3.ジェットコースター
ああ、お腹が空いて堪らない。
買い置きしていたせんべいをばりばりと食べこぼしながら、由紀は必死でキッチンの引き出しを引っ掻き回す。ないない、何にもない。ああ、奥から賞味期限切れの乾物のわかめが出てきた。これはそのまま食べられるかしら。一瞬掠めた疑問はそのまま通り過ぎ、水に戻すこともなくわかめを口の中に突っ込んでいく。ああ、引き出しの中に食べ物は何もない。ぐちゃぐちゃに引っ掻き回された買い置きの台所用品があるだけだ。
そもそもこの収納棚は、背の高い由紀でさえ手が届かない部分が多すぎる。おしゃれな北欧式とやらにのせられて、きちんと事前に確認を取らなかった夫は全く持って使えない。キッチンの床に傷が付くのも気にしないで、ずるずると大ぶりな椅子を引きずってくる。海外製の家具は日本のものと違ってしっかりとした作りのせいで、意外に重量があった。抱えて運ぶのさえ、今の由紀には億劫なのだ。
人生でダイエットをしていない時期なんてなかった。世の中の男性は数値しかみないということを由紀はよく知っている。男なんて芸能人の公開している架空の数値しか知らないのだ。ウエストは五十五センチ以下、体重は四十数キロ、それでいて胸は程よく谷間もある。そんなお人形みたいなスリーサイズと体重が現実に存在するわけないだろうと罵りたくなるけれど、由紀は必死で影で努力をして、男たちが望むようなスリーサイズと体重を実現させていた。
大体、目の前で少食な女性は嫌がられるのだから面倒くさい。飲み会でもデートでも身勝手な男たちは、「にこにこと美味しそうにご飯を食べる女性は可愛い」だなんて、たわけたことを言う。食べたら食べたぶん贅肉として身になるに決まっているのに。
せんべいは今食べ終わったのが最後の一枚だった。収納棚の中身を一つ一つ取り出すのが突然嫌になって、由紀は勢いよく棚の中身を床に放り投げる。どうせここには軽いものしか入っていないのだ。床に投げ捨てて、割れるようなものはなかったはず。床にばら撒かれたものの中から、食べられそうなものを必死で探す。こんなところにビスケットがあったのか。床に座り込み、封を開ける。むしゃむしゃとかぶりつけば素朴な甘さがじわりと口の中に広がる。ああ美味しい。何かを口にしている時だけは、こうやって幸せだと感じられる。
食欲が爆発したのは、妊娠が契機だった。まだお腹も膨らみ始めていないと言うのに、食欲が止まらなくなったのだ。妊娠出産に関する本を読んでも、この時期に過剰な体重増加は良くないと書かれている。必死に水を飲んで自制しようとした由紀だったが、周囲はやたらと食事を勧めてきた。もともとが細すぎるのだから、大丈夫。身体が栄養を欲しがっているのだから、食べてあげることが貴女の仕事。甘く優しい言葉に、ついつい食欲が増す。悪阻が吐くタイプではなく、食べるタイプだったせいで余計に食べ物が手放せなくなった。食べている間だけは気持ち悪さから解放される。飲み物も甘い炭酸飲料しか飲めなくなっていた。
そうやって散々に食べた結果、産後の由紀の体型は独身時代とはまったく異なるものになってしまった。以前の洋服なんて一枚も入らない。こんな体型では外出する気にもなれなくて、すべての関心が食欲に向かってしまう。食べて食べてひたすらに食べ続けていれば、その間だけは何も考えずに済む。ただ美味しさだけを味わえばいい。そうすればもの言いたげな夫の視線も、泣きわめく我が子の声も何も気にならないのだ。
本当はお菓子が食べたいのだけれど、仕方がない。お腹が膨れるなら何でも構わない。由紀は冷蔵庫の中を漁り始める。冷凍のご飯も、缶詰も全部食べてしまった。野菜ならそのまま丸かじりできるだろう。サラダを作るということも考えられずに、そのままきゅうりにかぶりつく。ものをかじり、噛み、飲み込む。ただひたすらに、由紀が咀嚼する音だけが真夜中のキッチンに響き渡る。
夫がこの家に帰ってこなくなったのはいつからだろう。由紀はぼんやりと考える。妊娠中は身体の不調から実家に入り浸り、出産はもちろん里帰りした。産後もなんだかんだで実家に居座って、ようやく帰ってきたこの家には人が住む気配がなかったのだ。夫が容姿の衰えた自分にうんざりしているのには、気がついていた。もともと容姿の良さで、あの地味な佳衣から寝とったようなもの。でもそれだって、由紀からすれば当然の摂理だった。美人で必死に努力している自分よりも、あの冴えない友人が良い男と結婚するなんて許されるわけがない。そもそも夫だって、結果的に自分を選んだのだから、もっと尽くすべきではないだろうか。例え、子どもに血の繋がりがなかったとしても、由紀が産んだというその一点だけで輝くほどの価値を放っているはずだ。
もっと見て、自分だけを見て。散々に甘やかされて育ってきた由紀には、両親の関心が孫に行くことさえ許せない。その子じゃなくて私を見て。頑張って産んだ私を褒めて。由紀の言葉は、困ったように苦笑いする両親にたしなめられる。帰ってこない夫、孫に夢中の両親、最近急に綺麗になったと評判の佳衣。ぐるぐるぐるぐる、視界が回る。
だめだ、だめだ。もっと食べなきゃ。もっとたくさん食べて、元気にならなきゃ。美味しいものをいっぱい食べなきゃ。
開けっぱなしの冷蔵庫から、ヨーグルトを取り出す。五百グラム近いサイズのものに、直接スプーンを差し込み、流し込んだ。オレンジジュースもそのまま口をつけて飲み干してゆく。生の食パンを片手に、バターを口に放り投げる。もそもそとするのが難点だけれど、高めのパン屋さんで買ったものだけあって味は折り紙つきだ。ふと、冷蔵庫の二段目の棚に、買った覚えのないソーセージが入っていることに気がついた。買った記憶はない癖に、なんだかとても見覚えがある。行儀よく並んだソーセージは、まるで由紀に握手を求めているようで、何故だか由紀は急に楽しくなってきた。そういえば最初に出会った時も、夫はなぜか外国のビジネスのように由紀に握手をしてきたのだ。懐かしい記憶を思い出しながら、由紀はソーセージにそのままかぶりついた。
「高橋さん、今日も変化なしだったわね」
「そうですね、病院に運び込まれてからずっと眠り続けてますね」
個室で眠る患者の様子を思い出しながら、看護師の絵里は同僚の莉奈に話しかけた。今はちょうどお昼の休憩どき。昼休みに食事をしていても、ついつい話は患者さんのことになってしまう。先日のジェットコースターの脱線事故では、二人の乗客が大怪我を負った。放り投げ出された女性客は頭部を損傷し今も眠り続けている。もう一人の重傷患者はこの女性の夫で、右手首がすっぱりと切断されてしまったらしい。年齢制限のせいで、乗らずにマスコットキャラクターと一緒に待っていた子どもだけが無事だったのだという。
「そういえば、今日もお子さんが来てましたよ」
「パパと一緒に?」
時々見かける顔の整った幼児の姿と、先に退院してからは一切姿を見かけないご主人の顔を思い出して、絵里は小首を傾げた。病院の中は一種独特な空間だ。ついつい看護師に身の上話をしていく患者の家族もとても多い。知りたくなかったご家族の裏事情も耳に入ることがあって、絵里はあまりそういうことは聞きたくないのだがそうも言ってはいられない。目の前の同僚もいろいろと聞かされてきたらしい。困ったような顔で返事をしてくれる。
「いやあ、それが何かいろいろあって離婚協議の真っ最中らしくて、ご主人は一度もお見舞いに来られたことないんです。事故にあった日も、久しぶりに家族で出かけた日だったらしいんですけどね。だから今日もおじいさんとおばあさんと一緒でしたよ。あんな二歳のよちよち歩きのお子さんが、『まま、ねんね?』なんて言いながら不思議そうにしているのを見るとなんだか泣けてきちゃって」
今日はそういえば、プレゼントをもらったんですよ。そう言いながら、莉奈が見せてくれた白い紙には、桃色の渦巻きが所狭しと描かれていた。一体何を描いているのやら、さっぱりわからない。
「あれ、それは何? ボールの絵?」
「やだなあ、ボールじゃないですよ。うさぎの絵ですって。『ぴょんぴょん』って一生懸命言ってましたから。まあ私にくれたのはついでなんですけどね。病院にいるママのために描いたみたいで、せっかくだから枕元に置いときました」
にっこり笑う同僚に、絵里は苦言を呈す。意識不明の病人の横に、いろいろ置いて良いわけがないだろう。大体何かあってからでは遅いのだ。
「ダメでしょう。変なものを患者さんの近くに置いちゃ」
「大丈夫ですよ。枕の下なら窒息の心配もありませんって。ご家族も喜んでらしたし、きっと良い夢が見れますよ」
うふふと笑う莉奈を見て、絵里は小さくため息をついた。