誰か、気づいて
他人に、弱みなんて見せられない。いつも気を張っていないと。
「水沢さん、ちょっとお願いがあるんだけど」
部長から声がかかった。「この資料なんだけど。ちょっと急ぎなんだよね」
金曜日の夕方。今日中に資料を作成してほしいと言う。月曜のプレゼンで使うためだ。
「あ、あの……」
私は、基本的には残業はしない。部下にも不要な残業はしないように伝えている。ただし、金曜日は例外だ。時間の心配をせずに、たまった仕事を片づけられる。
保育園に通うひとり息子はまだ4歳。平日は、閉園時間に間に合うように帰らなければならない。しかし毎週金曜日は、実家の母がお迎えに行ってくれている。料理上手な母は食べられないものの多い息子のリクエストを聞き、好きなものを作ってくれる。息子も週末に母のところに泊まるのを楽しみにしている。
「ごめんね、今週はダメなの」
数日前、母からの電話。パートの仕事中、腰を痛めたらしい。「そうか、お大事にね」
「資料、できたらデータ送っておいてね」
部長は私の様子などお構いなしにそう言って去っていった。
――どうしよう。
この程度の資料なら、2時間、いや1時間半もあれば終わるだろう。でも、これから始めたら閉園時間には間に合わない。かといって、持ち帰っても家で作業するのは難しいだろう。夕飯の支度、お風呂、寝かしつけ……今日中に終わる気がしない。
シングルマザーであることは、まわりには言えずにいた。知っているのは人事部の一部だけだ。直属の部下にさえ話していない。ましてや、夫を自死で亡くしていることなど。
言い訳にはしたくなかった。本当なら、ちゃんと話して助けを求めればいいのかもしれない。子どものためにもそうすべきだと、母からは何度も言われている。でも彼女は、自分の娘がそれができない性格であることもわかっている。きっと、女手一つで私を育ててくれた自分の姿と重ね合わせているんだろう。
「お先に失礼します」
最後まで残っていた部下が、帰ろうとしていた。彼は今年入った新人だが、非常に優秀だ。仕事が早いし、こちらが必要とするものをすぐに的確に捉えてくれる。唯一不満があるとすれば、不愛想で必要なこと以外は話さないし、ほとんど笑わないこと。
「あ、守谷くん、ちょっと……」
思わずその後ろ姿に声をかけた。もし、彼に資料作りを頼めたら……。しかし振り返った彼のその怪訝そうな表情を見て、我に返った。いったい何を考えているんだ、私。
「あ、ごめん。なんでもない。お疲れさま」
彼も基本的に残業はあまりしないが、特に金曜日は毎週定時で帰っている。今日、この時間――といっても終業時刻から30分しか経っていないが――にまだ残っているのは珍しいことなのだ。本人に聞いたことはないが、きっと金曜日には何か予定があるんだろう。
彼は硬い表情のまま、ゆっくりとこちらに向かってきた。私の横に立つ。何か言いたそうにしている。そういえば、細身で背が高い彼を、誰かが「シャープペンシル」と呼んでいた。その見た目だけでなく、めったに笑わない姿と「シャープ」もかけているらしい。
「あの……プレゼンの資料、作りましょうか」
彼はやっと聞き取れるくらいの小さな声で言った。「えっ」思わず彼の顔をじっと見た。目をそらした彼は、顔を少し赤くしている。「さっき、部長から頼まれてましたよね」
部長とのやりとりを見ていたらしい。「そうだけど。でも……どうして?」
「今日は水沢さん、早く帰らないといけないんですよね」
朝から私の様子を見ていて、いつもと違うと感じていたらしい。彼の仕事ぶりについては十分に認めていたが、そんなことまで観察しているのか。彼の能力の高さを感じた。
「でも、守谷くんは金曜日はいつも早く帰ってるよね。予定があるんじゃないの?」
彼はますます顔を赤くした。「もしかして、デート?」
すると、彼はぼそっとつぶやいた。
「……今日は会えないって、言われたんです」
一瞬、意味がわらなかった。そして、わかったとたん、思わず笑いが込み上げた。まさか、無口で不愛想な彼の口からそんな言葉が出るなんて。自然に口を開いていた。
「ありがとう。ほんと助かる。私ね、保育園に子どものお迎えに行かなきゃいけないの」
彼はほんの少し顔をほころばせた。「はい、知ってます」
部署の人間は全員知っているという。私が早く帰りやすいように、部下たちも残業はせずに帰るようにしているらしい。「お子さんのところに、早く行ってあげてください」
保育園に寄って家に帰るころ、彼から資料が送られてきた。まだ1時間ほどしか経っていない。確認してみると、内容は完璧だった。本当に優秀だ。彼も、他のみんなも。
「ママ、今日は何かかわいいね」食事をしながら、息子は嬉しそうに言った。
「ありがとう」思わずギュッと抱きしめた。ありがとう……本当に。