第3話 84歳、キャリアを決める
第3話 84歳、キャリアを決める
娘が電話越しに聞いてきた。
「キャリアはどうするの?」
ロスちゃんは、間髪入れずに答えた。
「キャリア?
そんなものあるわけないでしょ。おかあさんに。」
八十四年、生きてきたが、これといったキャリアはない。
胸を張って言える。
電話の向こうで、娘が吹き出した。
「ちがうちがう。スマホの回線のこと」
「回線?」
よくよく聞くと、ドコモとか、エーユーとか、そういう会社のことらしい。
ロスちゃんは、しばらく考えたあと、言った。
「それって、富士山のときの掛け声みたいなもの?」
「は?」
「“やっほー”とか、“どっち行くー”とか」
「なにそれ」
娘がまた笑う。今度はしばらく止まらない。
「お笑い漫才みたい」
「失礼ねえ」
ロスちゃんは、少しむっとした。
れっきとした例え話のつもりだったのに。
けれど、話を聞いているうちに、もうひとつ大事なことがわかってきた。
家の光回線と同じ会社にすると、安くなるらしい。
千円くらい違うという。
千円。
ロスちゃんの頭の中で、電卓がはじかれる。
(千円あれば――)
卵も買えるし、みかんも買える。
下手をすると、おはぎだっていける。
これは大きい。
しかし。
ロスちゃんは、腕を組んで考えこんだ。
たしかに安い。
けれど、それより大事なことがある気がする。
「でもね」
「うん?」
「バスで行けるところに、お店があるのよ」
駅前の、あの店。
何度も前を通った。
そのたびに、あの看板が目に入る。
『何度聞きに来ても大丈夫です』
あれはいい。
あれは、とてもいい。
ロスちゃんは、説明を一回で理解できる自信がない。
二回でも、あやしい。
三回で、やっと入口に立てるくらいだ。
だから――
「そこにすることにしたの」
電話の向こうで、娘が少しだけ間を置いて言った。
「……それが一番いいかもね」
ロスちゃんは、うなずいた。
安いかどうかより、通えるかどうか。
わかるまで聞けるかどうか。
それが、ロスちゃんの“キャリア”である。
スマホを買う道が、
ようやく、うっすら見えてきた。




