それは空白のまま
彼女は、建物の給排水設備の設置や改修工事を行う会社に勤める事務員だった。
といっても、事務経理に加えて、工事部材の手配や図面作成まで浅く広く何でもこなす、いわば雑用係である。
その日、彼女は古い幼稚園の改修工事のための図面を見ていた。
蛇口、トイレ、給湯器などの設備に加え、壁の中の配管もほとんどすべて交換が必要とされていた。
発注者から渡された建築当時の図面は、手書きのもの。
紙は黄ばんで柔らかく、年月を経た線は霞み、ところどころ重なっていて読みづらい。
「これは……実際に壁を壊してみないと分からないな」
彼女はため息をついた。
図面を手作業でパソコンに入力していく。
この会社には、手書き図面を自動で読み取るような高価なソフトはないし、それを使ったとしても、この紙では正確に読み取れるとは思えなかった。
さらに彼女は、平面図からアイソメ図と呼ばれる図面を起こしていく。
建物を斜めから見たような図で、配管の経路が立体的に描かれる。
給排水工事の申請に必要な図面のひとつだ。
建物の内部を想像しながら線を引く作業が、彼女は密かに好きだった。
発注者から渡された図面には、通常アイソメ図も含まれるのだが、今回は欠落していた。
水道局に問い合わせても、やはり資料は残っていない。
「どうせ工事が終わるまでに新しいものを作るのだから」と彼女は古い図面を見ながら、おおよその想像で線を描いていった。
道路から伸びる配管が水道メーターを通り、建物内と外の足洗い場へと分岐していく。
教室の前にそれぞれ設けられた足洗い場。
校庭で遊んだ園児が泥を洗い、ジョウロに水を汲む――そんな光景を想像し、彼女は少し微笑んだ。
建物は平屋で、上下階のない構造なのが救いだった。
もし縦に複雑な構造だったら、この作業はもっと厄介だっただろう。
彼女は現場写真や、過去の工事で見た配管の構成を思い出しながら、少しずつ線を加えていく。
完成しつつある図面は、生き物の血管だけを抽出したような、奇妙に生々しい標本のようだった。
だがその標本のような図には、妙な空白があった。
彼女が作成した配管図と古い手書き図面、新しい改修予定図とを頭の中で重ねていく。
すると、一点だけ、配管がなぜかそこを避けるように描かれていた。
もちろん、これは想像を含んだ図面だ。
誤差や勘違いがあってもおかしくはない。
それでも、どうしてもその空白が気になってしまう。
古い図面には、かすれた文字があった。読み取れないが、そこには確かに、なにかの用途が示されていたようだった。
だが、改修後の図面ではその壁は取り払われ、大きな教室の一部になることになっていた。
その小さな空間が、彼女の中で次第に異物感を帯びていく。
後日、彼女は現場に向かう作業員に「図面に必要だから」と頼み、その空間周辺の写真を撮ってくるように言った。
だが、なぜかその写真は、彼女の元に届くことがなかった。
撮影を忘れた。
電池が切れていた。
SDカードが読み込めなかった。
理由は様々だったが、結果としてその部屋の写真だけが、ぽっかりと欠けた。
見ることができないからこそ、余計に考えてしまう。
彼女の中で、いつしかその空間は何かがあった場所として形を成していく。
──もしかして、あそこは「悪い子のお仕置き部屋」だったのではないか。
──泣いても叫んでも誰にも聞こえず、夏のある日、職員に存在を忘れられ、水を飲むことも出来ず……
彼女は想像の果てに、自分で首を横に振って笑った。
「怖い話の読みすぎね」
こんな街で、そんなことが本当にあったら、絶対に噂のひとつも残っているはずだ。
ここは、都会と田舎の中間のような、どこか閉じた町。
住人は昔からの人ばかりで、何かを隠すのは難しい。
そんなある日。
夏の昼下がり、照りつける陽光の中。
「工具を忘れた」と作業員から連絡が入り、彼女が現場へ届けに行くことになった。
途中、コンビニに寄り、差し入れの飲み物も買った。
車に戻ると、エンジンを止めていたわずかな時間だけで、車内は蒸し風呂のようになっていた。
やがて幼稚園に到着。
工具と飲み物を渡すと、「ちょうど休憩に入るところだった」と作業員たちは嬉しそうに笑い、建物の外へ出ていった。
人が離れ、ふと静まり返った園舎。
子どもたちは別の園に通っていて、今ここにいるのは作業員だけ。
そして今、その作業員もいない。
彼女の中に、再び好奇心が浮かび上がる。
静かで、涼しいその空間へ──あの部屋へ行ってみたい。
もちろん、本来なら入ってはいけない。
でも、図面に関わる者としてという言い訳が、背中を押した。
彼女はそっと建物の中へ足を踏み入れる。
室内は暑く、湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
けれど外よりは静かで、蝉の声も遠くに聞こえた。
水飲み場の低さ、子ども用の下駄箱――
その空間に残る幼稚園らしさに、どこか懐かしさがよぎる。
そして、彼女は例の場所へ足を向けた。
目に入ったのは、予定通り取り壊されることになっている壁。
裏へ回り込むとそこには、ただの押し入れ。
子どもたちのお昼寝用の布団を入れる、何の変哲もない収納だった。
「……やっぱりね。現実なんて、こんなもんか」
けれど、その壁は他の壁と、何かが違って見えた。
彼女は手を伸ばして、そっと触れる。
冷たくて、どこか深さを感じるような質感だった。
軽く叩く。反応はない。
ふと、衝動的に壁に耳を当ててみる。
……音は、しない。
ただ、壁の奥に「何かがある」ような気がしたのは気のせいだろう。
そのとき、外から足音が近づいてきた。
作業員たちが戻ってきたのだ。
現場責任者の年配の作業員が、ヘルメットをかぶらずに中にいた彼女を見つけ、笑って声をかける。
「危ないよ。ちゃんとヘルメットつけないと」
優しく笑うその顔は、彼女が見ていた壁に目を向けた途端、ふっと曇った。
ほんの一瞬、目が泳ぐ。
戸惑いと、言いかけた言葉を飲み込むような気配。
「……その壁、なんか変だよなあ。でもさ、水道も電気も通ってないし。ただ壊して終わりさ」
明るく、軽く。
それはどこか、自分自身に言い聞かせているような声だった。
「もし何かあったら、工期が延びる。そんなの困るからな。……俺たちも、発注者も、園児たちも」
彼女は会社に戻った。
そしてその壁は、数日後に取り壊された。
何かがあったという報告はなかった。
何もなかったという報告も、なかった。
ただひとつ。
その壁の内部の写真だけは、最後まで彼女のもとに届かなかった。