軌間
決して交わることのない赤錆びた鉄骨が二本、地面を這いながら彼方まで延びている。僕は黙って、その光景を駅のホームから見下ろしていた。
後ろでは電車の運行停止に対する文句と、せわしない数多の足音がひしめき合っている。なかには、駅員を呼びつけて文句をつける人の姿も目についた。そんな周囲のざわめきに比べると、眼下の線路はゾッとするほど静かだった。
「本日はご利用誠にありがとうございます。ただいま山陽本線下りは、人身事故のため運行を停止しており……」
あちらこちらで不満をのせた呟きが飛び交う。二時間も運転を見合わせた挙句に、運行停止ともなれば悪態をつきたくなる気持ちもわかるが、なんの罪もない駅員さんが八つ当たりされているのは傍目からでも気の毒で、見ていられなかった。
そうそうに改札を出た僕は、チェスターコートの襟に顎を埋めて嘆息する。市外から定期を使って通学しているため、余分のお金を財布に入れてなかった。バイトの給料日前なことも災いした。残ったお金ではホテルで一泊することはおろか、晩ご飯を買えるかも怪しいだろう。最後には大学の友達の家にでも泊めてもらえばいいと高を括っていたが、連絡を取る前にスマートフォンのバッテリーが底を着いた。こんなことなら前日にしっかり充電しておくべきだった。
すでに陽は傾き始めている。のんびり構えてはいられなかった。何より海沿いの町で、十一月の夜を路上でやり過ごすことなど想像したくもなかった。
歩いて帰るには遠すぎる距離だ。近くの交番に行って相談しようかとも思った。しかし案の定、駅前の交番は僕と似たような人で溢れかえっていた。僕の不幸は特別ではなかったことを知った。それは悲しいことではなかったけれど、僕の頭の中から誰かに助けを求めようという気持ちを削ぐには十分すぎる光景だった。
立ち往生をくらった駅は白を基調とした横長の建物だった。タクシー乗り場の前に植えられている真竹の前に座ってみる。
慌ただしく、駅構内から人が出てくるのが見える。誰もがどこかに向かおうと歩いている。そのなかで僕だけが立ち止まっていた。
すると、道路を隔てた歩道から立ち止まって私を見つめる女がいた。せわしなく人々が行き交う場では、彼女の周りは時が止まっているかのようだ。
相手の視線に凍り付いていると、女が動いた。近くの横断歩道をゆったりとした足取りで渡ると私の傍まで近寄ってくる。耳が重たそうな形をした女だった。女性にしては身長が高く、あまり自分と目線が変わらない。肩幅も少し広かった。私より5つか、6つほど年上にみえる。
「どうしたの、きみ。何かあった?」
相手は幼い子供に聴かせるようなゆっくりとした口調だったが、どこか仄暗さを孕んだ声をしていた。自分から声をかけてやろうと意気込んいたわりに、私は咄嗟に言葉が出なかった。
「電車が人身事故で止まって、帰れなくなってしまって」
絞り出すように言葉を並べるが、女は「ああ、そうなの」と、短く返しただけだった。心配そうに声をかけてきたにも関わらず、彼女から同情などは見受けられない。かといって単なる好奇心から近づいてきたようにもみえなかった。戸惑っていると何とはなしに彼女は口を開いた。
「わたしのところに来る? 狭いけど」
つりさげられた餌に一も二もなく飛びつこうとしたが、その前に待ての命令がくだる。
「泊めてあげてもいいけど、ちょっとお願いがあるの」
僕は条件を付けてきたことを、けち臭いなどとは思わなかった。むしろ対価を求めてくることに安心できた。人の親切を突っぱねるほどひねくれてはいないつもりだが、素直に受け取れるほど能天気じゃない。この世に只より高い物はないことくらいは知っている。
「事故が起きたのって山陽本線の上り線? 下り線?」
僕を見ているのに、彼女は遠くを見ていた。
「下り線です。この駅を出て次の駅に行く途中でぶつかったって、駅員さんが言ってました」
僕の後ろで必死に対応に追われていた駅員が言っていたのを、ぼんやりと覚えていた。家に帰れないとクレームをつけていた女性客が、たまたま私の好みの女性だったから、ついでに耳に入ったのだ。
「わたし、事故現場を今から見にいくんだけど。ちょっと付き合ってくれない?」
事故現場を見てみたいというお願いに、酔狂な人だとは思ったものの、嫌悪感を抱くよりも金銭を要求されなかったことに安堵した。
事故現場までは多少歩くが、次の駅までの距離はそこまで長くなかったはずだ。電車で数分程度、歩くなら徒歩でざっと十分前後くらいか。
「わかりました。僕でよければお付き合いします」
目の前の彼女はひらひらと手を振りながら笑みを浮かべた。
「そんなに畏まらなくていいよ。じゃあ一宿一飯の付き合いということでよろしく。わたしはアオイっていいます」
「アオイさん、ですね。ありがとうございます。僕は……」
「あ、名前はいいよ。わたし、人の名前って覚えられないの」
そう言われれば、わざわざ名乗る理由もない。後腐れのない関係を目指すならアオイさんの言葉に甘えておいたほうが、都合がよかった。
「じゃあ、線路沿いの道で、次の駅の近くまで行ってみようか」
アオイさんが歩き始めるのを待って、彼女の半歩後ろをついていく。隣を歩かないのは、遠慮ではなく自分の性格からだ。半歩下がって、人の歩く姿をただ見るのが好きだった。何より、人の歩き方は千差万別で、その人が歩んできた人生を垣間見ているようだった。
しかし、コンクリートの路面を低いヒールの靴で歩くアオイさんの足運びは独特で、僕にとってはあまり良い印象ではなかった。右足が遅れて出ている。怪我でもしているのだろうか。無理してヒールなんて履かなければそこまで目立つこともなかったのに、不規則な靴音が耳に障る。
「聞いてもいいですか?」
アオイさんは明るい話し方をするが、どうしても彼女自身が明朗な人だとは思えなかったのだ。
「なんで人が轢かれた現場を見たいんですか」
それを一番に訊ねたのは、胸に引っかかるものがあったからだ。どうも彼女は私と会う前から事故現場を見に行くような口ぶりだった。わざわざ人が死んだ現場へ向くという行動が私にはどうしても受け入れがたかった。
「うん。わたしも自殺すると思うから。下見に行きたくて」
さすがにこの返答には耳を疑った。冗談ですかと聞き返すと「あは」と短く笑われ、この人は本当に「死」へと向かい歩いているのだと悟った。
「走って、向かう場所がもうわたしにはないからね。終わる場所はわたしが決めるんだ」
盛り土された線路の枕木を、アオイさんは何故か愛おしそうに見つめている。僕はこの人にかける言葉を見つけられないでいた。僕に話しかけているようでいて、それは彼女の一人語りだった。
「わたしもできれば、線路で死にたいの。だから、その後どうなるのかと思って」
線路の途中で立ち往生している電車が見えてくる。僕はとうとう及び腰になって、あの列車の向こう側にあるのはグロテスクな死体だけではないのではないかと怯えていた。
車両が止まっている付近の歩道にはちょうど一〇人ほど人が集まっていた。アオイさんはその中へと溶け込んでいく。私は一瞬行くのを躊躇ったが足を踏み入れた。
「なんだ。もう死体運んだのかよ、つまんねえなあ」「じゃあ、なんで電車動かないの?」「どうも頭だけ、発見できてないらしいよ」「いやいや、頭は胴体にめり込んでたんだと。どうも右手が見つかってないらしい」「俺は左目が見つかってねーって聞いたぞ。あと右手は指が揃ってねえんだと」
集団の中では色々な憶測が飛び交っていた。どこからともなく飛び出してくる言葉は、無遠慮な興奮の熱を帯びていた。
その熱狂にあてられるのが疎ましくて、僕は肩が擦れ合うことさえ避けていた。まん丸い目を皿のように広げて、他人の屍を探す人々の目が、ぎょろぎょろと蠢いている。
最前列にいるアオイさんは、シャワーで洗い流されている車体へ目を向けている。しかし熱っぽさとは別の、不安と期待が入り混じる、複雑な目だった。
「あんなに綺麗に掃除しなくたっていいのに」
憎たらしそうに彼女は、清掃作業に没頭する運転士を指差す。血の付着した白い手袋を恨めしそうに睨み付けていた。
「投身して電車で撥ねられた人もさ、駅員は『お客様』として処理するんだって。だからバラバラになった遺体もできるだけ手で回収するの」
人を轢いた後の軌条は、刀の腹のように、ぬらぬらとした脂が夕焼けに反射して鈍い光を放っていた。これがね、泣きたいくらい怖くて仕方がないんだよ。でも、襖の隙間から覗き込むように、どうしてもうっすらと目を開けてしまうんだ。
声音はどんどん掠れて、萎んでいってしまう。
「人間が嫌になったからわざわざ死んでやったのに、身体がバラバラになってまで人間扱いされてるのが、かわいそう」
アオイさんは今にもその卵のような頭をレールの上に置いてゆっくりと眠りについてしまいそうだった。
彼女は近い未来、自ら命を断つのだろう。僕が見ている彼女は穏やかな姿ではあったが、強固な意志を感じた。それは死んでいることと、どれほど違いがあるのだろう。僕とアオイさんの間には線路の軌間のように、永遠に交わることのない距離が感じられた。
それから僕と彼女は出会った最初の駅まで戻ると、最寄りのインターネットカフェに泊まることになった。てっきりアオイさんの部屋まで案内されるのかと思っていたが、どうやら彼女はここ数カ月、インターネットカフェに寝泊まりしているらしい。
案内された個室は床がシート状になっていて靴を脱いで入る二人用のブース席だった。けれど入るとそこは思っていたより雑多な空間で、部屋着のジャージや外出用の衣服が隅の方で山のように積まれており、明らかに備え付けられた設備ではないような生活用品がデスクの上に散乱していた。
「ごめんね、散らかってて。今からちょっと掃除しとくから、今のうちにシャワーあびちゃいなよ。……これ着替えだから」
そう言って彼女が衣服の山から取り出したのは、ピンクのワンポイントが入った紺色のジャージと男物のパーカーだった。質素な色を好んで着ていた昼間の彼女の服装と比べると、赤と黒で彩られたパーカーはずいぶん攻撃的に見えた。
おそらくアオイさんは、このパーカーをわざと渡したのだ。そして私は、彼女の置かれている状況の一切を察したふりをして、聞き分けの良い青年を演じざるをえなくなった。
「お酒、飲むよね? 酎ハイでいい?」
シャワーから上がると、所々に置かれていたドライヤーや化粧品といった細々としたものはデスクの上から部屋の隅に追いやられていた。代わりに部屋には二つの枕と薄い毛布が用意されている。
僕は無言で缶酎ハイを受け取る。まるで最後の晩餐に付き合わされているようで、素直にお礼を言う気にはなれなかった。
「どうしてですか」
一人で飲んでるのと変わらないくらい、静かに時間が過ぎていった。アオイさんはアルコールが回っているのか首元からやんわりと赤みがさしている。これがそのうち死んでしまって蒼白になると思うと魔が差した。アオイさんの肩に寄りかかりながら聞き出そうする。
アオイさんは私の持ちかけた話をやんわりと断った。
「電車に撥ねられると、身体の一部が列車にくっついて、ずっと遠い場所で見つかることがあるの。だからわたし、ぶつかるなら貨物列車がいい。どこまでも運んでくれそうだもの」
相手の肩にのせる自分の手が汗に濡れる。僕は人の死はもっと触れるようなものだと思っていた。だから彼女が話す死はえらく不定形で奇怪なもののように映った。
何も言えなかった。項垂れながら彼女を押し倒した。もはや自分が何を抱いているかすら分からずに覆いかぶさっていた。アオイさんはなんの抵抗もしなかった。
幹の細い樹を抱いているようだった。すべてを終えると、アオイさんは私の背後から腕を回して、岩に生える苔のように眠った。だが彼女は、赤子みたいに時折目を覚ましては、何度も声を押し殺し、すすり泣いていた。
喉を潰すように声を漏らす彼女を背に、僕はやるせなさを胸の内にしまって瞼を閉じた。彼女を慰めるには、今の僕はあまりにも幼すぎた。
その日は深い海の夢をみた。僕はひどく抽象的な絵画の姿で、海月と一緒に浮いているのだ。
前を横切る秋刀魚の美しいことに驚いた。鋭く光る細長い秋刀魚たちの横っ腹が、プランクトンで薄っすらと白んだ海中でも一際強く輝いている。僕はあの魚のようになりたかったのだが、いつかその願いは長い年月を経ると、しょせん子どもの憧れだと悟ってしまうのだ。
それがやりきれなくて泣いていると、海の銀色がいっぱいに広がり、夢と現実は入れ替わっていた。生菓子の臭いが染みついた硬いシートと、放り出されたヘッドセットが次第に明瞭になっていく。しかし一緒に寝ていたはずのアオイさんの姿が見当たらなかった。
割れそうなほど乾いた声で彼女の名前を呼ぶが、返答も彼女の姿もない。一人になった個室は広く感じた。充電させてもらったスマートフォンの起動音だけが虚しく響いた。
しばらくは部屋でアオイさんを待っていたのだが、一向に帰ってくる気配がなかったため、借りていたパーカーとジャージを綺麗に畳み、私はネットカフェを去った。外はぽつぽつと小雨が降っていた。地面を漂う土埃も洗い流せそうにない弱々しい雨の粒が、灰色の路面に斑点をつくっている。
繁華街を抜け、ガード下を歩いていると突然腹の底を突き上げるような音が轟いた。轟音は何十秒にも渡り響いたため、貨物列車が走っているのではないかと、ぼんやり思い浮かべていた。
駅のホーム、あの黄色い線を飛び降りた先に、アオイさんは何になりたいのだろうと考える。今度会えたら教えてもらおう。そんな風に考えると、胸の内に渦巻くわだかまりもほんの少しだけ、ほどけた。
駅前の交差点で見たスマートフォンには、電車の遅延を報せる通知が届いていた。