ガッシュの恋人
本作は文学フリマにて同人誌として販売した作品の冒頭部です。続きは冊子でお楽しみください。
『ガッシュの恋人』は引き続き文学フリマにて販売予定です。ご興味がございましたらぜひブースまで足を運んでいただければと思います。
サークル太陽花屋にてお待ちしております!
「アスク」
名前も知らない白髪の老女から、少女はそう呼ばれていた。
葉陰の隙間から漏れる光が眩しくて、逃げるように顔を背ける。
自然公園の小道、小さなベンチで隣に腰掛ける老女は、重そうな目を閉じることなく甘んじて陽を受け入れていた。その横顔には皺が目立ち、母より祖母よりずっと年を取っているように見える。
どこの誰かも分からない老女と過ごす時間はどうしてか心地良かった。陽の当たるベンチで、老女は毎日小さい身体を更に丸くして座っていた。ひっそりとその隣に腰掛けると、老女はいつも独り言つように話し始めるのだった。
春風に揺れる葉音に紛れて、ぼそぼそと老女の声が続く。それが耳に入る時もあれば、入らない時もある。どうしても聞き取れない声には耳を傾けることも諦めていた。茜色のワンピースから覗く小さな足を揺らしていると、老女が顔を上げてアスクの方を向いた。
「アスク」
「違うわ。私の名前は」
「昔はここも森だった。だから会えたんだよ」
アスクの反論を遮って、僅かに口角を上げた老女が言う。アスクは考えるのをやめて小さく息を吐いた。老女の言葉が理解できないのなんて今に始まったことではなかった。初めから何度本当の名前を名乗っても老女は聞かないし、アスクの問いかけに老女が答えたことはなかった。
きっと老女もアスクの言葉を理解していない。その理由に気付けるほど、アスクはまだ大人ではなかった。
「出会いは物語だよ。何だって叶うんだ」
何だって叶う。アスクはその言葉にぴくりと反応した。
「それは本当?」
口を開くことも頷くこともしない老女に構わず、アスクは言葉を続ける。
「私にも夢を見つけることが出来る?」
アスクにとって、それが何よりの願いだった。夢だった。夢を見つけることが夢だった。
それが叶うのなら、アスクはきっと何だって出来てしまう。
「夢はトイだ」
確信を持った声で老女が言った。またその話だ、とアスクは思う。
彼女の口からその名が口にされるのは珍しいことではなかった。
「出会えば分かる」
それだけ言って、薄い目を閉じる。老女の言葉の意味も『トイ』の正体も分からないまま、アスクは老女と同じように目を閉じてみる。
瞼の裏から見る陽の光はぼんやりと赤く、まるで茜のようだった。
*
アスクは夢が欲しかった。夢さえあれば全てが上手くいくと信じていた。
自身の存在を象り、情熱を注ぐことが出来る唯一の対象。人生の指針。生きるよすが。アスクにとっての夢はそうだった。迷うことなく一心不乱に追いかけることが出来るそれを、アスクは何より求めていた。
夢を羨望するようになって、アスクはそれを手にする方法を毎日考えた。新しいものに触れてみようと、ピアノの鍵盤を押してみたり母の料理に横から手を出したり老女に問いかけたりしてみた。けれどアスクには夢の見つけ方など分からなかった。
そんな時、質問の対象になるのはいつも両親だった。アスクは母の入れてくれたミルクティーを飲みながら、珈琲を飲む父に問いかける。夢を見つけるにはどうするべきか。
まさに『それ』で金を稼ぎ、一家の生活を支える父は、まるで他人事のような口ぶりで言った。
「そういうのは、気付いたら手の内にあるもんなんじゃないか」
アスクはむっと頬を膨らませた。なんだかはぐらかされたように思えたからだ。だって父は誰よりその存在を熟知している筈だった。
夢について語らせるには適任すぎるような人なのだ。
「それじゃだめよ。今欲しいの」
「そうだな。ミルクも砂糖もなしに紅茶を飲めるようになる、なんてのはどうだろう?」
「そんなのもう叶ってるわ。私はこれが好きなだけで、ストレートが飲めない訳じゃないもの」
「なるほど、じゃあ珈琲はどうかな。試しにこれ飲んでみるかい?」
「遠慮しておくわ。そんなもの飲んでいるのは父さんくらいよ。毎朝毎朝、好きでもないのに」
「ちゃんと好きだよ」
「嘘よ。そんな苦いもの、好き好んで飲む人なんていないわ。絶対体に悪いわよ。……とにかく、私が言いたいのはそういうのじゃないの。誤魔化さないで」
アスクは睨むように、懇願するように父の目を見つめる。そんなアスクを見て、父は笑った。まるで懐かしむように、慈しむように、薄く皺の見える眦を細める。
「いずれ分かる」
言葉と同時に、父の大きな手がアスクの頭に置かれる。アスクは難しい顔のままそれを受け止め、その重さに軽く頭を揺らした。
それは毎日のように繰り返されるやりとりだった。父はいつも大切なことだけ口にしない。まるで意地悪をするかのように、故意に回答を避けている。それだからアスクの中には疑問だけが残った。
強情な父が優しい説明をくれる筈がない。それを理解していない訳ではなかったのだが、なぜだかアスクは、この時ばかりは引かなかった。
「夢を見つければ幸せになれる?」
珍しく言及するアスクを咎めることなく、父は艶やかな髪に触れていた手を引く。
「一概には言えないな」
肯定とも否定ともつかないような発言に、アスクは黙ったまま首を傾げる。
「夢を持つということは、明確な将来像を思い描くということだ。始めは『理想』を見ていたつもりでも、いつかその姿は『渇望』になる。なんとしてでもそこに行き着こうという考えは、場合によっては毒になり得る」
アスクはしばらく考える。幼さの残る顔をしかめ、思考がまとまらないことに腹を立てたのか薄い唇を噛む。
「『こうなれたらいいな』が、『こうならなくてはならない』に変わる。そしていつか『こうならない自分など許せない』になっていく。そういう人間も、少なからず居る」
アスクにもなんとか理解することが出来たその言葉は、なんだか暗い印象を持たせるものだった。
夢を光と信じて疑わないアスクは、その影を受け入れることが出来ない。
「じゃあ、私は」
どうすればいいの。
そう続く筈だったアスクの声は、頭上から響いてきたミシンの音に掻き消された。どうやら二階の部屋で母が縫い物を始めたらしい。父はそのタイミングに一つ笑うと、当たり前のようにアスクを部屋の外へ導いた。
その音は即ちこの家において始業の合図だった。両親共に在宅勤務であるため、母が縫製の仕事を始めるタイミングで父もこの大きな部屋に身を隠すようにして仕事に励む。その傍らにアスクが居ることは認められない。
いつものように父の仕事部屋から出て、アスクはぬるくなったミルクティーを飲み干す。玄関の脇に置かれたランドセルには見向きもしない。
アスクは今年で十二歳になる。本来なら小学六年生になる年だ。しかし彼女は、もうずっと学校には行っていなかった。元々好奇心旺盛なこともあったが、学び場が減ったことでアスクの両親に対する質問は盛んになっていた。それなのに、学校へ行かなくなってから、母はあまりアスクの質問に答えてくれなくなった。必然的に一番の情報源となる父に限ってはあんな調子である。物を教えることに長けている筈の父も、アスクの前ではただの父親だった。
畢竟、アスクにとって世界は分からないことだらけである。どの疑問も、彼女の小さな頭一つで考えるにはあまりに難解だった。
世界には難しいことが多すぎる。
*
両親が仕事を始めてしまうと、アスクにとっての自由時間が始まる。即ち暇な時間だ。大体朝の九時から正午まで、アスクは毎日外に出ていた。家の戸に鍵をかけ、三歩歩いて門扉を閉める。そこから続く一本道を抜け、近所の自然公園に向かう。元々人気のない場所ではあるが、この時間帯は特に静かだった。人の姿を見ることは滅多にない。
陽の光を浴びながら、アスクは迷うことなく木々に囲まれた小道を進んで行く。芝生の広場や小さな噴水を横切って、この時間帯に一番陽の当たるベンチを目指していく。
やがて小さな足を止めたアスクは、ほんの少し冷たい風に吹かれながら、「ごきげんよう」と歌うように挨拶をする。返事がないことは知っていた。息吹も聞こえないような静寂の中、木製のベンチには小さな老女が腰掛けていた。
肩の上で踊る不揃いな白髪。長い前髪は表情を隠し、皺だらけの肌を撫でるように揺れている。この不思議な老女の隣に居る時間が、アスクは好きだった。
縛られた日常から抜け出し自由を手に入れたアスクは、どこへでも行ける気になっていた。けれど世界は相変わらず窮屈で、人目につく場所でアスクは好奇の目を向けられる異常者だった。アスクにとっては理由のない行動も、大人にとっては遭難信号だ。道すがら出会う人々は皆アスクに尋ねた。
「こんな所でどうしたの?」
「何をしているの?」
「学校は?」
理由なんてない。目的もない。アスクはただ散歩をしているだけだった。それなのに、どうして皆がそんなくだらないことを知りたがるのか、アスクには分からなかった。そんな中、アスクを『アスク』としか認識していないのは老女だけだった。
「今日もはぐらかされたわ」
アスクは不満気に言って父との会話を反芻する。
「本当は知ってることだって、父さんは教えてくれないの。理想とか渇望とか。私が知りたいのは夢の見つけ方なのに」
それとも父は、夢なんてあまり良いものじゃないと言いたかったのだろうか。
自分は常日頃それと向き合っているのに?
「夢を追うのかい」
足下の一点を見つめるまま、小さく掠れた声で老女が言う。深いため息がアスクの口から漏れた。
「そうだったら良かったという話よ」
夢があれば良かった。迷うことなく歩けたら良かった。夢さえあれば、アスクは今もあの教室にいたのだろうか。
「良いことばかりじゃないよ」
まるで自分のことのように、老女が言う。いつも変わらない表情が、歪むことも少ない目が、どこか苦しげに映る。アスクは耳を傾ける。
「犠牲を払って、全てを捧げて、それでも」
老女の目が空を向く。小さく萎れた手が震えている。
「光があるとは限らないんだよ」
アスクの夢は夢を見つけること。夢は目指すもの。追うもの。当然、その先の景色を見たい一心で人々は努力を積んでいる。アスクには老女の言う『光』が上手く想像できなかった。アスクが求めているのは夢の先の栄光ではない。アスクにとっては夢そのものが『光』だった。
それなら、アスクがいつか手にする夢の先には一体何があるのだろう?
「難しいことなのね」
父が夢について明確に教えなかった理由を、アスクは自分なりに咀嚼してみる。
老女の言葉。光。理想。渇望。
夢の中にも、絶望はある。
アスクにとって絶対的存在であった筈の夢が、その価値を落としていく。きっと夢だけが全てではない。アスクにもそれは分かっている。
それでも。
「私は、目指すところがあれば良いと思うのよ」
アスクは夢を追いかけていたい。夢に全霊を注ぎ、何がなんでも掴もうとする熱量が欲しい。言ってしまえば、渇望だって良い。結局はアスクが求めているものなんて、ただそれだけだったのだ。
いつものように老女が黙り込んでしまうと、アスクは静かに立ち上がった。毎日の散歩の中、家に帰るまでの時間全てをこの場所で過ごしている訳ではなかった。アスクの姿など元からなかったもののように、老女は項垂れたままだった。そんな老女に背を向け、アスクは歩き出す。
その足が向く先は毎日気まぐれに変わる。公園を抜ける道を歩いて行くと、強い風がアスクの髪を掻き混ぜた。ざあざあと音を立てる葉を見上げる。漸く咲き誇った桜は無残にも散らされていた。たった今散った花弁と、地に落ちていた花弁が合わさって渦を巻く。
ずっと目の届かない所まで消えていく花弁を眺めながら、今日は少し遠くまで行ってみようという気になる。桜並木を抜け、海沿いを歩き、やがてアスクは一人の青年を見つける。
海に向かってイーゼルを立てた青年は、木箱のような椅子に座って絵を描いていた。
遠目からでも分かる。そのキャンバスに描かれているのは海だった。青々としてどこか深く、目の前に広がる海とはまるで違う世界の海を見ているようだった。その足元やイーゼルの端にはピンク色の花弁が積もっているのに、背後の立派な桜の木には見向きもしない。
美しい、と思った。彼のその後ろ姿が。筆を握る指が。彩られた風景が。
彼の描く絵を、ずっと見ていたいと思った。
「綺麗な絵ね」
断りを入れるように一言言って、アスクはキャンバスに顔を近づけた。美しい青年の海を舐めるように見つめる。青一色だということを忘れさせる多彩な色取り。『青』と一口に言ってもその色彩には多くの種類があることを思い知らされた。無駄に明るくなくどこか深い闇を感じさせる色使いは、海の先にある何かを描き出すかのようだった。
こんな素晴らしい絵を描くことが出来るなんて、彼はきっと素晴らしい人なのだろう。そんなことを考えながらまじまじと絵を眺めていたアスクは、やがてキャンバスの端に記されたサインに目を移す。そこに並んだアルファベットを見て、アスクは目を見開いた。
「あなたがトイ?」
振り返って、無垢な眼差しを青年に注ぐ。珍しいヘイゼルの瞳に見つめられた青年はその小さな世界に吸い込まれるような錯覚に襲われる。唐突の発言に驚きながらも、彼はアスクを拒絶しなかった。異様なほどに。まるで昔馴染みの人間を前にしたかのように、彼はその頬に柔らかな微笑みを湛えてみせた。
「あながち間違ってもいないかな」
その返答を肯定と取り、アスクは納得したように深く頷く。
「やっぱり。それじゃあ私はアスクなのね」
「君は『アスク』なの?」
「そうよ」
老女の言葉に従って、アスクは易々とそう答えた。
やっと見つけた。そう思った。老女がいつも話題に出す『トイ』を、『アスク』にとって必要不可欠な存在を見つけ出すことが出来たと。老女の言葉が本当なら、アスクの日常はこれから目まぐるしく変化するだろう。夢を見つけることだって出来るかも知れない。
彼を見つめるアスクの目には希望が満ちていた。アスクは彼をその人と信じて疑わない。
「アスク」
疑ってもいい筈の名前を、彼は簡単に口にした。
「君はこんな所で何をしているの?」
優しくそう言った彼に、アスクは首を傾げた。
「何か目的がないとここに居てはいけないの?」
それは同じようなことを聞かれるたび口にしている言葉だった。アスクの行動に理由などない。少なくともこの散歩には。
十代前半の年の少女が、真昼の時間帯にいる筈のない海の前にいる。麗らかな陽を直接浴びて、潮風に髪を揺らしている。その状況を危惧するトイの心情が、アスクにはどうにも分からない。
アスクの返答を聞いたトイは大きく目を見開いていた。先程までの凪いだ波のような雰囲気は跡形もなく消えている。持っていた筆を置き、トイは身体ごとアスクの方を向いた。
「君は、」
何かを話そうとして、トイは一度言葉を切った。次々に浮かぶ言葉を押し込めるように、眉根を寄せて黙り込む。
「……そうだね。君の言うとおりだ」
ややあって、力の抜けた声でトイは言った。アスクから離れた視線は淀んだ海へ、冷ややかな失望を向ける。トイはそのままキャンバスを掴んでイーゼルの足元に立てかけた。呆然としたままのアスクに、トイはもう一度明言する。
「目的なんてなくていいよ」
目的も理由も必要ない。そんな風にアスクを認めたのは彼が初めてだった。胸が高鳴るのを感じる。アスクにとって安心できる場所が、心許せる存在が増えた瞬間だった。
「またここに来てもいい?」
アスクの問いかけに、トイはにっこりと微笑んだ。
「もちろん」
ーーー続きは冊子でお楽しみくださいーーー
『ガッシュの恋人』冒頭部
令和五年五月二十一日発行