表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/10

5.アクアツアー

 絵里は震えていた。まさかこんなところで、あいつに出会うなんて。


 勤め先の病院はまあまあの規模を誇っている。だから、ちょいちょい近隣の小学校から社会科見学の問い合わせなんかがやってきた。正直、業務の妨げだなとは思うけれど、ここで嫌がったそぶりをすれば、後々来院してくる患者さんの数にも影響しかねない。何と言ってもこの病院に来る患者さんは、その小学校に通う児童や教職員であり、そのご家族がメインなのだから。


 だから、基本的に社会科見学の問い合わせは受け入れている。誤算だったのは、今回の対応の担当が絵里であったこと。どうせなら既婚者の子ども好きにやらせればいいだろうに。もしかしたらいつまでも結婚しない絵里に対して、子どもは良いものよという周囲のお節介なお膳立てだったのかもしれない。いずれにせよ、十数年ぶりに聞く電話口の第一声で背筋がぞっとした。相手のフルネームを確かめて、喉がカラカラになる。うまく舌が動かせない。果たして何と言って受け答えをしたのか絵里には記憶がない。頭は真っ白になったはずなのに、きちんと手はメモを取っていて、あっさりと社会科見学の日時は決定した。


 当日対面した男は、絵里のことをかけらも覚えていないらしい。離婚した母親に着いていったおかげで、苗字が変わったのも幸いしたのかもしれない。小学校を転校して以来、顔も見ていなかったあの担任教師は、何と校長をやっているのだという。舐めるように絵里の身体を見る視線のせいで、あの時のように服を剥ぎ取られたような気持ちになる。今でも相変わらずヘビースモーカーなのだろうか。すれ違いざまに漂ってきた、男の身体に染み付いた煙草の香りに嘔吐えずきたくなるのを必死で堪える。代わりに必死で心の中で唱え続けた。小学校四年生のあの時から今にいたるまで、ずっと繰り返し続けてきたように。


 死ね、死ね、死んでしまえ!


 あの担任教師を思い出す煙草は大嫌いだ。煙草が嫌いだと口にすれば、好きな相手が吸うなら許せるようになるよなんて冗談交じりに言われるけれど、そんな訳がない。あの臭いを嗅ぐだけで一瞬にして思い出す。首筋にあたるちくちくとした無精髭。大人の男の無骨なてのひらが身体中を這い回るあのぞっとする動き。気持ち悪くて、一瞬で胃が痛くなる。だから煙草を吸う医師や患者さんの前では、申し訳なさそうに謝るのだ。ごめんなさい、ちょっと喘息のけがあって、咳き込んじゃうの。嫌いだと答えるよりもよっぽど角が立たない。


 絵里はもう男には期待しないことに決めている。男なんて不確かで、自分勝手で、わがままな生き物だ。あんな生き物に期待して、傷つけられる人生なんてもううんざり。昔は、絵里だって思っていたのだ。いつか自分の過去も傷も含めてまるごと受け止められる人がいるはずだと。けれど、意を決してこの話をしてみれば、重いとドン引きされたり、はたまたそういう作り話をして気が引きたいのかと罵られたり。


 トンチンカンな元カレに至っては、俺が吸うなら煙草の匂いも好きになるだろうなんて馬鹿なことを言って、やめていたはずの煙草を目の前で吸い始めたりと散々だった。自分の傷をわかってくれる男なんて、きっとこの世の中にはいないのだ。そう諦めてしまえば、誰かとわかりあいたいのに、わかりあえないと苦しむこともなくなって、前よりもずっと息がしやすくなった。結婚したいと思わないようになったのも、きっとこの頃からだ。


 それに絵里は、子どもを産めない。人体の機能的には産むことも可能かもしれないけれど、産んでしまえばあまりにも子どものことが心配できっと気が狂ってしまう。産んだ子どもが女の子なら、なおさらだ。男性の保育士に娘の着替えやトイレの補助をして欲しくないと言う母親たちの意見がネットで取り沙汰されていたが、その気持ちが絵里にはよくわかる。自分だって絶対にそんなことをしないと思っていた担任教師にそういうことをされたのだ。しかも小学生で言葉も話せたのに、あまりの恥ずかしさと自分が悪いのではないかという思い込みから、周囲の人間に助けを求められなかった。


 被害にあっていない人は気楽に「言えばいいのに。言えないのは何かあるからだろう」なんて言うけれど、どれだけの苦しみを被害者が飲み込んでいるか、想像もつかないに違いないのだ。そんなことが我が子の身に起こったらどうなるか。きっと絵里は相手をめった刺しにして、殺してしまうに違いない。だから絵里は一人で生きて行くつもりだった。傷が癒えることはないけれど、搔きむしらなければ治りきらない傷口から血が流れ出ることもないのだから。


 ああ、それにしても同じ空間の中にあの男がいるだけで、空気がよどむ気がする。冷静に振舞っているつもりだったけれど、怖い顔をしていたのかもしれない。見学中の女の子に、大丈夫?とそっと聞かれてしまった。色白の大人しそうな可愛らしい少女。その優しさが嬉しくて、見学の間中、こっそり少女の姿を追いかける。真夏だというのに、スカートではなく長ズボンを履いている。動きにくさを嫌うのであれば、小学生に人気のスカッツもあるし、キュロットでもいい。どうして、この子は長ズボンを履いているんだろう。そんな疑問が脳裏を掠めた時、すれ違いざまにあの男が少女の尻を撫でるのが見えた。少女の股の間に手をぐりぐりと差し入れるのも。


 ぎゅっと唇を噛み締めて、少女が下を向いている。周りは案内役の説明に耳を傾けているらしい。熱心にメモを取る音だけが聞こえてくる。誰も気がつかないのか。それとも自分の時と同じように、知っていてみんなが影でこそこそ笑っているのか。息が上がって、苦しい。呼吸ができない。ひゅうひゅうと音がする。ああそうだ、こいつはそういう男だ。恥ずかしくて声も出せないのを知って、授業中にパンツの中に手を入れてくるような男だった。


 死ね、死ね、死んでしまえ!


 絵里は殴りかかりたいのを堪えて、少女に落し物だよと声をかける。差し出したのは絵里のピン留めだ。あの男に何かされていたのが自分の勘違いなら、きょとんとするに違いない。けれど、少女はほっとしたようにありがとうと言って、受け取ってくれた。髪を結い直してあげる。そう言って男と少女の間に割り込む。ぎゅっと手を握ってやれば、少女もまた子どもらしい体温のてのひらで握り返してくれた。ああ、どうすればこの少女を、昔の絵里を救ってやることができるのだろうか。


 ねえ、知ってる?

 眠れない夜は、桃色のペンでうさぎを描いてから枕の下に入れて眠ってごらん。

 びっくりするくらいよく眠れるんだって。


 そんな噂を教えてくれたのは、同僚の莉奈だ。社会科見学が終わってから、うまく眠ることができなくなった絵里を見かねたらしい。絵里もまたそんなおまじないが効くなんてちっとも信じてはいなかったけれど、少しでも眠れればと藁にもすがる思いで桃色のうさぎを描いてみる。意外と可愛らしくかけたのは、小児病棟の子どもたち相手にお絵かきを繰り返したおかげかもしれない。


 最近の寝苦しさが嘘のように、すとんと意識が飛んでいく。はっと気がつけば、足元には水族館のように大きな水槽があった。ゆらりと奇妙な影が目の前を通り過ぎる。よく目を凝らせばそこにいたのは不恰好な人面魚だった。あの憎らしい男の顔が、巨大な醜い魚にくっついている。ぱくぱくと口を開けて、物言いたげに絵里の方に顔を出す。そのアンバランスさがまた醜悪で、思わず絵里は近くにあった石ころを、人面魚の顔面に投げつけた。よく見れば、さもご自由に投げつけてくださいと言わんばかりに、足元には小石が大量に落ちているのだ。どうしてこの魚は逃げないのかと思いきや、この大きな水槽ですら魚にとってはあまりにも小さなものらしい。逃げようにも逃げられず、よたよたとその身をくねらす魚に、無心でつぶてを投げ続けた。


 ああ、この男は岸に打ち上げられた魚と同じなのだ。びちびちと無様に跳ねて、苦しめばいい。すぐに殺してなどやるもんか。絵里は毎晩夢を見る。わざと水を抜いた水槽の中でのたうち回る様子を観察したり、別の肉食魚を水槽の中に投入したりする。少しずつ喰い千切られていく様を見ていると、長年に渡って苦しめられた絵里の傷が、少しずつ癒されていくような気がした。そう、たとえこれがただの夢であったとしても。


 数日後、すらりと長い足を出して、夏らしいワンピースを着た少女が暑中お見舞いを病院に届けてくれた。帰り際に、校長が体調不良により退職したと聞き、絵里は心底安心する。ああ、なんて世の中は素晴らしいんだろう。真夏の太陽さえ、絵里を祝福しているようでうっとりと空を見上げる。


「最近機嫌が良いですね。彼氏でもできました?」


 にこにこと屈託無く聞いてくるのは、同僚の莉奈だ。可愛らしい顔で聞いてくるものだから、こちらは腹も立たない。


「まさか。最近魚を飼いはじめたのよ。意外と可愛くって」


 そう絵里が答えれば、莉奈はびっくりしたような顔をする。今までどんなに莉奈が勧めても、ペットに興味を持たなかった絵里の心境の変化に驚いたのかもしれない。


「へえ、魚って喋りませんけど、どうです? 意思疎通できますか?」


「無駄に喋らないから静かで良いわよ。あと、慣れてくると案外どういう気持ちかわかってきて楽しいの。何が嬉しいかとか、何が苦しくて嫌なのか(・・・・・・・・・・)とか。うっかり死んじゃうのだけが心配なんだけどね」


「わあ、良いなあ。アクアリウムも興味あるんですよねえ」


 お魚も飼ってみようかなと考え込む莉奈に、絵里は苦笑する。休みの日程が被らないせいで、ご対面していないけれど、莉奈の家には大型犬がいるのだから。


「あら、あなただってワンちゃん飼っているんでしょう。水槽を荒らされないか確認してから飼ってね。それにしても本当にびっくり。ペットってこんなに心が和むのね。死んだらペットロスになっちゃうかも」


「ええ、本当ですよね。一日中見ていても飽きないんですから」


 絵里と莉奈はにっこりと目を合わせると、早く仕事を終わらせて家に帰りたいねと笑ってみせた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ