第三話 過去
三年前。
一年前が高一で二年前が中三だから、中学二年生だった三年前。
「あたし、あなたと友達になってあげてもいいのよね」
そう安達さんに声をかけられてから、私たちは登下校をともにするようになった。
多分五月くらいのことだった。席替えで隣の席同士になったときだ。
彼女はその自己中心的で高慢な態度のせいでクラスにおいて大変浮いた存在であり、あまり関わりたくなかった。
だが、断った方が余計面倒くさい事態になりそうだと本能が忠告したので、とりあえず頷いたのだった。
彼女はテニス部に所属しており、毎日夜遅くまで練習をしていた。
美術部には入っていたものの期待されていなかった私は、遅くまで残って制作活動をする必要もなかったのだが、先に帰ろうものなら彼女は烈火のごとく怒るので、いつも彼女の部活が終わるまで待っていた。
時々、テニスコートまで彼女の勇姿を見に行くこともあった。
動くのに邪魔だからといってスポーツ刈りにした髪も、こんがりと焦げた細長い腕も、硬い筋肉の浮き出るふくらはぎも、あまりに美しかった。
この姿を絵に残せたならどんなに素晴らしいだろうと思った。
もちろん私にはできなかったけれど。
でも、いつか描きたいと強く思い、心に焼き付けていた。
帰り道、彼女は自分の話ばかりした。大好きなテニスの話や大好きなテニス部の先輩の話ばかり。
自己について語ることが苦手な私は、彼女の話を聞いているのは嫌ではなかった。話すよりも聞く方が何倍も楽だったのだ。
そんなある日、そんなある日といってもそんなある日が来ることを私は知っていたのだが、とにもかくにも私へのいじめが開始された。
季節はもう冬になっていた、と思う。
その日登校すると、私の机がなくなっていた。
私はこの日が来ることを知っていた。なぜならクラスの全員に必ず訪れる一過性の災難だから。
私のクラスでは四月から絶え間なくいじめが続いていた。ただ、いじめのターゲットはずっと一人に固定されていたわけではなく、ある生徒へのいじめが飽きるとすぐ別の生徒がいじめられるというシステムになっていた。
ローテーションのように、順々に標的が変わっていく。教師も例外ではなかった。
その意味では平等といえる。皆、等しくいじめられる。いじめの中にも、秩序があった。
そしていじめの方法もそれほど悪質というわけでもなかった。
机がなくなる、体操着が消える、話しかけても無視される。せいぜいその程度だ。
もとより安達さんしか話し相手のいなかった私には、大した痛手でもなかった。机はゴミ置き場から探してくればいいし、体操着も新しいものを買ってくればいい。たいしたことじゃない。
私の順番が回ってきただけだ。そう思った。
しばらくやり過ごせば治まる、そう思った。
私は私の番でいじめを食い止めようとか、悪の連鎖を断ち切ろうとか、そういう愚直なことは考えなかった。
それでは不平等になってしまう。秩序が崩壊してしまう。
安達さんとはしばらくの間距離をとることにした。彼女にも被害が及ぶ危険性があったし、単純に彼女が絡むと面倒くさそうだったから。
ただ、彼女は、それはそれはたいそうぐずるので、下校のときだけ一緒にいるという約束をして納得してもらった。学校から少し離れたところにある神社で待ち合わせをして、通常の下校ルートを逸れて遠回りをしてこっそり帰ろうという手筈だった。
その日も神社の境内で安達さんを待っていた。すっかり日も傾き、風も刺すような冷たさで、私は寒い寒いと独りごちながら震えていた。
立ちっぱなしも疲れるため石の階段に腰掛けるも、お尻が冷たくなるので立ち上がるというのを繰り返していた。
「こんばんはっと」
後ろから肩に手を掛けられ、振り向く。
視界に若い男の姿が現れる。
ああ、とすぐに気づく。安達さんの大好きなテニス部の先輩さんではないか。確か、加藤、なんとかさん。
焼けた肌に切れ長の目。安達さんよりもはるかに長くのばしたサラサラの髪。
実際に会ったことはなかったが、安達さんが何度も写真を見せてくるものだから、顔を覚えてしまっていた。
しかし、妙だ。
私は彼をよく知っているが、彼は私を知っているはずはない。彼から親しげに声をかけられるような間柄ではない。安達さんからの伝言でも伝えに来てくれたのだろうか。
ふと加藤先輩の後ろに目をやると、加藤先輩とおなじようにテニスラケットを担いだ男がもう二人いた。
加藤先輩のテニス部の友人だろう。テニス部の練習を見学したときに見かけた気がする。
二人はにたにたしながらこちらを見つめている。
ああ、とまたすぐに気づく。私はこれから乱暴されるのか。
逃げられないね、と脳は言った。
私は足が遅い。武器になるようなものも持っていない。
逃げられない、ああ、ああ、逃げられない。
結局のところ、私は加藤先輩について、何も知らなかったのだった。安達さんが見た憧れの加藤先輩しか、私は知らなかったのだった。
「可愛い後輩ちゃんに頼まれちゃったからさ、ごめんな」
ごめんという言葉とは最もかけ離れた、嬉々とした表情で加藤なんとかさんはそう言う。
私のクラスのテニス部員の誰かが頼んだのだろう。こんなことを頼む人間が可愛いものか、と天を仰ぐ。
「助けて、助けてください」
逃げられないと脳は理解しているのに、身体は理解していなかった。
気づくと私は階段を駆け下りていた。
階段の表面の苔を靴底でえぐりながら、私の足は転がるように滑るように下っていく。両腕も必死に空気を掻こうと暴れている。
助けてください、と私の喉は何度も叫んだ。声になっていたかはわからないが、私の喉は叫んでいた。
だけどすぐに、本当にすぐに、私は捕まった。
上からぱさりと学ランの上着が降ってきた。
その重みを感じてふと顔を上げる。
さっきの獣三匹の姿はもうなく、代わりに顔面蒼白な男の姿が目の前にあった。彼の足元にテニスラケットが転がっている。この人もテニス部員か。
彼は腰を折ってこちらを覗き込んでいた。
細長い脚とそこからのびるこれまた細長い胴は、キリンを連想させる。
「冗談だと思っていたんだ」
私と目が合うと、彼は少し後ずさり、私に掛けるべきあらゆる言葉をすっとばし、震える声でそう言った。
冗談。そうだ、皆冗談のつもりだった。冗談で終わるはずだった。
今回はたまたま、運悪く、冗談を冗談だと捉えられない者がいただけだ。
紙のように白くなっていく男の顔を眺めながら、考えられない頭でそう考えた。
秩序も平等も何もない。
ここは混沌と運で動かされている世界だ。
その世界にいたくなければ、そこに「いない」ことだ。当事者から、降りることだ。
私はそのことを思い出した。なぜ忘れていたのだろう。ずっとそうしてきたのに。
不思議とどこにも痛みは感じない。そこに確かに存在する痛みを、何も感じとることができない。
身体がふわふわとして、地面に座っているはずなのに、宙に浮いてしまいそうな感覚がする。膝にかかった学ランだけが、重力を有し、この地に私を留めていた。
学ランをきゅっと抱きしめる。自分に何が起こったのか理解しなければならないという思考と、知りたくないという思考が、全身を駆け巡った。
いずれにしても、今の私がこの世界において死を得るということだけが、私の唯一の救いになるだろうということは、ぼんやりと分かっていた。
次の日から私は、学校に行かなくなった。