第二話 奇怪なカップル
その日私は、誠に不本意ながらも、菊池を求めて学校中探し回っていた。誠に、誠に不本意ながら。
こちらが依頼を引き受ける気になった途端、菊池は突然私に付きまとうのをやめた。そのために、私は彼とコンタクトが取りづらくなってしまった。
彼の行先など気にも留めたことがない、気に留めないようにしていた私は、彼が今どこにいるかなど見当も付かなかった。当て所なく探し回るしかない。
私は彼に求められている側の人間であったはずだが、いつの間にか彼を求める側の人間になっていた。
まるで自分から彼に頼みに行っているようで、非常に癪である。菊池という生き物は、どこまでも不快な存在である。
同じクラスにいるのに何故こんなにつかまえられないのだろう。
菊池と話すのは次の日だってその次の日だっていつだって問題なかったのだが、探し始めてしまった私は少し意地になっていた。
私は貴重な昼休みの時間に、お弁当も食べずに校内を練り歩いていた。
どうして私がこんなことを、などとぶつぶつぼやきながら彼の消息を尋ね歩いた。
教室、実験室、職員室、体育館、グラウンド、そして男子トイレの個室まで。考えられるあらゆる生息地を探してみたが、菊池という生物は見当たらない。
唯一行っていなかったのは、中庭だけ。
ここは通称カップル広場と呼ばれ、その名の通り在校生徒の逢引の場である。
朝は登校したカップルが再会を喜び合っていちゃいちゃし、昼は彼らがお弁当をたべながらしちゃいちゃし、放課後は別れを惜しんでいちいちゃする。要するにいちゃいちゃする場所なのである。
恋人がいるとは到底考えられない菊池には、縁もゆかりもない場所だろうと後回しにしていたのだが、一応穴がないようにと見に行ってみることにした。
そしてそこに彼はいた。
より正確にいえば、彼と、彼女はいた。
菊池と女子生徒がベンチに腰掛け、楽しげに昼食をとっていたのだ。菊池が、恋人といちゃいちゃする場所で、恋人といちゃいちゃしているのである。
私は途端に菊池が誰だか分からなくなった。
菊池という奴は、周囲から疎まれていることに気づきもせず更に疎まれる、そういう明るく孤独な男ではなかったか。心の機微など到底理解できない、恋愛とは最も遠いところにいるお気楽な存在ではなかったか。
そうでなければ私は菊池という存在を、一切知らないことになる。私は彼の名前も存在も、なにも知らない。
混乱した私は、その場に立ち尽くす。
ふと女と目が合った。遠くからでもよくわかる、不気味なくらい整った顔が目に映る。
隣の隣のクラスの安達さんだ、と私の記憶が言う。
彼女のはっとした表情を認識するや否や、私は逃げ出していた。
彼女は苦手だ。
苦手、の一言に尽きる。
それは彼女に原因があるのではなく、私自身の問題であった。だから余計に苦手なのだ。逃げる他に方法がない。
追いかけてくることなどありえないが、それでも私は追われるように、足を緩めることなく自分の教室まで駈け抜けた。
放課後、私はひとりで下駄箱を後にする。
今日は先輩が部活で遅いというので、先に一人で帰ることにしたのだった。
昇降口を抜けようとすると、ドアの脇に一人の女子生徒が佇んでいた。
安達さんだ。
「あらこんにちは」
足音が聞こえたのか、彼女はぱっと顔をあげて挨拶してきた。
彼女の正確によく似た、凛として張りのある声だ。
わざわざ声をかけてきたということは、私を待っていたのか。彼女と挨拶を交わすなんて中学以来だ。
「あ、安達さん、お久しぶりです」
無視するわけにもいかないので、仕方なく返事をする。
「ケンチャンから聞いたのだけどね、あなた、ケンチャンに看板作りを頼まれたんだってね」
唐突にそんなことをいう。
ケンチャンって菊池のことか?けん、けんた、けんたろう、けんすけ、と、名前の候補が頭にぽんぽんと浮かんでは消えた。
「まあ、そうですね」
彼女の長く伸びた黒髪の毛先を見つめながら答える。
「わかっているとは思うのだけどね、けんちゃんはあなたに気があるから頼んだというわけではないのよね。あなたが人材として必要だっただけなのよね」
「はい?」
思わず視線を上にあげる。彼女のくっきりとした綺麗な二重と対峙する。テニスはもう止めてしまったのか、夏休み後だというのにその顔には太陽の痕がない。
「けんちゃんは私を愛しているのだから、あなたに気があるはずがないのよね、わかっているとは思うけど」
長く厚い睫毛をパサパサ上下させながらいう。
「はあ」
「けんちゃんはとっても素敵な人だから、声を掛けられたら好きになってしまうのは仕方ないことだと思うのね。でも勘違いしないでほしいのね。けんちゃんは私と愛し合っているのよね。あなたは諦めるしかないのよね」
彼女は腕を組み、さも難しげな表情で私を見つめる。
「はいわかりましたあきらめますさようなら」
否定する気力も起きず、脱力しきった私は彼女の横をふらふらと通り過ぎる。
恋は人を狂わせるというが、こういうことなのか。彼女の場合、今に始まったことではないけれど。
一人で狂っていておくれよ、と思う。誰も巻き込まずに独りで狂っていておくれよ。
「松宮さん」
呼び止められて私は足を止める。
振り返ると、夕日に照らされてか、それとも別の理由か、彼女の頬は鮮やかな朱色に染まっていた。
「あのとき私は知らなかったの。知らなかったのよ」
彼女にしては随分小さな、頼りない声だ。
あのとき、というのは中学時代の話だろう。
私と彼女はあれ以来一切関わりを持たなくなってしまったから、あのとき、といえばすなわち「あのとき」のことしか考えられない。
「菊池に、依頼を引き受けると伝えておいてください」
それだけ言って、私はまた、とぼとぼと歩き始めた。
わかっている。
彼女が悪人ではないことは、よく知っている。彼女はひどく癖のある性格をしているが、卑怯なことができるような人間ではない、と私はそう思う。
ただ、善人だろうと悪人だろうと、私には関係がないのだ。あのとき、あのクラスにいた全員が、私にとっての悪夢なのだ。
ああ、今日は秦先輩が必要だ。脳天を突き抜けるような快楽が、脳細胞を全て溶かしつくしてしまうような恍惚が、今日の私には必要だ。
先輩の帰りを待つことにしよう。このまま帰ったって、響に暗い顔を見せるだけだ。