第四話 非日常的日常
「安達さんに聞いたよ~。絵を描いてくれるんだね、ありがとう~」
朝教室に入ると、おはようの挨拶もなしに菊池が駆け寄ってきた。
彼女と二人でいるときも「安達さん」と呼んでいるのだろうか、と余計なことを考えながら席につく。
「僕も演劇部員として認めてもらえるように、脚本作りがんばらなきゃだ~」
彼は私の席の前でぴょんぴょんと跳ね回る。彼の四肢が騒がしく暴れる。
「ちょっと菊池君。認めてもらえるようにというのはどういうことですか」
彼の言い草にひっかかりを感じた私は首をかしげる。
私はてっきり彼は演劇部員なのだと思っていたが、どうやら勘違いだったようだ。
聞いたところによると、彼は二年生にあがってから演劇部に入りたいと思い演劇部部長に掛け合ったところ、部長の納得のいく脚本を持ってきたら脚本家でも役者としてでも何でも使ってやると言われ、一学期と夏休みをかけて脚本制作をしていたというのだ。
彼の要領を得ない説明をまとめると、そういうことになる。
「菊池君。残念ながら君の脚本は採用されないし、君は演劇部員になれないでしょう」
彼の不揃いになってきた毬栗頭に向かって、わざとらしく、はあっとため息をついた。
彼は、なんで、どうして、と言いながら今度は逆回転で回り始めた。その振動で私の机が小刻みに揺れる。
「どうせ君は部長にしつこく迫ったんでしょう。入部させてくれって騒ぎ続けたんでしょう。もう面倒くさくなって追い返すためにそう言ったに決まっていますよ」
菊池はなおも不満げに跳ね回り続ける。見てるこちらの方が目が回ってしまいそうだ。
「部長はあなたを入部させる気はないでしょうね」
彼から目を逸らし、くらくらするこめかみを抑えながら私は言う。
演劇部部長か、と私は部長についての記憶を探る。
確か今年の春に見かけたな。
そう、新入生の部活動見学の期間のことだ。
新入生の勧誘のために、演劇部は昼休みにカップル広場でデモンストレーションを行っていた。出されたお題を、部員が身体全身で表現する、というものだった。
例えば「ゾウ」と言われれば、部員は五秒以内にゾウの鼻やら耳やらを身体で作って静止する。「太陽」と言われれば、自分のイメージする太陽のものまねをして静止する。
大量の汗を吹き流しながらあらゆる姿勢で耐えている彼らの姿は、なんとも異様で不気味に見えた。
そしてこの「ゾウ」とか「太陽」とかお題を偉そうに言っている声の主が部長であり、その声が嫌にねっとりと耳に張り付いたので、彼のことは記憶に残っていた。
昼休みといえば、カップル広場で校内のカップルたちが繁殖する時間帯である。
そのときもカップルが何組も昼食中であり、ベンチに座りきゃっきゃうふふしながらデモンストレーションを見ていた。
それが気に食わなかった部長は、これは新入生のためのものなんだ、出ていけ、と怒鳴りちらし、その姿も笑われると、悔しそうに地団太を踏んでいた。
「ゾウ」
突然私がそう言うと、菊池はぴたりと回転をやめ、周囲をきょろきょろと見回してゾウがいないかどうか探し始めた。
「ゾウ」
部長の声を真似ながら私は繰り返す。
私が菊池を見つめていると、彼は、ぱおーん?と自信なさそうに鳴いた。
「何やってんの」
あまりに愉快だったので、ゾウ、ぱおーん?をしばらく繰り替えしていると、そこに、やたら図体の大きい男が通りかかった。
「菊池に演劇員としての素質があるか試しているところ」
私はその男の青太い眉にこたえる。
「へぇ、俺もやりてぇ」
私は再び部長の声で、ゾウ、と言う。
ねちっこく。纏わりつくように。口を縦に大きく開いて。
ところが、彼は仁王立ちしたまま動かない。
菊池は息を詰めてそれを見つめる。
「あのさ、確かに君はずっしりと重くてでかくて、立っているだけで像に見えるかもしれないけど、何かそれらしいことをしなよ」
しばらく待っても動く様子がないので、しびれを切らした私は彼の胸を突いた。
「本当はね、ゾウは鳴けないのさ」
彼はびくともせずに、私を無視して、菊池の方に向かってそんなことを言う。
違う、鳴けないのはキリンだよ、と私は言ってしまいそうになる。
「え、ほんと~?そうなのか~。知らなかった~。磯部君は物知りなんだね~」
ぱおーんって鳴くかと思ってたよ、と菊池は目をぱちぱちさせながら、お得意の間の抜けたような声を出した。
「私は信じないよ、なんてったって嘘部の言うことだからね」
私は仁王立ちの男に向かって人差し指を突き出した。
彼は、校内ではほら吹きで有名だ。
本当は磯部という苗字だが、嘘ばかりついているから嘘部、そういう不名誉なあだ名が付けられた。今では教師までもが彼をそう呼ぶ。
「なんだ、お前まで俺を嘘つき呼ばわりするのかよ」
彼は少し肩を竦めた後、私に向かってにかっと笑いかけた。もとから細い目が更に細くなる。
嘘部と私は小学校のときからの幼馴染だ。私が知る限り、彼は昔からほら吹きだったわけではない。
ほんの、一年前くらいのことだ。磯部が嘘部になったのは。
「ところで、これがお前の今日のお弁当か」
嘘部は私の机を指差し尋ねた。彼の太い指の先には、赤と黄色とで装飾された鮮やかな缶詰が置かれていた。
「何の缶詰?食べ物だよな?」
嘘部がひょいと缶を持ち上げて表面を見回す。
「いやこんな缶持ってきてないよ、なにこれ」
私は嘘部の大きな掌に包まれた缶を凝視する。眉間にぎゅっと力を込める。
「うーん、文字が読めないな」
商品名が外国の文字で印字されており、中身が何なのかさっぱりわからない。写真も絵もない。
「ふふふ。これはね、シュールストレミングというんだよ~」
菊池に目をやると、何故か、ぐーんとふんぞり返っている。
「ん、なに、シューフレミングだって?」
嘘部は興味深々に缶を眺める。
「松宮さんが看板を作ってくれるっていうから、お礼にどうぞ~」
私に向かって、どうぞどうぞ、と言いながら細い両腕を差出し深々お辞儀をする。
菊池が夏休みに行った海外旅行でお土産に買ってきたものだという。
一個しか買わなかったけど、松宮さんには特別にあげるよ、とまたふんぞり返った。
「そうか、それはありがとうございます」
私はその名を思い出して、慌てて嘘部の掌からそれを奪い取り、両手に抱えた。
私はこの缶の中身が何か知っている。正確には、この缶を開けるとどういう悲劇が起こるのかを知っている。
シュールストレミング。世界で最も臭い食べ物のうちの一つだ。
くさやの何倍もの臭さで、その臭いは殺人的な破壊力を持つ。缶を開けたら最後、周囲の空気は汚染され、この世のものとは思えない臭気に包まれる。この学校の悪臭トイレの比ではない。呪われる、臭われるどころの騒ぎではないだろう。
響から聞いたことがあるのだ。シュールストレミングがいかに恐ろしい生物兵器であるかを。
響は大学の友人と遊び半分でシュールストレミングパーティーをしたことがあった。結果、鼻は馬鹿になり、所持品のあらゆるものに強烈な臭気がこびり付いてしまい、洗っても洗っても落ちなかったという。
結局、ずっと大切にしていたカバンまで捨てたというのだから、相当なのだろう。
「なんだ独り占めするつもりかよ。俺知ってるんだぜ。そのシューフレミングってやつ、すっげぇおいしいんだろ」
俺にも一口くれ、と嘘部が奪い返そうとしてくる。
「嘘つくんじゃないよ。これはシュールストレミング。フレミングはこれでしょ」
私は左手の親指、人差し指、中指を立て彼の前に突き出した。右手に抱える缶は決して離さない。
「ああそうか」
嘘部は、技を出すように、シュー、と言いながら右手の指三本を立てた。
「フレミングは左手でしょ」
ああそうだったね、と今度は左手でシュー、と言う。気に入ったようで、がははシューフレミング面白いな、と言いながらシューシューやり続けている。
するとそれを見た菊池が対抗して、両手の指三本を立て、ヨー、と言う。嘘部も両手でシュー、とやる。
二人が楽しげに、「ヨー」「シュー」と下らない遊びを続けている隙に、私は缶を自分のカバンに入れた。
仕方なく、缶を家まで持ち帰った。
「ははは。護身用にでも持ち歩いたらいいんじゃないか」
こんなものもらってどうしようと言うと、響は愉快そうにそう笑った。
「開けたら私までやられちゃうじゃない」
全く私の苦労も知らないで、と色鮮やかなその缶を投げつけるふりをする。
響は思い切り飛び退いて震え上がった。高い所も幽霊も怖がらない気丈な人なのに。
ここまで人にトラウマを植え付けるとは。恐るべしシュールストレミング。
私は自分の部屋の引き出しの奥に、その恐怖の缶をそっと仕舞い込んだ。