しい。
子供のようで恥ずかしいが、褒められれば悪い気はしない。
曲は繰り返される。何度も何度も。
規則正しい旋律。
規則正しいステップ。
顔の横で打ち鳴らす拍手をひとつ。
いつの間にか私は、ごくごく自然に何も考えずに、パートナーの手を取ってステップを踏み、ターンしていた。
流れにうまく乗れるようになると、繰り返されるリズムというのは生理的に心地が良い。
一体私は何をしているのだ、いい歳をして恥ずかしいと時々我に返りかけるが、その度に彼女の楽しそうな笑顔、彼女からふわっと流れてくる桃に似た甘やかな香りに、まあいいかと腰砕けになる。
……そうだ。
今まで私は七十年以上も、生真面目に生きてきたのだ。
少しくらい羽目を外し、馬鹿をやっても罰は当たるまい。
その馬鹿も、今日初めて出会った浮世離れたお調子者たちと初めて来た喫茶店でフォークダンスを踊る程度のことだ、可愛らしいではないか。
「いいですねえ、皆さん。じゃあそろそろセオリー通り、パートナーの入れ替えをしましょう!」
鍵盤を叩いているマスターが楽しそうに叫ぶ。旋律が少し早くなる。
ターンして戻ってみると、パートナーが『マダム・レイ』になっていた。
人懐っこく彼女は笑み、私の指先を取る。
愛嬌のある丸顔に似つかわしい、ふっくらとした温かい手。
幼い頃の娘の手を思い出す。
スリーステップターン。
拍手。
腕を高く掲げ、くるりと回ってパートナーと位置を入れ替わる。
刹那、ぎょっとした。
彼女は確かに小柄で背が低い。
しかしこんなに低くはなかった。
スリーステップターンを踏んで赤いスカートをひるがえす彼女は、私の胸にも満たない身長だった。
貫禄さえあった胸や腰回りも、削られたかのように細い。
骨に貼りつくような薄い肉と皮は、まだ娘ではない少女の、か細く頼りない身体つきだ。
着ている服装のせいもあるのか、チロルかどこかの純朴な少女のようにも見える。
(え? ええ?)
何度も目をしばたたく。
そんな私の様子が可笑しいのか、彼女は私を見上げてきゃははと笑う。
異性を意識する前、屈託のない子供の笑顔だ。
それでも身体はリズムのまま動く。
低い位置で手を取り、再び彼女と位置を入れ替える。
(ああ?)
マダム・レイ、だ。
胸にも腰にも十分に貫禄がある、小柄ながらどっしりとしたご婦人だ。
(見間違い……?)
そうだ、そうに違いない。
再びパートナーが変わる。
桃の香りと同時に差し出される指先は細く柔らかく、少しひんやりしている。
出会った頃、新婚の頃の妻をふと思い出す。
あのがさつな婆さんも、昔は緑の黒髪に桜色の頬の可憐な娘だったのだ。
結婚前、何かの折に触れた妻の指が折れそうに細く、ひんやりしているのに胸が詰まった。
この人を守らなければという使命感がその瞬間、私の胸に燃え上がったものだ。
(……ああそうだ、忘れていた)
見合いで結婚した妻だが、決して恋愛めいた気分がなかった訳ではない。
彼女を思うと胸があたたかくなり、彼女が待つ家へ帰るのは喜びだった。
ただ……あまりに日常、あまりに当たり前になってしまっていたので、感謝も喜びも薄れ、妻は私にとって空気のような存在になっていた。
いくら大事だったとしても、空気にいちいち感謝しないのが人情だろう。
(しかし人は空気ではない)
そんな当たり前のことを今更ながら気付く。
あれが私を空気扱いしたとしても、私に責める資格などなかったのだ。
スリーステップターン。
拍手。
腕を高く掲げ、くるりと回ってパートナーと位置を入れ替わる。
刹那、彼女の髪がほどける。白い髪がなだれ落ち、甘やかな香りと共に広がる。
(え?)
広がり、背中を覆う髪は艶やかな黒髪。
記憶の中にある妻の髪だった。
髪をひるがえし、彼女はステップを踏む。
上気した頬。
楽しそうな光が踊る黒い瞳。
年をとっても美しいご婦人は、若い頃も当然美しいのだな。
茫然とステップを踏みながら私は思った。
楽しそうにほほ笑み、私を見つめる真っ直ぐな瞳。
妻もかつてあんな瞳をしていた。
あんな笑顔で私へ、お帰りなさいと言ってくれていた。
(それがいつからただの形式、ただのルーティンになった?)
子供が生まれてから?
子供が学校へ行くようになってから?
それとももっと前、いやもっと後なのだろうか?
思いながら顔の横で手を打ち、彼女の手を取り位置を入れ替わる。
白い髪を結い上げた、桃の香りの老いてなお美しいご婦人。
さっきまでの彼女だ。
「もう、嫌だ」
ついに私は叫ぶ。たたらを踏む。
「嫌だ、もう嫌だ、気が狂いそうだ!」
肩がぶつかる。
「おや、どうかしましたか?」
隣で踊っている口髭の男が言う。
目を上げ彼の顔を見、息がとまる。
綺麗に櫛目の入った白いものの多い髪。
しかしその下に、例の彫の深い二枚目俳優じみた顔はなかった。
洞のように暗い眼窩がこちらを見ている。
いや見ていると言えるのか?
彼には、眼球がない。
「どうなさったのですか?」
深みのある声の合間に響く、おとがいの関節が触れ合うカツカツという音。
(が、骸骨……)
人は皆、やがて骸骨になる。
まるで新しい真理を見付けた科学者のように、あるいは悟りに至った求道者のように、私は静かに感動していた。
くるくるとスリーステップターンを踏みながら、私は見つけたばかりの真理を見つめる。
白と黒の垂れ幕、白菊で飾られた祭壇が刹那、何故か脳裏に閃く。
喪服姿の息子、娘、そして妻。
後姿の妻の背が、はっと胸が衝かれるほど小さい。
意味がよくわかっていないのか、幼い孫たちは退屈そうにうろうろしている。
(私……私は?)
一体誰の葬式なのだ?鬼籍に入りそうな親戚の誰彼を思い浮かべる。
祭壇の写真。それは……。
「帰りたい」
手を打ち鳴らし、反対側へスリーステップターンを踏みながら私はうめく。
たった今見えたすべてを頭から押しやる。
こんな状況なのに、踊りは止められない。
「何処へ?」
低い位置で私の手を取る、マダム・レイだったはずの少女が甲高い子供の声で私へ尋ねる。
「何処へ帰るの?お父さん」
「私は君のお父さんなんかじゃない!」
駄々をこねる小学生のように私は叫ぶ。
「家だ、家へ帰るんだ!」
「家って、何処?」
答えようとした途端、喉が詰まる。
改めて問われると……答えられなかった。
「別に帰らなくてもいいではありませんか」
どことなく笑いを含んだ、口髭の男だった骸骨の声。
骨と骨とが触れ合う、背筋の冷える硬質な音もそこには混じっている。
「我々と踊っていましょうよ、いつまでも」
「そうそう」
楽しそうに少女の声が同調する。
(捕まった、捕まってしまったんだ……)
己れの中の獣の警告を思い出す。
しかし彼らが化け物だなどと、一体誰が思うだろう?
絶望に沈む心とは裏腹に、身体は軽快に動き続ける。
『コロブチカ』は繰り返される。
さながら私を追い立てるように、徐々に徐々に旋律は速くなってゆく。
ターン。
拍手。
入れ替わるパートナー。
「無意味だ。無意味だ!」
たまらなくなって叫ぶ私の声が、狂おしいまでに速くなった『コロブチカ』の旋律に飲み込まれる。
「嫌だ、もう嫌だ!もう沢山だ!」
情けないことに涙すら出てくる。
「頼む、お願いだ、ここから解放してくれ!」
「止めようと思えばいつでも止められますよ?あなたが止めたくないだけでしょう?」
上品な老婦人だった、美しい黒髪の乙女からはやはり桃の香りがする。
「ご自分の心ひとつですよ」
「そうそう」
お調子者の男は骸骨になっても軽薄だ。
骨になった手をカチャリと打ち鳴らし、笑う。
「踊っているということは踊りたい、そういうことです」
「そんな……そんな、ことは」
息も絶え絶えになって私は抗う。何だか眩暈がしてきた。
「止め方がわからないんだ、わからないんだ!」
柔らかな乙女の指先が、よろめく私の両手をしっかりとつかむ。
「難しく考えないで」
アーモンド形の目の中で、黒曜石の瞳が輝いている。赤い唇が優しくほほ笑む。
「気持ちのいい風の吹く方、あたたかい光の差す方へ行こう、ただそう思って進めばいいのですよ」
言葉と共に吐き出す彼女の息は、甘やかな桃の香りだった。
「あなた、は……」
茫然とそうつぶやいた瞬間、曲の最後の一音が高らかに鳴った。
はっとして顔を上げる。
私は公園のベンチに座っていた。
しばらく茫然と空を見た後、右手の中を見る。
淡い桃色の小さなハンカチ。
地とほぼ同じ色の、細く儚い刺繍糸で四隅に花の刺繍がなされている。
花と同じ色の糸で刺された、流れるような筆致の『MOMO』は、彼女の名前なのだろうか?
(気持ちのいい風の吹く方、あたたかい光の差す方……か)
妙に照れくさくなり、私はうつむいて少し笑った。
もう一度顔を上げる。
まぶしさに目をすがめながら、私は、黄金色の午後の太陽をしばらく見ていた。
「行こう」
つぶやき、私は風の中へ彼女のハンカチを託す。
薄く小さなハンカチは、瞬くうちに見えなくなってしまった。
ベンチから立ち上がる。
身に着けているのは五つのくるみボタンの、妻が編んでくれた生成りのカーディガン。
(これ、気に入っていたんだよ、お前……)
言わなかったけれど。
後悔に胸が痛む。
気持ちのいい風の吹く方、あたたかい光の差す方へ。
口の中でつぶやき、ためらいながらも私は、ゆっくりと歩き始めた。