その1
最後の子供に聴診筒を当てて耳を澄ませた。
明るい心音が規則正しく響き、健康なのを伝えてくる。
エリー・ケリー医師は、聴診筒を片付けると子供の口の中を見た。
下の前歯がなくなった後にうっすらと白い線がのぞき始めていた。
「じき、大人の歯が生えてくるわ。
今度はね、折れても直せないから大事にしなさいね。」
エリーの笑顔に子供が大きく何度も頷いた。
ジュリが上着を着せなおすと子供が走って部屋を出て行った。
「元気なのは、いいですけどね。」
ジュリが微笑んだ。
「健康なのは何よりよ。」
診察簿を書きながら、笑顔でエリ-が応じる。
ここのところ、エリー先生は笑顔が増えた。
子供たちにも緊張が無くなって、エリーによく笑いかける。
最初のうちは、こわばったエリーの顔を見て泣き出す子もいたのだけど。
「じゃ、片付けて戻りましょう。」
「はい。」
ジュリが片付けを始めた。顔を上げると窓から外が見える。
「あれ?」
ジュリの手が止まる。
「あれ?
センセイ、あれ、ルーエさんですね?」
「え?」
エリーが窓の外を見る。
庭の真ん中で黒い肌の白髪の男がレンガを積んでいた。
腰ほどの高さにすると大きな鉄板をのせている。下は鋼の容器に薪が入れられている。
「何をするんでしょう?
見にいきましょうよ!」
ジュリが楽しそうにエリーの腕をとった。
◇◇◇
簡易なレンガ竈を作ると、イ・ルーエ・ロダンはその周りに大きな円を描いた。
レンガ窯の薪が赤く燃え出していた。鉄板があったまってくる。
「いいか!
この線から中に入ったら駄目だからな!
守れなかった奴は、パンケーキ、無しだ!」
「えー!」
子供らが大声で答える。ルーエは楽しそうだ。
長い白髪は、頭の上の方で一つに結ばれ、馬のしっぽになっている。
「こんにちは、ルーエさん。」
ジュリがルーエに声をかけた。
ルーエが笑顔を向ける。
「やあ、ジュリさん、どうして?」
「え、ルーエさんこそ?」
「非番でね、エイミーたちにパンケーキをねだられて。
そちらは?」
「子供たちの定期健診です。先生もいっしょですよ!」
ジュリがエリーの腕を掴んで、前に押し出す。
「ジュリ!」エリーがしり込みする。
「こんにちは、センセイ。」
ルーエがちょっと恥ずかしそうに声をかけた。
「こ、こんにちは…。」やっと、エリーも返す。
「センセイもパンケーキいかがです?
こっち、来ませんか。」
「センセイ、行きましょ!」
ジュリに引っ張られるようにエリーも前に出た。
「センセイ、手伝って貰えませんか。」
「え?」
「そこ、卵を割ってください!
黄身と白身を分けてね!」
エリーが目の前の卵に固まる。
「センセイ?」
ルーエが不思議そうにエリーを見た。
(なんか、ヘンなこと言ったっけ?)
横からジュリの手が伸びて卵をとる。
「ルーエさん、いくつ、割ります?」
「んー、3個かな。」
ジュリが大きな木椀を並べて、卵を割る。
殻を半分にして、中から黄身だけを掬い取る。
白身が木椀にたまる。
黄身だけを別の木椀にいれてそれぞれを分けた。
エリーが驚いた表情でそれを見ている。
「ジュリさん、上手いもんですね。」
ルーエがその手際に感心しながら、卵の所にやってきた。
彼は、黄身を溶いて、粉と合わせる。
次にジュリから白身の木椀を受け取ると泡立て器で混ぜ始めた。
何度か砂糖を加えながら、泡立てる。力がある分、白く細かな気泡を持ってツノが泡立つ。
「すごいメレンゲ!」
ジュリが嬉しそうにいう。
ルーエは気にするふうでもなく、それを粉の器に開けてさっくりと混ぜた。
おおきな匙に生地をとり、熱した鉄板の上にそっと置いて、まあるくなるように成形する。
子供らがそれをキラキラとした目で眺めている。
ルーエは鉄板の上に注意深く、いくつも生地を並べた。
最初に置いたものから、膨らんで片面が焼き上がる。
つぶさないようにひっくり返して、もう片面も焼きを入れる。
「おいしそう!」
焼き上がりを皿に取ると子供たちに配り始めた。
次から次へとパンケーキを焼き続ける。
最後のが焼き上がって…。
「遅くなってすみません! センセイの分…」
パンケーキの皿を掲げたルーエの語尾が消える。
エリーの姿がなくなっていた。
◇◇◇
少し憂鬱な面持ちで、ルーエは『王立』本部の廊下を歩いていた。
先日の非番、エイミーの所でエリー先生に会えたのに、水疱瘡の礼も言えず、パンケーキも渡せず、話も出来なかった。
(ついてないな…)
両手の書類筒を抱え直す。
彼の上司が決裁を後回しにするばかりに各所に届けるものが遅くなる。
嫌味を言われるのはルーエの役回りだ。
「ルーエ、」
呼び止めたのはゾーイだった。
騎士見習の同期だが、ルーエの方が歳は二つ上だ。
「なんだ、帰ってたのか。」
「うん、今度の捕り物は小さいヤツだった。」
「何だか、物足りなさそうだな。」
「…。」ゾーイが目を伏せた。
「俺に用?」
「…モニカが死んだ。」
「え?」
「自死って報告があがってきた。」
「あいつ、結婚してザクリに引っ越したんじゃ?」
「ザクリの『王立』から連絡が来た。
元『王立』の女騎士だったからな。」
「旦那はどうした?
あいつ、押しかけ妻になったんだろ。」
「旦那はふた月前に死んでる。こっちは事故だ。」
「!?」
「旦那の後追い自死って…」
ゾーイがため息をついた。
「似合わない…」
「似合わないな…」
ゾーイが書簡筒をルーエの上着の内側にねじ込んだ。
耳元で小声で言った。
「検視報告書、写しだけど。」
「おい、」
「俺はこれから南部の調査。
だから、任せる。」
「おい!」
「お前んとこの上司、こういうの好きそうじゃない?」
ルーエがうな垂れた。
◇◇◇
溜息をつきながら、ルーエは検視報告書を眺めていた。
亡くなったモニカ・ルツエルは、騎士見習でルーエとゾーイの同期だった。
女騎士として王都とその近辺担当の警務隊に所属し、任務は主に市中警備や民衆保護で、ルーエやゾーイのように犯罪捜査で遠方まで行くことはなかった。
モニカはそれを残念に思っていたらしく、王都近郊の犯罪摘発があると嬉々として一隊を率いて出動していた。
それが任務で出会った男に一目惚れして、押しかけて、妻になったという。
思い込んだら一直線という情熱家だった。
男よりも男らしいと言われ、「『王立』のマリー」とも呼ばれた。
所属隊が違って、ずっと疎遠になっていたが、同期の有志らで結婚祝いを贈ってから一年近くになる。
「『縊死』…ねぇ。」
背中からの声はジェイド卿だった。
「なぜ、君が写しをもっているのかな?」
ルーエの背中がぞくっとした。
ジェイドは、ニヤリと笑って自分の机に座った。
ルーエが立って、上司のためにお茶を入れて、そっと前に置く。
「誰の報告書?」
「モニカ・ルツエル。自分と同期でした。」
「『「王立」のマリー』だったね。
結婚して退団したって聞いたけど?」
「はい。一年近く前になります。」
「自死ってこと?」
「報告書では。」
「そう。」
ジェイドがお茶を口にする。
「それだと、お墓、建ててやれないね。」
「…。」
ルーエは背筋を伸ばした。
「閣下、この後、『王立学校』の会議が入っております。」
ジェイドの眉間に皺が寄る。
「ゆっくりお茶も飲めない。
王都に戻るんじゃなかったかなぁ。」
「遅れないようにお願いいたします。」
「じゃ、お迎え、来てね。
あの会合、爺さんたちの飲み会だから、適当な所で救助を頼む。」
ジェイドが席から立って、渋い顔をしながら出て行った。
苦笑いを浮かべたルーエは自席に戻るとモニカの検視報告書を筒に片付けた。
◇◇◇
『安酒は嫌いだ~』とクダを撒く酔っ払いのジェイド卿を王都のアナスン侯爵邸に送り届けて、『黒いクジラの白いしぶき亭』に戻ったのは、随分と夜更けになってからだった。
開店前の掃除もできなくて、バーマンには迷惑をかけた。
閉店時間すら過ぎてしまい、店は真っ暗だ。
裏口から中に入る。
店の三階がルーエの居室だ。
一階が飲み屋、二階が簡単な宿が少しある。
酔いつぶれたお客を泊めるところだ。
この前のエリーは部屋に運べなくて、店で見ていたっけ。
今夜はカラのようだ。
三階に上がり、部屋に入る。
バーマンが小さなランタンを置いてくれていた。
困らない程度の灯りが迎えてくれている。
ランタンの置かれたテーブルの上にルーエ宛の書簡筒が置かれていた。
「ん?」
筒の蓋には実家の商会の紋章。
「商会? 姉ちゃん?」
筒を開けて中身を取り出した。
丸められたルーエ宛の封書が出てきた。
一緒に落ちた紙片を見る。
紙片には、「こちらに届いたので送ります。」と姉の筆跡。
封書の裏を見ると「モニカ・ルツエル」の署名。
「え!」
慌てて封を切った。
中には見覚えのある字が綴られていた。
ランタンを寄せ、手紙を読む。
だんだん頭が下がってくる。
身体が沈み、高い位置で結ばれたルーエの長い白髪の先が床に触れた。
毛先が小刻みに震えていた。
◇◇◇
モニカの検視報告書と昨日届いた手紙を机の上に並べていた。
腕を組んで考え込んでしまっている。
(どうしたものか…)
検視報告書に不備はなさそうだ。
家の梁に縄をかけての縊死。発見時がそうだった。
だが…。
ルーエは、検視報告書と手紙をたたむと上着の内ポケットにしまった。
静かに席を立つとジェイドの前に立った。
今日のジェイド卿は朝から決裁の山と格闘している。
「閣下、よろしいでしょうか?」
「ん?」
ジェイドが顔を上げた。赤毛をかきあげる。
「少し、休暇をいただいてもよろしいでしょうか?」
「えー!」
「二、三日。いただけませんか。」
「長い!」ジェイドが抗議する。
「往復に一日かかるもので。」
「…。
モニカ・ルツエルの件?」
「はい。」
「検視報告書に不備はないと思うけど。」
「はい。でも、腑に落ちない点があって。」
「どこが?」
「モニカが自死なんて想像できないんです。」
「押しかけるほど、旦那が好きだったんでしょう?」
「それなら、彼が亡くなったとき、すぐに後を追います。
二か月も経ってからというのがモニカらしくないんです。」
「根拠は?」
「同期だから、です。」
「それじゃぁねぇ。」
「モニカは騎士でした。
それも優秀な剣士でした。
剣で自害する作法も知っています。
それが縊死なんて。」
「納得できない?」
「墓を建ててやれないので、せめてそうなった理由を知ってやりたいです。」
「…。」
ジェイドが一息をつく。
「再調査はできないんだけどね。」
少し考えてジェイドが言った。
「検視報告書の補填ってことにするか…。
今日を入れて、三日だ。」
「ありがとうございます。」
「でも、『王立』の任務にはできない。
そうだな、『治療院』の法医の先生を知ってる?」
「グラハム先生ですか、警務隊の検視講義の教官でした。」
「グラハム先生の調査ってことにしてもらいなさい。」
「え?」
「『治療院』の仕事なら『王立』の再調査にはならないからね。」
ジェイドがニヤリと笑った。
「グラハム先生に一筆もらっていけば、現場にも入れるよ。」
◇◇◇
(今日を入れて三日って。
もう昼過ぎになる…)
ルーエは、慌てて私服に着替えて職場を出ると『王立治療院』の法医教室の扉を叩いた。
「どうぞ。」
中からグラハム医師の声がする。
「失礼いたします。『王立』警務隊のイ・ルーエ・ロダンです。」
グラハム医師は、白髪の多い赤茶色をした短髪の五十過ぎの男だった。
年の割には引き締まった体躯で、だがそれには似合わない輪を描くような分厚い眼鏡をかけている。
治療院の医師の制服の上に肉屋の親父のような胸当てある緑のエプロンをしている。
その裾には赤い血が。
思わず、そのエプロンから目を背ける。
「気になるならすまんな。
さっきまでウサギの解剖してたのでな。
今夜はウサギ汁だ。」
嬉しそうにグラハムが言った。
ルーエが話題を変えるために咳ばらいをした。
「さっき使いのあった、ジェイの件だね。」
(ジェイって… ジェイド卿の事?)
グラハムがルーエにソファを促し、自分も椅子に座った。
「問題の検視報告書を見せてもらおう。」
ルーエがグラハム医師に検視報告書を渡した。グラハムが一読する。
「ごく普通の検視報告書だね。問題ないと思うが?」
グラハムが少し笑う。
「ザクリの検視法医も教え子でね。まじめで優秀だよ。」
「でもこれに違和感がありまして、確かめに行きたいんです。
お力をお貸し願えませんか。」
グラハムが少し考え込む。
「じゃ、別の法医にも見てもらおうか。
その者も『問題ない』と言えば、再調査は無しだ。」
グラハムが部屋の外の職員に何かを告げた。そして、ルーエのもとに戻る。
「君の持つ違和感って?」
「モニカは女性です。」
「ん。」
「結婚して半年以上になるのに… この検視報告書には妊娠の有無が抜けています。」
「妊娠していなかったのでは?」
「でも、検視すべき項目です。」
ルーエの指摘にグラハムがため息をついた。
扉が叩かれた。
「どうぞ。」
「お呼びでしょうか、グラハム先生。」
聞き覚えのある声。
見覚えのある茶黒い髪。
白の『治療院』の制服。
入ってきた人物もルーエを一瞬見たが、視線を外した。
「エリー先生、呼び立てて済まなかったね。
ちょっと見てほしいものがあるんだ。」
グラハムがエリーに検視報告書を渡した。
エリーはルーエから離れるように立った。
「君たちは知り合い?」
「え、えーっと。」
ルーエは答えに困ったが、エリーは答えず、検視報告書に目を落としていた。
「どうかな、エリー?」
「…この検視報告書は、間違いはないと思います。
ですが…」
「?」
「成人女性なら妊娠の有無は検視対象にあたると思います。
それが抜けています。
それから…」
エリーが自分の喉元に指をあてた。
「頸部の骨折部位の向きに違和感があります。」
「どんな?」グラハムが問う。
「縊死とすれば、舌骨と甲状軟骨の間が締まって窒息ですから、自重がかかれば舌骨が下向きに、甲状軟骨も下向きに酷くつぶれます。でも、この検視報告書の図では、舌骨の方が上向きにつぶれています。」
「どういうことですか?」ルーエが口を挟む。
「顎があがった状態での縊死はあまり想像できません。」
「自死じゃない?」グラハムが問う。
「そうではなくて… そこは難しい所です。
ないとも言い切れません。
骨を確認できればいいのでしょうが。」
「骨のつぶれる位置…」ルーエが呟く。
「じゃ、エリー、行ってくれるかね?」
「え?」
グラハムが笑みを浮かべて言った。
「私の代わりにこの検視報告書を検証してきてくれ。」
「せ、先生、小児科の外来が!」
「私が代診しておくよ!」
「それはダメです!
また大腿骨を振り回すと子供たちが泣きます!」
グラハムが大声で笑った。
「エリーの護衛には、このイ・ルーエ・ロダン君が付いてくれるそうだよ。」
ルーエが驚いて目をまるくする。
エリーのヘイゼルの瞳も大きくなる。
「これから出発しなさい。期間は二日。」
「そんな、急、すぎます!」
院長先生にも…!」
「奴には私からいっとくよ。
さあ、早く用意して!」
グラハムがエリーの腕をとると部屋から出した。
「ルーエ君を通用口に待たせておくからね!」
グラハムが後ろ手で扉をしめた。
ルーエが思わず立ち上がっていた。
「え、えっと!」
「エリーは私の弟子でね。法医になりたいというのを小児科にしたんだ。」
「…。」
「君、『水疱瘡の彼』なんだろ?」
「…。」
「エリーは、私の弟子であり、私の患者でもある。」
「グラハム先生?」
「君は、『たくさんのエリー』と出会うかもしれないね。」
「?」
「さあ、行っておいで。」
グラハムがルーエのために扉を開けた。