第一話 開幕
調子外れなチャイムが響く。同時に私の身体は跳ね上がり、膝の裏で椅子ががたんと揺れる。奇行に気づいた二三人の視線を眼の端に認めるも、かまわず席を離れる。
がやがやという喧噪に包まれるこの教室で、私の挙動を気にかける者などいるはずもない。
彼らの興味の中心は彼ら自身にあり、すぐに彼ら自身の会話にもどっていく。
同様に私の興味の中心も私自身にあり、されば私自身の会話に集中するのみである。
幸いにも、最前列にある私の席からドアまでの距離は近い。出口を目指し、一目散に教室から逃げる。
うつむき進む私には、後方に流れて行く薄汚い床と、交互に現れる丸いつま先が世界の全てだ。
みぎ、ひだり、みぎ、ひだり、と私が言う。
もっと早く、と私が急かす。
みぎ、ひだり、みぎ、ひだり。
左右が同時に見えるくらいまで。
ふと、異様なに気づく。
刺すような臭気が、私の鼻腔を浸食し、思わず眉間に力が入る。
足を止め顔をあげると、やはりそこには目的地、古びた薄暗いトイレがあった。
ここのトイレさ、祟りがあって改装できないんだって。
誰かからの受け売りを、これまた誰かが教室で噂しているのを耳にしたことがある。
確かにこの臭気はどことなく呪われそうな気さえする。私はここを訪れた人間にこの臭いが付くことを「臭われる」と勝手に呼んでいる。
ともあれここが私の駆込み寺。いや駆け込みトイレとでも呼ぶべきか。
呪われようが、臭われようが、私はここで、無為な十分間をしのぐ他に道がないのであった。
授業開始ぎりぎりに教室へもどる。ところが、教室はざわついたままで静まる様子もなく、教卓にいるはずの教師の姿もない。
これはまずい、次の授業は自習時間になったんだった、と私が言う。
もっと早く言ってよ、と私が非難する。
「松宮さ~ん、やっと捕まえられたよ~。休み時間は毎回トイレに行っちゃうんだもん。どうしたの~?おなか壊したの~?」
教室の戸に手をかけたまま立ち話をしていた私と私の会話に、最も望まれない邪魔が入った。
「松宮さんてば~」
甲高く間の抜けたような忌まわしい声が、私の耳から脳を汚した。
いつの間にやら私は、不格好な坊主頭を見下ろしている。
君から逃げていたんだよ、と私に答える暇も与えず、声の主は細く青白い両腕を私に突き出した。
その薄い掌まで視線を持っていくと、小さなノートが収まっている。
そのまま見つめ続けていると、ノートを上下に振り回しながら、小柄な身体に不釣り合いな大きな頭を揺らして迫ってくる。
「松宮さ~ん、これを読んでほしいんだよ~」
彼は本当に男子高校生なのだろうかと、ふと思う。
甲高い声を発し大きな頭部を持ち、小さく華奢な身体を有する。それでいて老け顔である。
そもそも人という種に分類できるのだろうか。
そう考えると、目の前で全身を振動させている奇妙な物体が、人間以外の別の生命体であるように見えた。
暴れるノートが私の短いスカートをめくってしまう前に、ひらりとかわして自分の席に着く。
一番左の最前列。
未知の生物は当然のように私の席までぴょこぴょこついてくる。
菊池といったっけ。
彼は常にクラスから浮いていた。ただ浮いているのではなく、くっきりとした輪郭を携え、そこにぽっかりと浮かび上がっていた。
それは彼の見た目が珍妙だからではない。
他人のパーソナルスペースに無断で進入し、ペースを乱す。面白くもないところで笑い転げる。突然大声で泣きわめく。他人の会話に割って入り、話の腰を折って回る。
そうした奇怪ではた迷惑な行動の数々が原因で、クラスメイトから疎まれ、無視されるようになった。
彼の存在感は到底無視しきれるほどのものではなかったが、それでも、彼を相手にしないように、彼の相手にならないようにと心掛けるのが最善策だった。
誰もが皆、彼に見つからないように身を隠して生活していた。
私も例外ではなく、常に第三者であるよう細心の注意を払っていた。だから彼の下の名など知らない。知るべきものではない。
それなのに、新学期が始まってから三日間、なぜか彼はずっとこの調子で私につきまとってきている。
私は彼に見つかってしまったのだった。
「読んだ感想をきかせてほしいんだよ~」
気づくと私は彼に見下ろされていた。彼は私の机の前に陣取り、感想をききたい、と何度もわめき首を突き出す。
保健室や図書室でかくまってもらおうか、などと考える間にも、彼の不気味に光る大きな頭がにじりよってくる。
こういった危機的状況下における必須アイテムともいうべき友の存在がないことは、大変不便なことなのだと生まれて初めて知る。
救済を求めようと周囲に眼を泳がすも、相手が見つからない。勝手に助け船を出してくれる者がいるはずもない。
「はいはい、わかった、わかった。かしてみ」
彼が勢いよく飛ばす唾が顔にかかることを恐れた私は、しぶしぶ承諾し、ノートをむしりとる。
すでに彼の唾は机上に水玉模様をつくっていた。ノートの側面でその模様を懸命にかき消す。
「ありがとう~。感謝、感謝だよ~。それで、感想はどう?ねえ、どう思う?面白い?どう?」
「いや、まだ開いてもいないから。少し静かにしていてくれます?」
ノートで彼の胸をはたくと、彼は反動で後ろによろめいた。そのままどこかへ消えてくれ。
「お~け~。おとなしく待ってるよ~」
彼はさようならをするみたいに、胸の前で両手をひらひらさせた。本当にさようならしてくれればいいのに。
私がノートを開いて読み始めると、興味津々な瞳が私の顔をのぞき込んでくる。にたっと笑った前歯の矯正器具の明るさに、なぜか身震いを覚える。
「のぞきこまれたらノートが見えません」
ぱん、とわざとらしくページを閉じてみる。
彼はごめんと飛び退く。
こんなことを何度も繰り返しているうちに、音痴なチャイムが終業を伝えた。
「どうだった~?」
帰りのホームルームが終わると、菊池がいそいそと駆け寄ってきた。
「どうだったもなにも、面白い面白くない以前の問題ですよ、ひどいです」
そう言ってノートを放り投げる。彼は四肢をじたばたさせながらそれを受け取る。
彼が書いたのはどうやら舞台の脚本のようだったが、それは脚本というよりは脚本の形をした別の何かであった。
「何ですか、あれは。夢日記ですか」
納得いかないという顔の彼に投げかける。
夢を見ているような、脈絡のない話が延々と続く、終わりの見えないストーリーだった。
「それに、いくらなんでも登場人物が多すぎます。あんなに多くちゃ、誰が誰だか覚えていられませんよ。そもそも主人公は誰なんですか」
何か言いたそうに口をもごもごと動かすだけの男に畳みかける。つっこむべきところが多すぎて、口がいくつあっても足りないくらいだ。
「しゅ、主人公は、演劇部員三十二人全員なんだよ~。部員皆で劇をやりたいんだよ」
彼は間の抜けた声を出した。
「へえ。では照明や音響は誰がやるんですか」
一瞬はっと目を見開いた彼は、しばらく間をおいて、それはこれから考える、と歯切れ悪く応えた。
「さようですか、ではがんばってくださいさようなら」
このまま指摘し続けていてはキリがない。
辛口批評家の役目を強制終了させた私は、せわしく帰り支度を始める。宿題に使う教科書と今日配布されたプリントを、手早くスクールバッグにしまう。
「松宮さ~ん、ちょっとまって~。もうひとつお願いがあるんだよ~」
いやですお願い事はひとつまでです、と早口で返す私の声も聞かずに、彼は短い両腕をめいっぱい広げて行く手を阻んだ。
「看板を、描いてほしいんだよ~」
「はい?」
予想外の頼みに、少し声が裏返る。
「僕の演劇の看板だよ!ほら、文化祭の!松宮さん美術部だってきいたよ~。絵を描くの得意なんでしょ~?」
私たちの通うこの高校では、毎年十一月頭に文化祭が開催される。模擬店や出し物ごとに宣伝用の大きな立て看板を製作し、校門から昇降口までその看板を並べて道をつくるというのが、その文化祭の恒例になっている。
ああ、こいつはこの駄作を文化祭で発表しようというのか。
「こんなにひどい脚本で何を描けというんですか」
菊池の掌に収まっているノートを指差して言う。
これくらいきつく言わなければ彼には伝わらないだろう。
「松宮さんの好きな絵を描いてくれればいいよ~」
彼はなぜか嬉しそうに応える。
どんなにきつく当たろうとも彼には届かないようだ。
「絵は、描けない」
私は強行突破を決めた。今度は決して隙を見せない。
バッグをつかみ敵にぶつけ後方に追いやる。そのままバッグを振り回し、円を描きながら相手との距離をとりつつ教室の外を目指す。
後ろで敵の呼びかけが聞こえたが、かけません、かけませんと叫びながら廊下を走り去った。
「あ、先輩。お久しぶりです」
美術室には一年の女子部員一人しか来ていなかった。
しばらく会わない間に彼女の名前を忘れてしまったが、その容姿と同様に美しい名前だった気がする。
「ひさしぶり」
にこりともできずに、奥の作品棚に向かう。
私は夏休み中一度も部活に顔を出さなかった。普段からいつ来ようが来まいが自由なのだから一々断りを入れる必要もなかったが、体裁上、母親の実家に滞在する、ということにしていた。
私のスペースには、描きかけの風景画が四枚と、これまた描きかけのポスターが二枚収まっていた。
かけない、というのはあながち嘘ではない。
中学のときから美術部に所属していたが、これまで一度も作品を完成させたことはなかった。完成させなかったというよりは、できなかったのだ。
もうあと一色が、最後の一筆が、どうしても決められなかった。
完成できたらどんなに気分が良いだろうと思う。それができたならば、私という屍も幾分か報われるのかもしれないな、と思う
「へえ~。これ松宮さんが描いたんだ~。やっぱり上手なんだね~」
矯正器具の不気味に光る笑顔がのぞいた。
菊池よ、この感傷は君が見つけたものだというのに、それに浸ることを君は許さないというのか。
「完成しなきゃ意味がない」
君はいつの間にきたのか、顔が近すぎる、どこかに消えてくれ、といったつっこみをする気力はない。
代わりに彼から目を逸らし、どうすれば楽になれるのか、その方法だけをただひたすらに考えていた。
昇降口で都合よく秦先輩を見つけた。
「松宮、今日は遅かったね。えっと、そちらは?」
すらっと背の高い先輩が、少し腰を折って私の後方にいる菊池に微笑む。
まるでキリンみたいだな、と私は思う。
この背の高さと四肢の長さなら、バスケ部のエースだというのもうなずける。
「ストーカーですよ。優しくしてはいけません。ずっとついてくるんです、助けてください」
私はわざとらしく先輩の左腕にしがみつく。
「ではストーカーの菊池君、私は彼氏と帰りますので、邪魔しないでくださいさようなら」
左手でしっしっと払いながら、右手で先輩の腕を引く。
途中で振り返ると、ぽかんとした顔で立ち尽くす小さな菊池がさらに小さくなっていた。
さすがにここまでは付いて来ないか、とほっと息をつく。
「で、彼は誰なの?ほんとにストーカー?」
先輩の瞳がくすりと笑う。
「誰でもないですよ」
私は顔を逸らし、むすっと答える。
「誰でもないってことはないだろ。松宮は彼をキクチクンと呼んでいた」
呼んだっけ、と私は首を傾げる。
「菊池という名前の、誰でもない迷惑な男ですよ」
ため息をつきながらこたえると、先輩はまた腰を折って顔を寄せる。
キリンみたいに。
「彼は同じクラスの人?俺の恋敵だったりして?」
「冗談じゃないですよ」
キリン先輩から顔をそらし、歩く速度をはやめる。
「心配しているのになあ」
そこで話が終わってしまう。
不快な沈黙が訪れる。
私は彼の端正な横顔を見つめる。
こういうとき、先輩が必ず言う台詞がある。
私はそれを待っていた。
「今日、うち寄ってく?」
彼の左手が私の右手をそっと包んだ。
私の返事はいつも決まっている。
そうだ、当面楽になる方法など、セックスか死くらいしかないのだ、と思い至る。
ならば私は性、否、生を選ぼう。
生の後に死はあるが、死の後に生はないのだから。
さあ、真に楽になれるかと頭が問うその前に、楽になってしまおうではないか。
再び振り向くと、小さな菊池はさらに小さな点となって校門の一部と化し、その奥で、朱い夕日がのろのろと校舎に吸い込まれて行くのが見えた。
自宅に帰ると、玄関に見覚えのある白いスニーカーを見つけた。あわててローファーをぽんぽんと脱ぎ散らかし、階段をかけあがる。
「響?帰ってるの?」
部屋のドアを勢いよく開けると、やはりそこに私の兄、響がいた。
こちらに背を向け、しゃがみ込んで荷物の整理をしていたようだが、声に反応してぱっと振り向く。
「ちょっと鳴さん。ノックくらいしなよ。自慰でもしてたらどうするのさ」
彼はそうおどけて、小さく、ただいま、と笑った。
「いつ帰ってきたの?夏休み過ぎたしもう来ないかと思った」
私はそわそわしているだろうか。
「さっき来た。大学生の夏はこれからなのさ」
彼はよいしょと立ち上がり、遥か上から私を見下ろす。
夏バテのためか、年末年始に会った時よりも随分痩せて、以前にも増して細長く見える。
「どれくらいこっちにいるの」
私ははしゃいでいるだろうか。
「二週間くらいはいるつもり」
お父さんが出張から戻るのも二週間後くらいだな、という思考が、ふと頭をよぎった。
私の暗い眉間が見えたのか、彼は、大丈夫だよ、とまた小さく笑った。
「あれ、うちのシャンプー変えた?」
響の首が傾く。
え、と私がたじろぐと、彼は、いや、髪の毛、なんかいつもと違う香りがしたから、と言った。
先輩の家でシャワーなど浴びて来るんじゃなかった、と深く後悔する。
「これは、香水だよ」
私は動揺しているだろうか。
「そうか、鳴ももう高二なんだし香水くらいつけるよね」
彼は寂しげに首を上下に揺らした。
「そうだよ、私ももう高二なんだし香水くらいつけるよ」
私は彼の言葉を繰り返す。
一階から、夕飯だよ、という母のよく通る声が届いた。
助かった、と思う。母が呼んでくれて助かった、と思う。
私はこれ以上ごまかすことができない。いや、もうとっくにごまかせていないのだろうけど。
おなかすいたな、と響が言うので、おなかすいたね、と私も返した。
「やればいいじゃないか」
菊池の愚痴をこぼすと、響が、引き受けてあげろ、などと言う。
「なんだか楽しそうじゃない。それに鳴は絵がとっても上手だ」
彼は隣で煮物をつつきながら、歌うように言う。
すくい損ねた里芋が大きな皿の端でころころ鳴る。
「適当なこと言わないでよね」
私の絵を見たこともないくせに、と私は炊きたての真っ白なご飯をかきこむ。
けれど、そのときには既に、菊池の頼みを引き受ける気になってしまっていた。
響もそれを知っている。
私には彼の鼻歌が聞こえる。
だから私も、つられて鼻歌を歌う。
「里芋、もっと食べたいならまだ鍋にもあるからね」
遠箸で煮物を相手に苦戦している響に気づいた母が、煮物の乗った大皿を彼の方に寄せる。
そんなに食べきれないよ、と彼は真っ白に光る前歯を見せた。