1.ミラーハウス
ねえ、知ってる?
眠れない夜は、桃色のペンでうさぎを描いてから枕の下に入れて眠ってごらん。
びっくりするくらいよく眠れるんだって。
美佳は小さくしゃくりあげていた。心細くて涙が溢れてくる。
どうしよう、両親や妹とはぐれてしまった。周りに見えるのは、見知らぬ家族連ればかり。ショーウィンドウのうさぎに気を取られている間に、一人ぼっちになるなんて。
こみ上げて来る恐怖心は、寂しさから来るものではない。そんなもの何も怖くなかった。一人でいれば、不意打ちで怒られることもない。母親の目に怯える必要もなく、むしろ気楽だなんて言ったらバチが当たるだろうか。
今彼女が恐れているのは、母親の機嫌が悪くなることだった。
きっと怒っているに違いない。美佳のせいで、せっかくの遊園地が台無しになったとこれから先ずっと責め続けるだろう。十年経っても二十年経っても、些細なことからこの記憶を引っ張り出して、美佳を責め続けるに違いないのだ。
どうしよう。どうしよう。
焦れば焦るほど、考えがうまくまとまらない。とりあえず歩き回ってみようか。運が良ければ、まだこの近くにいるかもしれない。
慌てていたせいで、うっかり転んでしまう。よそ行きとして着せられた妹の薄い桃色のワンピースが泥だらけになった。膝小僧から滲む血が、ぽたりぽたりとワンピースに落ちる。ああ、血が付いたら汚れが落ちないってもっと怒られるのに。ぱっくりと切れた膝の痛みよりも、誰が病院に連れて行くと思っているのかと怒鳴る母親の姿が恐ろしくてたまらない。
どうしよう。どうしよう。
思わず座り込んで目を擦っていると、ふわりと目の前に青い風船が差し出された。思わずその風船を受け取れば、目の前で桃色のうさぎがゆらゆらと揺れている。おかしなうさぎは、すっと遠くに見えるミラーハウスを指差した。
「ミラーハウスへいってごらん」
「そこにお母さんたち、いるの?」
うさぎからは何の返事もない。よく考えれば、このうさぎが美佳の家族のことを知るわけなどないのだ。迷子センターに行くか、はぐれた場所からむやみに動き回らない方がよっぽど良いに違いない。それでもただ怒られたくない一心で、美佳は遠くに見えるミラーハウスへと歩き出した。
ミラーハウスでは、何と両親と妹が待っていた。母親は苛々とした表情で、美佳の髪を引っ張る。その勢いで転んだ美佳を見下ろすと、無言で腕の内側をつねりあげた。悲鳴をあげたくなるのを必死で堪える。ここで大声で泣き喚けば、もっと怒られるのだ。黙ってごめんなさいと繰り返せば、それが一番早いし、痛くない。小突き回される美佳のことは目に入らないように、父親と妹は屋台で買ったポップコーンを美味しそうに食べていた。
両親と妹が先に行き、美佳はその後を遅れまいと必死で追いかける。うさぎにもらったはずの青い風船は、とっくに妹にとられてしまった。妹が欲しがれば、何でも両親は与えてしまう。美佳に分け与えられるべきものは何一つなくて、わかっていてもとても寂しい。
鏡の迷宮という名前の通り、たくさんの鏡が重なり合う。薄暗い中、数え切れないほどの自分の姿に囲まれるのはあまり気持ちが良いものではない。
これだけたくさんの鏡があれば、一つくらい偽物が混じっていてもわからない。そんな怖い話を思い出しながら、美佳は必死で歩く。その途中で、あれれと首を傾げた。前を歩く両親の姿がどんどん小さくなっているような気がするのだ。遠くに行ってしまったのかと思ったけれど、そうではないらしい。まるで萎んで行く風船のように、小さく丸まっていく。それにどうしてだろう、自分は反対にどんどん大きくなっているような気がするのだ。
あの怖くてたまらない母親と、何を考えているかわからない父親はこんなにちっぽけだっただろうか。今なら美佳が蟻を踏み潰すように、母親のことをぷちっと潰してしまえるような気がする。鏡の世界は、不思議の国のアリスだったのかと不思議に思いながら、美佳はミラーハウスの出口を出た。
珍しくぐっすり眠れたと、久しぶりに気持ちの良い朝を美佳は迎えていた。
枕元には、へにゃりと曲がった不細工な桃色のうさぎのイラストが落ちている。どんな夢を見ていたのかちっとも思い出せないけれど、何だかとても爽やかな気分なのだ。
着替えをして、さっと身支度を整える。家の中でいつまでもパジャマでいると、母はみっともないと酷く怒るのだ。自分だって年中、パジャマだか何だかよくわからないものを着ているくせに。
さっと食事の用意をととのえて、古びた実家の和室の扉を開ければ、介護用のベッドの上から不機嫌そうな母親が美佳を睨みつけてきた。今日の不機嫌なポイントは、一体なんだろうか。起こしに来た時間が遅いか、足音か、はたまた美佳が着ている服装が気に食わないか。そうこの母親は妹には何も言わない癖に、美佳が女性らしい格好をすると、色気づくなと激しく怒るのだ。
「いやあね。私が卵焼きが嫌いなのを知ってそんな朝食を持ってくるなんて」
どうやら朝食がご不満らしい。いつもなら何も言えずに、ごめんねと作り直してくる美佳だが、今日はそんな母親の嫌味を笑って聞いてみる。そう、この人は何を作って部屋に持ってきても文句を言うのだ。目玉焼きもゆで卵も卵焼きもオムレツもイヤ。卵を朝食につけなければ、卵一つ自由に食べられないと騒ぎ立てる。和食を作っても洋食を出しても、いつもイヤそうに食事をする。だから今日は、にこやかに部屋のごみ箱に朝食を全部捨ててみた。唖然とする母親に、にっこりと美佳は笑いかける。
「忘れちゃった? お母さんは、私が苦手なものを平気で食事に出してきたわよ。嫌なら食べるなっていつもごみ箱に放り投げていたじゃない。ごめんなさいって言っても、だったら全部食べろって髪の毛まみれのおかずをお皿に盛り付けていたでしょう。同じことよ。さあ、好き嫌い言わないでちゃんと全部食べましょうね」
ごみ箱をひっくりかえし、ごみごとお皿に盛り付ける。頭をひっつかんで、そのままぐいぐいと皿に押し付けた。ああ、何て簡単なことだったんだろう。口で言ってもわからないのだから、同じことをして教えてあげればよかったんだ。思わず恍惚としていれば、気管に食べ物が入ったのか、母親が盛大にむせ返る。呼吸が苦しくなったのか、あっさりと嘔吐した。
「きったないわね。誰が掃除すると思ってるのよ。さっさと脱ぎなさいよ! なんなの、ゲロまみれでいたいの。このグズ!」
罵倒しながら服を脱ぐように言えば、おろおろと慌てるのが妙におかしい。幼稚園の時に、具合が悪くて吐いた自分に、母親は風呂場で制服ごと冷水を浴びせかけた。それに比べて自分はなんと優しいことか。美佳は思わず半笑いで、母親を突き飛ばす。子どもの頃にあんなに大きく見えた母親は、気がつけば美佳よりも小さくて、か弱い、ただの口ばかり達者な老人になっていた。
「何よその目、文句があるのなら出て行きましょうか。別に頼んでこの家に置いてもらっているわけじゃないんだから。あなたがここに住んでくれって、泣いて頼んだんでしょう。もう忘れちゃったかしら? できるのなら、あなたの大好きな夫や、可愛いもう一人の妹のところへ行ってくれて構わないのよ。こっちは一緒にいるだけで虫酸が走るんだから」
夫に愛想を尽かされて熟年離婚した母親。年老いて身体が不自由になってからは、可愛がっていた妹からも毛嫌いされ、同居を断られた。もう何年も疎遠にしていたのに、同居してほしいという母の頼みを断らなかったのは、自分が必要とされるという状況に嬉しさを覚えたからだ。子どもの頃にかけらも与えられなかった愛情や感謝を、今なら与えて貰えるのではないかと思った自分の甘さにうんざりする。
今から、同じことをしてやろう。
大切なものを目の前で壊そう。友達や近所の人の前で恥をかかせてやろう。自分に自信がなくなるように、すべてのことをこき下ろして笑ってやろう。それでいて、他人の前では少しばかり優しくしてやるのだ。期待させるように。他人へ助けを求められないように。この母親が美佳にやり続けてきたことを、全部一つ一つ丁寧にお返ししてやろう。
「お母さん、大好き」
にっこり笑って、美佳は母親の鳩尾を蹴り飛ばした。