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サヨナラの言葉ではなく

 朝食の後洗顔と歯磨きする為に歩いていると看護師から補助されながら高齢の女性が歩いている。

「ここ病院よね~? 私入院しているの?」

 その声と会話で気がついた。この女性昨日お向かいの部屋の一番廊下側のベッドに入っていた患者さん。昨日声だけは聞こえていたのだがら顔は知らない。見ると小さな身体のお婆さん。喋り方だけでなく表情もあどけないので幼く見えてしまう。

「井上さんは、お胸の機械の電池交換の為に昨日手術して今日退院なんですよ」

「あら~私が病院いること家族は分かっておるのかしら? 心配していないかしら?」

「大丈夫ですよ~昨日ご家族さんはコチラにこられていましたよ。今日お迎えにも来ますから」

 痴呆があるようで一時間毎にこんな会話をしている。しかも昨日は術後安静でベッドから出てはならないのにベッドから出て、看護師さんに見つかり同じ会話を繰り返している。

 その為にナースセンターに近い部屋に移動させられた。

「この入院は急遽決まったの?」

「違うと思いますよ~ペースメーカーの電池交換なので、この日にしましょうと話し合いをしての手術だと思います」

「あら、私が入院嫌がると思って家族は秘密にしていたのかしら?」 

 ここでの言葉が、「あら~私ったらまた忘れちゃったのかしらダメね~」の二パターンあるが、昨日から起きている時はこの繰り返し。

 看護師さんも大変である。とはいえこのお婆さんはまだタチはいいのかもしれない。

 穏やかな性格の為に、説明すれば納得はして言うことは聞いてくれる。

 しかし一時間ちょっとくらいしかその記憶が持たない。そのたびに同じ説明を看護師さんがしている。

 多分彼女は家に戻ったら入院していた事実も忘れてしまうのだろう。それはそれで羨ましい気もした。


 俺はそんな会話を聞きながら、部屋に戻ろうとしていると、突き当たりの窓の所で富士山を愛でる会が今日も絶賛開催されている。

 いつもと同じ光景なようで少し様子が違う。

 富士山鑑賞会仲間のお婆ちゃんの表情がいつも以上に輝いている。

 今日のお婆ちゃんは小さめの洒落たスカーフをオシャレに頭に巻いていて、パジャマではなく普通に洋服姿。

 肌の色はいつもより健康的で明るいのはお化粧もしているからだ。

「お婆ちゃん、今日退院なんですね!」

 俺がそう話しかけると、お婆ちゃんは更に弾けるような笑顔を見せる。

「そうなのよ〜。 もう少ししたらオトウチャンも来てくれるのよ」

「おめでとうございます」

 嬉しそうに話すお婆ちゃんは、はしゃいだ様子で俺に色々話しかけてくる。それだけ退院が嬉しくて堪らないようだ。

「そうだ! ちょっと待ってて」

 お婆ちゃんは小走りで部屋に戻っていく。

 病院における退院は完治という訳ではなく予定されている一つ治療スケジュールの終了でしかない。

 闘病は退院した後も続く。

 しかし今のお婆ちゃんは元気そのもので、その様子を見ると本当に元気そうで俺も嬉しくなる。

「はい! よかったらコレ貰ってくれない」

 そう言ってレジ袋を俺に差し出す。中を見ると開封していないボックスティッシュと、割り箸の束。

「お兄さんに使ってもらうと嬉しい! ティッシュはいくらあっても困らないわよね? あと病院のお箸ってやはり色々気になるでしょ。

 だから割り箸使っていたんだけど、余っちゃって。スマホの使い方の授業料と思って受け取って!」

 ティッシュボックスも箸も退院後も普通に使えるもので申し訳ない気もする。それに俺も明日退院となる。

 しかし、お婆ちゃんが退院の際に少しでも身軽になって気持ちも軽くしたいという気持ちがなんか分かったのでお礼を言って受け取ることにした。

 その後きたヤクザのオッサンにもボックスティッシュを配るお婆ちゃん。断捨離を着々と済ませ、お婆ちゃんの心は更に軽く明るくなっていっているようだ。

「お婆ちゃんええなぁ。これから旦那さんとデートかいな」

 オッサンもティッシュボックスを素直に受け取っている。

「そうなのよ〜! 喫茶店とか行くのもいいわね〜」

「ええなぁ、青春って感じで!」

 お婆ちゃんと、オッサンが楽しそうに話している。

 デート前の女の子のようにソワソワしている可愛いお婆ちゃんの姿を見ていて、ただ嬉しいそれだけだった。

 お婆ちゃんは電話がかかってきたのか、デイルームへと走っていった事で、何となく解散となる。


 今後の退院後の生活指導の一環で薬剤師との面談を終え、俺はデイルームに飲み物を買いに行く。

 そこで旦那さんと一緒にソファーに座って会計を待っているお婆ちゃんを見かけた。二人で仲良くニコニコと穏やかに会話を楽しんでいる。

 こういう姿を見ると、結婚っていいなと思った。

 余りにもしげしげと見すぎたのかも知れない。目が合ってしまう。

 お婆ちゃんは目を細めて微笑んできたので俺も会釈して挨拶をする。

 旦那さんに俺の事を入院中とてもお世話になった人と紹介されてしまい、旦那様にえらく感謝され恐縮してしまった。

 この何とも気分の滅入る入院生活を穏やかなものにしてくれたお婆ちゃんには感謝しかない。

「お元気で!」

「お兄ちゃんもね」

 こうして俺はお婆ちゃんと別れた。

 毎日のように誰か退院して行くこの場所で、別れを悲しむなんてことはない。再会の約束もなく、「サヨナラ」ではなく「お元気で」や「気を付けて」の言葉と笑顔で送り出すだけ。


 慌ただしく出会いと別れの繰り返し。それがこの病棟の日常。

 そして俺も明日、やっと退院する。

 体調も良いので、リハビリ感覚で少し動きバスで帰ろうかと思っていたが、渡邉が迎えに来てくれるという。

 俺がテレワークの業務をするにあたって、会社でつかっていたノートパソコンとスマホを俺の家に届ける必要もあるから。

 俺は大きく深呼吸をする。

 もう患者ではなくなる! 元の生活に戻っていかないといけない。

 俺はベッドに戻り、病院に着てきた服や入院中に溜まった洗濯物を院内のランドリーで洗う。

 洗い上がった服を畳み、荷物の整理を始める。

 荷物を整理していくことで、気持ちを切り替えるように。

 そして元の日常へと向かうように気持ちをのハンドルをゆっくりと回した。

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