第六話 接近
「ごめん、まただめだったよ~」
昼休みになると五度目の脚本提出に飛び出していった菊池が、案の定肩を落として帰ってきた。
「知ってた」
なぜならもう他の脚本家が決まっているから、と私は答える。
「どうして駄目なんだろ〜」
菊池は私の席の机に手をかけしゃがみこんだ。生意気にも深いため息なぞつく。
「私の話聞いてますか菊池君」
君はお呼びでないんですよ、と私は座ったまま机をがたがたと揺らす。
バランスを崩した菊池は、とてっと尻餅をついた。彼の丸い瞳が私を捉える。
「このまま演劇できなかったらどうしよう」
珍しく弱音なぞ吐く。
何度もの推敲を重ねたおかげで、菊池の駄作も、なんとか脚本らしくみえるようにはなってきていた。
だが、学園祭まで二ヶ月を切った。
演劇部は、脚本担当の部員が書いた脚本に基づいて既に練習を始めているのだ。菊池の出る幕などない。
「この前練習を少し見たけどね、演劇部はね、もう学園祭の舞台の練習始めているんですよ」
床に腰を落としたままうなだれている彼に追い打ちをかける。彼の小さな身体ががより小さくなる。
「へぇ、演劇部の部活の様子まで見に行ったんだ。なんだかんだやる気あるんじゃねぇか」
背後から、にやけた顔のゲジ眉巨漢が現れた。
「私の看板が日の目を見る可能性がどれくらいあるのか、調査しに行っただけだよ」
ぐったりした菊池を助け起こしている嘘部を睨みつける。
「へいへい、じゃあなんだい、日の目を見ないなら描かないのかい」
「まあ、そうだね、描いても無駄になるのは嫌だし」
私の言葉に、菊池がぴくりと反応した。
「え〜そんなこと言わないで描いてよ〜僕がんばるからさ〜」
嘘部の腕の中で菊池がばたばた暴れる。
お前案外力あるんだな、と嘘部はがははと笑う。無論微動だにしないが。
「あはいはい分かりました。描きます描きます」
ここは大人しく返事しておこう。この毬栗頭の男にまた付きまとわれたらたまらない。
「やったあ〜」
私の返事を聞いて、大喜びした彼は細い両腕を上下させて万歳を繰り返す。
結局何も解決してませんけどね、と釘を刺すも、全くこちらの話を聞いていない。
「ほんと単純な奴だな」
私は飽きれてしまい、ねえ、と嘘部に同意を求めた。
「ん、まあ、お前もな」
さらっと意外な返事をする。
え、と聞き返すと、うそうそ、とへらへら笑う。
うそうそ、お前は複雑だよ、と笑う。
いきなり大きな看板に下書きするのは大変なので、いったん大きめの画用紙を使ってデザインのレイアウトを作ることにした。
美術室の奥の端の席で、静かにキャンバスに向かう。
最近は、看板製作の下準備のために、放課後は美術室に来ることが多くなっていた。
頻繁に来るようになって初めて、私以外の美術部員も、夏休み以来ほとんど来なくなっていたということに気付いた。
「先輩」
透き通るような声に振り向くと、色白の線の細い美少女が背後に立っていた。
「こはくちゃん」
今やっとその名を思い出した。
琥珀ちゃんだ。
その名を声に出したとき、彼女は驚いた瞳を私に向けた。間違いない。琥珀、それが彼女の名前だ。
琥珀色に輝く彼女の大きな瞳によく似合う、素敵な名前だ。
「きっと完成させてくださいね」
先輩の絵が好きなんです、と彼女は言う。
「一年生の部活動見学で、先輩の描いている絵を見て、どんな絵になるか、すごくわくわくしたんです。だから、美術部に入ろうかなって。生徒会に入るつもりだったので、兼業できる部活が良かったっていうのもありますけど」
でも、先輩の絵は完成しなかった、と彼女は眉を下げる。
「それは、申し訳ないことをした」
口では謝っていても、気分は少々高揚していた。
私の絵の完成を待つ人がいたことに、高揚していた。
「いえ。でも、先輩が立て看板のデザインをするって聞いた時は、うれしかったです。先輩の絵が見られるかもしれないって」
「どうして、この絵を看板に使うって知っているの」
私は首をかしげる。彼女には何の絵を描いているのか話した覚えがない。
「菊池先輩が、何度か生徒会室にいらっしゃって。その時に」
大変ご迷惑をおかけしています、と私は深々と頭を下げた。
菊池のことだ、演劇をさせてくれ、と図々しくも生徒会に直談判しに行ったのだろう。それもしつこく。何回も。
「本当にごめん」
いえいえ、と彼女の綺麗な瞳が笑った。
「私もできるだけ協力させていただきます」
おかげで先輩の絵も見られそうですし、とほほ笑む。
「とは言っても、難しいよね」
私は生意気にも、ため息なぞつく。
「大丈夫ですよ、奥の手がありますから」
いたずらっぽく、彼女は笑う。こんな表情もするのか、と私は目を奪われる。
美術室からの帰り道、デザインの参考資料を探しに本屋に寄った。
そこで、太眉巨漢に出くわした。
「やあやあ、嘘部君じゃあないか」
ぱん、とその大きな背中とはたくと、嘘部はゆっくりと首をこちらに回した。
「鳴か、驚かせるなよ」
彼は青い眉毛を額の中心に寄せる。
「全然驚いているようには見えないけどね」
ぱん、と私はまたその逞しい背中に触れる。
「俺がどう感じているのかは、俺にしか分からないさ」
自らの背中をぽりぽり掻きながら、彼はいつものように、にかっと前歯を見せた。
彼の手元を見ると、本を開いている。立ち読みをしていたようだった。
何の本を読んでいたのか気になって覗きこむと、彼は身をよじって抵抗した。
「シェイクスピアか」
やっとのことで奪い取ると、それはシェイクスピアの悲劇だった。
「まぁ、なんだ、菊池の脚本の参考にならないかと思ってな、適当に読み漁っていたんだ」
嘘部は本を私から奪い返し、本棚に戻した。
「へぇ、悲劇もいいかもね。悲しい結末も考えてみるように、菊池に言ってみようか」
そう私が言うや否や、だめだ、と彼は声を荒げた。
どうして、と、私は首をかしげる。
「とにかく、悲劇はだめだ。ハッピーエンドじゃないと。悲劇なんてもってだめだ」
なんだい、あなたが自分で読んでたんじゃないか、と私はふくれる。
とにかくだめだと彼は繰り返す。壊れたロボットのように。
「何考えてるか、分からない」
そう言って、私はふくれる。
「そうさ。俺が何を考えているかは、俺だけが知っている」
珍しく難しい顔をしながら、グローブのような掌を彼自身の胸に当てる。
「生意気な!」
静まり返った店内に私の甲高い声が響く。
何人かの客がこちらをちらりと見たが、すぐに彼らの世界に戻っていった。