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短編No.41-60

No.60 恋する煙管

作者: 藤夜 要

 すっかり価値のなくなってしまった洋物のランタンに火を灯す。和物を多く扱うこの骨董屋に訪れる客は、ほとんどが日本古来の品を求めてやって来るからだ。

「この格子窓によく似合う、素晴らしい造形だと思うのですがね、私は」

 骨董屋は慰撫するように、古ぼけたランタンの傘を指でそっとなぞった。

 ランタンがほんのりと照らす室内は、それがなくとも裸電球でほどよい明るさが保たれている。部屋の中央にはこじんまりとした囲炉裏の中で、炭が赤々と燃えていて温かい。外をぼんやりと眺めてみれば、妻の柔肌を連想させる真っ白い雪が降り積もっている。

 骨董屋の破廉恥な妄想を察したのだろうか。格子窓の向こう、道に面した柳の枝から積もり雪がとさりとこもった音を立てて落ちた。

「さて。可憐は気づいてしまうかな」

 骨董屋は格子窓から部屋の隅へ視線を移し、小さな丸縁眼鏡のいち山に中指をあてがい、ぐいとレンズを押し上げた。近視でぼやけた焦点が、部屋の隅で凛とした姿勢を保って座している女にぴたりと合う。だがそれは骨董屋が「可憐」と呼んだ、彼の妻ではなかった。横兵庫の結い髪には、煌びやかな黄金(こがね)のかんざし。それが漆黒を豪奢に彩り、女の身丈をいくぶんか高く見せる。濃すぎるほどの白い肌は、女自身の肌の色ではなく、白粉をまぶした似非物の白だ。深く衿を抜いたうなじからは、ただならぬ色香を漂わせている。だが、好色ではあるものの若干普通とは異なる趣を持つ骨董屋をそそるにはいたらない類のものだった。それは、なぜか。

「今まで大人しくしていたのに、どうして急に“出て来た”のですか」

 骨董屋は少しだけ忌々しげに、花魁の女に問い掛けた。深く刻まれた眉間の皺が、遠慮も知らずにくっきりと浮かんだ。

「祥吉さんが」

 女は咥えていた煙管をゆっくりと離し、骨董屋とはまるで関係のない話にしか思えない、骨董屋とは別の男の名を口にした。

「いなくなったんでありんす」

 紅を差した悩ましい唇が、妖しく下弦をかたどった。

「あちきの祥吉さんを、どこへやったのでありんすか、主殿」

 寂しい、と、女は繰り返す。どこまでも艶のある笑みを湛えたままで。骨董屋は、ランタンの隣に置いたままの杯へ手を伸ばした。ずいと近づく花魁の女に、唇を奪われるよりも一瞬早く手にした杯を口にした。

「いじわるなお人でありんすね」

「あいにく身代わりになるほどお人好しではありませんのでね」

「らしゃめんがお好みでありんすか?」

「失敬な人ですね。妾ではなく妻ですよ、可憐は」

 ほほほ、と袖で口許を隠して笑う。濡れ羽色の生地に咲く紅の牡丹が、彼女に相応しい華々しさで一緒に揺れた。

「あちらさんは、そうは思っていないようでありんすよ。よくあちきに愚痴をこぼしては、ぽたぽたとまあ可愛らしい涙を落として、“お父さまのところへ帰りたい”と切なげに訴えておりんす。お可哀想に」

 挑発するようにそう述べる太夫の言葉を耳にすると、骨董屋はそれまでの中で一番不快な表情をかたどった。それではまるで、自分が可憐をかどわかしたような物言いではないか。事実を知っているくせに、こんな憎らしい言い方をする太夫には、少し灸を据えてやろう。骨董屋は臍を曲げることにした。

「可哀想なのは、夫でありながら妻に指一本触れられぬ私のほうだと思うのですが。それとも太夫、あなたが相身互いと私を慰めてくれるとでも?」

 骨董屋は不遜な笑みを浮かべ、そう誘いながら彼女の袖から覗いた煙管をついと取り上げた。

「あん」

 その声を最後に、花魁の姿が跡形もなく消えた。骨董屋の手には、絢爛な金箔で装飾された煙管がひとつ。鳳凰の舞い踊る飾りが施されている。飛び立つそれの足許には百花繚乱の中、ひと際目立つ大輪の紅牡丹が見る人の目を惹いた。


 さらりと障子扉が唐突に開いた。

「骨董屋さんっ。また煙草を吸っていましたね?!」

 骨董屋が尖った声に条件反射でもたれていた身を立て、声の方をまんじりと見遣る。視線の先には、愛しい幼な妻が仁王立ちで骨董屋を威嚇していた。

「お体に障ると言ったのに」

 瑞々しい若い薄桃の唇が骨董屋の身を気遣う言葉を発する。途端、くすぐったいモノで首筋が痒くなる。

「せっかく煙草盆を処分しても、商品にお手を出していたら意味がないじゃあありませんか」

 薄明かりの中でもまたたく黄金の髪が、興奮のあまり結い上げたそこかしこからほつれ落ちて乱れ、それがまた新たなまたたきを部屋に生むたびに、骨董屋の双眸をまばゆげに細めさす。

「骨董屋さんまでいなくなってしまったら、私……ッ」

 真っ白な頬が真っ赤に染まってゆく。連なるように、澄んだ翡翠の瞳を引き立てる白い部分まで赤く充血していった。

「……そんなところで立っていたら寒いですよ。こちらへおいで、可憐」

 花魁から奪った煙管を出窓の棚へ置き、骨董屋は乞うように右手を差し出した。名ばかりの妻は少女そのものの素直さで、骨董屋の懐へ大人しくぽすんと収まりさめざめと訴えた。

「(お父さまにも見捨てられてしまった私です。こんな奇妙な病を患っている私を迎えに来てくれるはずなどありません。私にはもう骨董屋さんしかいないのに)」

 彼女は日の本の国へ来てから二年にもなろうというのに、相変わらず激すると母国の言葉に戻ってしまう。罪作りな言葉を吐き散らしているとも気づいていない彼女の後れ毛を撫でつけながら、骨董屋は彼女のお国言葉でゆっくりと言い含めた。

「(水煙草ほど強くはありませんから、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。それに、言っているでしょう。可憐のそれは、病ではありません)」


 ――(あやかし)の中には、澄んだ心を好むモノもいるから。貴女を慕って姿を見せるだけ。


 骨董屋の声に弾かれた可憐が腕の中で小さくもがき、腕の力を緩めてやれば、ついと顔を上げて骨董屋の細い目の向こうにある黒い瞳を食い入るように覗き込んだ。

「アヤカシ……何度教えていただいても、私には解りません」

「なかなか、説明が難しいものだね。南蛮では、どう表現するのだろう」

 いろんな意味で、苦笑いがこぼれる。だが、まずは可憐の言葉が日本語に戻ったのでよしとしよう。骨董屋は自分にそう言い聞かせ、彼女が好きだと言ってくれる穏やかな微笑を浮かべて見せた。

「ここは南蛮よりも八百万の神々や物の怪を畏怖する文化が根深く残っている。貴女を病んでいるなどというものはいない。だから可憐の父君は、私に貴女を預けてくれたのでしょう。決して貴女を見捨てたのではありませんよ」

 可憐は娑婆ずれした中年の男が紡ぐ嘘に難なく騙され、濡れたまつ毛をくいと拭って微笑んだ。

「そう、そうですよね。私にアヤカシが視えないようにさえなれば、いつかきっとお父さまが迎えに来てくれますよね」

「そうですね。とはいえ、私には寂しい未来ですね。そんなに私の妻でいるのは嫌ですか」

 可憐の赤裸々でありつつも残酷な言葉に、彼女の好む穏やかさを演じた微笑が知らず卑屈にゆがんだ。

「そっ、そういうことでは。というか、便宜上の妻じゃあありませんか。そうでなければ日の本にはいられないって言ったのは骨董屋さんでしょう?」

 尖った声で反論する可憐の切り返しに、今更「それも嘘でした」とは言いづらい。

「そうでしたね。そういえば」

「ごめんなさい。私がその場所に収まってしまったせいで、骨董屋さんはお嫁さんをお迎え出来ません」

「別に構いませんが」

 貴女がいるのだし――とは、冗談に包んでという条件つきでしか紡げない。しかしそれすらどうも巧く出来そうにないので、結局口にするのは諦めた。

「ところで」

 居た堪れない心境になった骨董屋は、その話を切り上げて“本題”を切り出した。

「この一週間ほどの間、私が不在のときにお客が見えられたことはありませんか」

 可憐はついと懐から飛び出すと、また剣呑な目になって骨董屋を軽く罵った。

「店主なのに、帳簿を見ていなかったんですかっ」

「はあ。先週買い漁って来た本が面白くて、つい」

 骨董屋は自分の頭を掻いてごまかしながら、苦笑で可憐の手厳しい糾弾をやり過ごす。自分で思うよりも強く髪を引いてしまったらしい。髪を結わいていた紐が解け、無精で伸ばし放題になっている髪がはらりと落ちて、骨董屋の顔を可憐から隠した。

「もう、不真面目な店主さんですね。杜若(かきつばた)さまが、“蔦花魁の煙草盆”を買って行かれましたよ。帳面を見たら、骨董屋さんが値をつけていらっしゃったので、そのお値段でお譲りしましたけど、いけませんでしたか?」

 蔦花魁の煙草盆。骨董屋は頭の中だけでそう繰り返し、出窓の棚に置いた煙管を一瞥した。

「いいえ。構いませんでしたよ」

 と、可憐に視線を戻し、にこりと微笑んだ。

(なるほど、そういうことか)

 なぜ突然“彼女”が姿を現したのかがようやく解った。骨董屋は気だるげに壁へもたれていた身を起こすと、立ち上がって部屋を出ようとする可憐に甘えた声でねだった。

「可憐、もう台所へ行ってしまうのですか。私は不器用なので、髪を結わい直して欲しいのですが」

 障子扉の向こうからは、白米の炊けるよい匂いが漂って来る。いつもより夕餉の時間を半刻ほど過ぎていた。そして彼女が慌てる理由も、粗方の見当がついていた。

「ご自分でなさってください。今日はお風呂に行かれる日なのでしょう。早く夕餉を用意しないと」

 可憐が不機嫌な声でそう言うのは、骨董屋に対する羨望からだ。彼女はその風貌から冷ややかな目で見られてしまうので、それを気にしてあまり外出しない。自由に独りであちこちへも行きたいのだろう。当たり前にそれをしている骨董屋を羨むのだ。

「冷たいんですね」

 どうせなら、もっと率直に引き止めて欲しいと思う。そんな本音が骨董屋の言葉を拗ねた音にさせていた。

「そうですよ。でもいいじゃないですか。骨董屋さんはお風呂であったまって来るんでしょうから」

 私もお風呂とやらを楽しんでみたいのに。骨董屋の言う「風呂屋」を銭湯と信じて疑わない可憐はそう言って口を尖らせた。

「……今日は雪が積もっていますし、やめておきますよ」

 改めて糾弾されると、行く気も萎えるというものだ。骨董屋は深い深い溜息をついた。

「そうですか。でも髪はご自分で直してくださいね。私、夕餉の準備で忙しいんですから」

 と可憐は冷たく言い放った。

「わかりました。では夕餉が出来たら教えてくださいね」

 骨董屋は彼女が一瞬見せた嬉しげな微笑に免じて、大人しく首を縦に振った。




 夜の帳が降りてから三刻も過ぎた、夜九ツのころ。骨董屋がすっかり気に入ったランタンの灯りを頼りに本を読んでいると、す、と寝所の襖戸が開いた。この家に住まうのは、骨董屋のほかに、今は可憐しかいない。彼女と暮らすまでは、それこそ入れ替わり立ち代わりで女が出入りしていたこの家ではあるが、今は誰かと慌てふためくことも、女同士で揉め合う修羅場に巻き込まれる心配もない。ということは、つまり。

「太夫はせっかちなお人柄だったようですね。可憐が貴女の瘴気で臥せってしまったらどうするのですか」

 骨董屋は溜息混じりでそうこぼすと、熟読していた本を静かに閉じた。その本の表には、『悲恋七話集-蔦太夫之巻-』と記されていた。

「夕刻に主殿が意地悪をしたのが悪いのでありんす。結局祥吉さんの行方を捜してくれるというお約束をもらえませんでしたから」

 金髪の乙女が、乙女らしからぬ艶っぽい微笑を浮かべ、とん、と襖を閉めて勝手に床の隣へ腰を下ろした。

「あちきは悲恋と伝えられているのでありんすか」

 骨董屋が枕許へ置いた本の表紙を見て、可憐の姿をした花魁が不思議そうに呟いた。

「まあ、一般的にはそういう解釈になるのでしょう。(くるわ)抜けにしくじり、祥吉を庇って袈裟斬りにされたわけですから」

「魂を器から解き放って、あの人とともに過ごせるのであれば、あちきは充分幸せだと思うのでありんすが」

「つくづく自覚のない方ですね。貴女の魅了した男たちが、そんな解釈を赦しはしないでしょう」

 可憐の体でありながら、彼女特有の石鹸の匂いではなく、しつこいほどの白粉の匂いを放つ妖に、あからさまな嫌悪感を向けて言い放った。

「何もわざわざ可憐に憑りつかなくても、私には貴女が視えると解っているでしょうに」

 早く出て行けと言わんばかりに責め、そしてついでのように彼女の想い人がいる場所を告げた。

「恐らく杜若さまに売られたとき、可憐が貴女を取りこぼしてしまったのでしょう。煙草にそう小うるさくなかった可憐がいきなりやかましくなったのは、貴女の差し金ですか。それとも祥吉さんの方ですか」

 そう言って疎む視線を送る骨董屋に、花魁は翠の瞳を険しく光らせ忌々しげに呟いた。

「祥吉さんどす。あちきから逃げようとしたんどす」

「なぜ」

「それが解らないから、主殿に祥吉さんを連れ戻していただきたいのでありんす」

 ただでとは申しませんと、彼女が可憐の身を包む浴衣の帯を外し出す。骨董屋が我欲でそれを放置したのはほんの一瞬だけだった。

「およしなさい。それは貴女の体ではないでしょうに」

 骨董屋は太夫を警戒させないゆるりとした緩慢な所作で、帯の戒めを解かれむき出しにされた白い肩に浴衣を掛け直した。

「可憐の魂が宿っていない体を抱いても仕方がない」

「ほうら、思ったとおりでありんす。認めなさるのでありんすね。では、、それがあちきから主殿への前金代わりの報酬どす」

 しまった、と思ったときには遅かった。盲目の恋に翻弄される浅はかな女の浅知恵だとぬかった。

「何が“ほうら”なのか解りませんね」

「今、お認めなさったでしょう。歌舞伎者の振りなどしても、本当はあの異国の娘が」

「祥吉さんは、そんな貴女の我の強さに逃げ出したのではありませんか」

 可憐の風貌には似合わない、襟を大きく抜いた着こなしで浴衣を着直す蔦太夫の妖に憎まれ口を叩くことで足掻いてみる。

「この本を読む限り、祥吉さんという漆職人の丁稚さんは、まだ二十歳そこそこの純朴な青年だったそうですね。上客の紹介で、貴女は彼に煙草盆をしつらえさせた、それが出逢いのきっかけだったとか」

 骨董屋はここ数日読み進めて来た彼女にまつわる逸話を語り、確認を兼ねてその後の顛末を代弁した。

「身請けするだけの稼ぎがない祥吉さんと、当時切っての人気太夫。誰もが許しはしなかった恋は、廓抜けをして田舎へ逃げ、静かに暮らそう、という貴女方の秘密さえ暴かれてしまうほどの御法度だった。吉原は、そんな簡単に抜けられる場所ではない。御多分に漏れず、貴女方は女衒や用心棒に見つかり、貴女はその場で斬り捨てられそうになった祥吉さんを庇って命を落とした」

 落ち沈んでゆく瞳を凝視しながら、黙する太夫に尚も告げる。

「計算しましたね。自分が先に死んだとなれば、桶屋が儲け種を失った痛手を祥吉さんの命で贖わせること。それは本当に恋なのでしょうか。貴女に惚れられた祥吉さんが、私には気の毒でなりません」

 唇を噛む太夫を諌める。「さあ、可憐から出なさい」と。

「……女心のわからない愚図な方、というだけではなかったのでありんすね」

 俯いたままで呟かれた小声は、それでもしっかと骨董屋の耳に届いた。

「えらい言われようですね。何を仰りたいのでしょうか」

「祥吉さんが本当にあちきを嫌っているのなら、どうして魂があちきの煙草盆に宿ったのでありんすか。あちきの納得するように説明してくんなまし。そうしたら、あちきもこの煙管から離れて、この煙管を主殿の糧にさしてあげやんす」

 骨董屋は、ぐぅと小さく息を呑んだ。云われてみればもっともだ。返す言葉が見つからない。こうなると我ながら始末に負えない、と、己の好奇心に自嘲さえこぼれる。骨董屋は腕を組んで小首を傾げ、散々あれこれ推測を試みたが、やがて諦め両の手を上げた。

「参りました。確かに妙ですね。明日にでも杜若さまのところへ伺い、煙草盆を取り返して来ましょう」

 だから、ともう一度懇願する。今度は仕方がないので低姿勢で。

「また可憐が怯えてしまいます。そろそろ出てやってくれませんか」

「主殿は、誠の恋には意外と初心でありんすね」

 蔦奴の妖は、そんな含みのある物言いと色艶のある微笑をこぼしたかと思うと、ふつりと闇夜に解け消えた。途端、黄金の髪が揺らめき、華奢な体が前のめりにくずおれる。

「おっと」

 骨董屋は何も知らずに眠り続ける可憐の細い身を支えて彼女の目覚めを防御した。

「……」

 甘やかで清楚な石鹸の香りが、名残惜しい気持ちにさせる。

「寒い廊下を渡って風邪をひかせるのも可哀想なことだな」

 骨董屋は誰にともなくそんな言い訳を口にすると、自分の床へ可憐を横たわらせた。どこか遠くから、かすかな声で「約束しましたえ」という念押しの言葉が聞こえたような気がした。




 ランタンの油が切れるころには、雀がさえずり始めた。骨董屋は結局眠れず、先週買ったばかりの本をすべて読み終えた。

「ん……」

 甘ったるいかすれ声が、骨董屋の寝るはずだった布団から小さく漏れて来た。

「おはようございます。よく眠れましたか」

 と、骨董屋が言い終わるか否かというところで、「ひゃあん」という間抜けた叫びがこだました。

「どどどどどどどうして私」

 可憐がそう言うころには、骨董屋と最も距離の離れた部屋の入口まで彼女は後ずさり、背をぴたりと貼りつけて泣きそうな顔で骨董屋を睨みつけていた。

「またいつぞやのように、お父君と間違われたのでしょう。目覚めたら貴女がそこで眠っていましたよ」

「うそ……そんな、そんな、だって私、もう十六にもなるのに」

「心配しなくても大丈夫ですよ。勝手に貴女を疵物にしたら、お父君にお叱りを受けてしまいますから」

「きずも……ッ」

 骨董屋の我慢が限界に達した。本に落としていた視線を上げたかと思うと、久方振りに心のままに破顔させて笑った。

「あ、朝から、骨董屋さんったら、どうしてそう意地悪なんですかっ」

「お気をつけなさいと忠告をしたまでですよ」

 そう言って、太腿までめくれてしまった彼女の浴衣の裾を顎でくいとしゃくって示すと、薄桃だった頬が、首許まで真っ赤に染まった。

「きゃ……なっ、なんて、ことッ」

「大慌てで寝床から飛び出すからですよ。どもっている間に、早く裾を直したらどうです?」

 骨董屋がくつくつと笑ってそう返すころには、襖は開かれたままで、可憐の姿は彼の部屋から忽然と消えていた。


 朝餉を終えて、少し日が高くなり、外気がいくぶんか温まったころ。

「可憐、遣いを頼みたいのですが」

 骨董屋は蔵からとある物を見つけ出し、それを手に可憐を店先に呼びつけた。

「お遣い? 私が、ですか?」

「ええ。よいものを見つけたのです。これならば可憐も気楽に外を歩けるでしょう」

 そう言って彼女の髪を束ね、自分の髪を結わいていた紐で括ってやった。そして蔵から持ち出して来たもので黄金の髪を隠してやった。

「これは?」

「花魁道中のとき、禿役の子がつけるかつらです。開国してから、おなごもいろんな髪形を楽しむようになったので、こういったものが必要になったようです」

 たまたまこの骨董屋を質屋と勘違いして無茶を言った馬鹿者が、質草にしてくれと無理やり置いていった代物だ。その男の連れていた少女のみすぼらしさが気の毒になり、その子の服代になればと情け心を起こして引き取ってやったものが、ここで役に立つとは思わなかった。

「嬉しい……。骨董屋さんと同じ、黒い髪ですね。それに、まっすぐ」

 そう言って見上げる翠玉の瞳が、心から嬉しげに陽の光を受けてまたたいた。骨董屋は妙な誘惑に駆られ、それに乗るまいとつい彼女から目を逸らした。

「少し俯き加減であれば、瞳もそう目立たないでしょう。杜若さまのところへ煙草盆を引き取りに行って欲しいのです。小遣いも持たせてあげますから、帰りに買い物を楽しんでいらっしゃい」

 骨董屋はいくぶんか落ち着いた心の臓にほっと息をひとつつき、金庫から数枚の紙幣を取り出して可憐に手渡した。

「骨董屋さん、ありがとうございます」

 そう言って満面の笑みを浮かべる可憐は、まだあどけない少女のままだと思う。

「どういたしまして。では、よろしくお願いしますね」

 骨董屋は努めて父親然とした微笑を浮かべ、跳ねるように店先から飛び出す可憐の後ろ姿を見送った。




 ――何故だ。

 骨董屋は誰に問うと定めることもなく、その単語を逡巡させる。

 可憐は“蔦太夫之煙草盆”を手にして帰って来た。着物の袂には漆の櫛飾り、空いたもう一方の手には、骨董屋への土産物として贔屓にしている店の酒を携えて帰って来た。そこまでは骨董屋も特に驚きもしないことではあったが。

「骨董屋さん、どうですか? 似合いますか? 蔦太夫さまが選んでくださったの」

 何故、居間の出窓へ置いてあった煙管が可憐の着物の袂へ忍び込んでいたのか。そして昨夜までは可憐に視えていなかった太夫の妖が、今はこうも恐れもない形で視えているのか。しかも、親しげに笑みを交し合っている。そして更に鬱陶しいことこの上ないのは、そんなおなご二人よりもきぜわしくわめきたてる、祥吉の妖が繰り出す説教だ。

「まったく、主さんよ、おいらの声を聞いてくだせえよっ」

 祥吉はまたそう言って、蔦と可憐が語り合っている姿との間に割り込んで、ずいと顔を近づけた。

「だから、それは申し訳ありませんでしたと詫びているではありませんか」

「いいや、解っちゃいねえっす。だからああして煙草盆を包んだままで、蔦お嬢をおいらの懐に納めちゃくれないんでやんしょ」

 祥吉はそう言って、骨董屋が彼らの宿る煙草盆を真正面に捉えられるようにと、半分透けた体をずいと逸らした。

「なんでか、ある日突然らしゃめんさんがおいらの声を聞けなくなっちまって。おいらから蔦お嬢がこぼれ落ちたっつってんのに、気づかないままおいらを売っちまいやがって」

 ああ、それは今ので三回目の愚痴になる。骨董屋は心の中でそうごちた。もう可憐を「らしゃめんではない」と訂正する気さえない。

「そもそも、おいらは売られたくなかったんですよ。あんまりにも主さんが横着をするから」

「ああ、それももう解りましたから。懐、つまり煙草盆の引き出しに煙管を仕舞ってくれ、ということでしょう」

 つまり祥吉は、蔦太夫の宿る煙管を飾りに見立てて煙草盆の上に置き捨てた骨董屋に「元に戻せ」と訴えるつもりで可憐を煙草嫌いに誘導したということらしい。もちろん祥吉に「嫌わせる」という意図はなかった。ただ戻せと訴えただけなのだが、それが何故か可憐に伝わらず、やかましい感覚だけを植えつけたようだ。

 道中で祥吉と蔦太夫はその辺りの和解をしたらしい。

「しかし、蔦太夫もああして自分で思うように動けるのであれば、何も私や可憐に訴えなくてもよかったのではありませんか」

 祥吉にぼやいても致し方のないことだが、勝手に可憐の袂へ入れるのであれば、何もこちらの手を煩わせなくても、という、面倒を掛けさせられた憤りを吐き出さずにはおれなかったのだ。

「そいつぁ主さんよ、女心のなせる技、っていうヤツですぜ」

「は?」

「蔦お嬢にそんな力はありやせんぜ。らしゃめんさんが、女の勘ってえヤツで、煙管を運んでくれたんでやんす。ありがたいこった」

 妖の語ることなので、とても今更な感ではあるが、狐につままれたような種明かしに首を傾げた。

「仰っている意味が、皆目解りませんが」

「まあ、その辺りは、らしゃめんさんに直接訊くこった。あっちもそろそろ話が終わったようですぜ。じゃ、今度こそちゃんと、蔦お嬢をおいらの懐に入れてくださいよ、主さん」

 はいなと適当な相槌を打ち、目配せで可憐と蔦太夫を呼ぶ。可憐は何故かほんのりと頬を染め、そして蔦太夫の妖は、意味ありげな微笑を零してポンと爆ぜるように姿を消した。

「まったく、騒々しい」

 どっと疲れを感じたせいか、可憐にこぼす愚痴が随分と年寄りくさくなってしまった。

「煙管の置き場所を気ままに出来ないのであれば、この煙草盆ももう売り物にはなりませんね」

 可憐はとても嬉しそうな弾む声でそう言った。

「可憐はこれが気に入ったのですか」

「はい。太夫さまはなんでもご存知で、いろいろ教えてくださるの。それに何より、粋でいらっしゃるの」

 まさか南蛮生まれの可憐から“粋”という言葉が出るとは思わなかった。骨董屋は目を丸くして名ばかりの妻を見下ろしたが、彼女は彼の驚きに気づくこともなく、興奮気味に妖との会話を語り繋いだ。

「それからね、私がアヤカシを見れなくなるのはきっと、毎月、月に一度だけ、それ以外ならいつでも太夫さまとお会い出来る、ということも教えてくださったの」

 月に一度だけ。そう語る可憐の頬が、またほんのりと紅を差す。太夫の妖が最後に残した意味ありげな、勝ち誇った微笑。結局朝まで眠れずに読んだ、彼女の逸話に記されていたこと。


 ――厳しい吉原であるにも関わらず、蔦太夫が廓の端まで逃げ果せたのは、太夫を理想とし尊敬した遊女たちが、恩義を返すと協力をしたと言われている――。


 情熱の太夫は世話好きでお節介で、そして女心を掴む心得まで達者だったようだ。

 それを裏付けるように、可憐がぽつりと呟いた。

「骨董屋さん。私ね、心配を掛けてはいけないと思って、たくさん隠し事をしてました」

 千切れんばかりの勢いで着物の袂を指で弄りながら、可憐がおずおずと呟いた。

「お風呂屋さんの意味くらい、知ってますよ。ずっと我慢をしてましたけど、本当は、行って欲しくなんか、ないです」

「……」

 あのお節介太夫にしてやられた。まだ今少し固い蕾を愛でていたかったのに、骨董屋の大切に育てて来た可憐な花が開こうとしている。

「あのね、骨董屋さん、私ね」

「可憐」

 彼女の言葉を遮るように、骨董屋は彼女の名を呼んだ。

「お腹が空いてしまいました。もう昼八ツですね。昼餉の用意をお願いします」

 彼女が無駄に傷つかぬよう、甘えた笑みをこぼしてみせる。出来れば頭も撫でてやりたかったが、理性のたがが切れそうなので自重した。

「可憐の作った飯でなくては、どうにも満たされなくて困ります」

 ダメ押しのようにそう付け足すと、一度は沈みかけた翡翠の瞳が、キラキラと星のようにまたたいた。

「はいっ。さっき帰り道でふきのとうを見つけたので、たくさん摘んで来たのです。急いであくを抜いておひたしを作りますね。それから」

 と、次々と和食の献立を連ねる得意げな笑みが、骨董屋に彼女がまだ少女だと安堵の混じる微笑をこぼさせる。ふたりは食を語らいながら、店先に恋仲の骨董品を残し、奥の間へ姿を消した。

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