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railway

掲載日:2009/11/01

 この小説をイラストレーターであり漫画家の、ゆちよさんに捧げます……



 昼下がりの公園からは、まるで火にかけたフライパンのように陽炎が立ち上っていた。その歪んだ景色のなか、乾ききった地面にチョークで引かれた平行線がえんえんと延びている。ブランコやジャングルジム、すべり台といった遊具を迂回して曲がりくねるその二本線には、垂直に交差する無数の短線が刻まれていた。

 ――線路だ。

 公園内で、縦横無尽に延びるその線路の続きを、まだ幼い女の子が夢中になって描いていた。熱しきった石畳にぺたんと座り、黙々と白いチョークを引いているのだ。

 電車ごっこをするつもりだろうか? それにしては、彼女一人しか見当たらないようだが……。

 気がつくと、その線路はベンチに腰掛ける私の前まできっちり延びていた。ちょうど私の足下辺りには、たどたどしい筆致でへろへろの長方形が描かれている。どうやらここを駅のホームに見立てているらしい。

 他のベンチへ移った方がいいかな?

 遊びの邪魔をしては気の毒だと気を回しつつ、しかしどうにも立ち上がるだけの気力が湧いてこなかった。昼間っから酒を食らっているせいだろう。私は、たばこに火を付け、それを唇の先でくわえたまま背もたれにどんと体重を預けた。そのまま、だらしなく空を見上げる……。

 まあいいや、電車ごっこが始まったら他所へ移ろう。

 頭上に張り出した木々の枝には青々と葉がしげり、そのわずかな隙間から木漏れ日が差し込んで私の顔にまだら模様を描く。その光線の眩しさに目を瞬きながら、私は、ため息と一緒に煙を吐き出した。

 ああ、何もする気が起きない……。

 勤めていたデザイン事務所を飛び出してからもうそろそろ半年近くになるが、未だに次の仕事は見つかっていない。とっくに愛想を尽かせた妻は、預金を残らず引き出したあげくに部屋を出ていった。噂では、友人のもとを転々と泊まり歩いているらしい。手持ちの金が尽きたなら、離婚届を引っ提げてまた戻ってくるのだろうか。子供のいない夫婦の関係なんて、しょせん赤の他人に毛の生えたようなものだ。共同で人生のリスクを回避しているビジネスパートナーに過ぎない。

 缶ビールの残りを一気にあおり、空になった缶に火の付いたたばこを突っ込むと、じゅっという音とともに再び私の心は萎えた。

 いま住んでいるアパートも、そろそろ追い出される頃だろう。

 考えるのも面倒になり、じっとりと重たい汗をかきながらいつしか私はまどろんでいた……。


 カタタン カタタン カタタン…………


 やたらと郷愁をさそう心地良い響きに目を覚ました私は、いつの間にか自分が列車に揺られている事に気づく。意識にかかった(もや)が次第に晴れゆくにつれ、入れかわるように心の中を疑問符が満たしはじめた。

 おかしいな、どうして私はこんなところにいるんだろう? 酔って幻覚を見ているのかな? それとも、これはまだ夢の続きだろうか……? 

 しかし、車窓から流れ込む心地良い風は、不思議と私の心から動揺する気持ちを洗い流していった。

 まあ、いいか。別に予定があるわけじゃなし、このまま何処か遠くへ行ってしまうというのも、あるいは名案かもしれない。

 見渡すと、車内はかなりレトロな雰囲気をかもし出していた。内装の化粧板はずいぶんと古びたデザインだし、天井に取り付けられた照明も蛍光灯ではなく白熱灯だ。一段上昇式の窓はどう見ても複層ガラスを使っておらず、巻上げ式のカーテンが日に焼けて黄ばんでいる。私が体を預けるこの二人掛けクロスシートだって、肘掛けがなくモケットの布地には煙草のこげ跡が残っていた。ふと、網棚の上に目をやる。そこには置き去りにされた週刊誌の表紙をかざる力道山の勇姿があった。

 何か変だな……。

 客車内を見回してみる。向かいの席にも、通路を挟んで反対側の席にもだれも座っていない。

 私の他に乗客はいないのだろうか?

 何気ない素振りで腰を浮かせ車内をくまなく見渡してみた。数はまばらだが同じ車両内には他にも客がいるようだ。ざっと目に付いただけでも、ネクタイを締めたサラリーマン風の男、和服を着たお年寄りの夫婦、夏物のセーラー服を着た女子高生、大きなリュックを背負った登山服の男、そして……私と背中合わせの席には、軍服を着た若者が座っていた。一瞬、自衛隊員かなと思ったが、よく見ると太平洋戦争中の軍人のような格好をしていた。

 乗客たちは、皆まるで演劇のエキストラのように存在感が希薄だった。私と目が合っても、それに反応するものは誰もいない。みな一様に黙りこくって、光りのない瞳でぼんやりと外の景色をながめているのだ。

 仕方なく私は、もう一度、席に腰を落ち着け、窓の外を過ぎゆく景色に目を向けた。ガラス一枚隔てた向こうに広がる風景は、なぜだか私の心に奇妙なノスタルジアを呼び起こした。いつか何処かで見たような景色……、訪れたことのある街角……、忘れかけていた思い出の断片……。窓枠の上に頬杖をついて流れ去る景色を目で追ううち、心の奥底から堪えきれない懐かしさが込み上げてきて胸がいっぱいになった。ここは、いったい何処なのだろう?


 じょうしゃけんを、はいけんします


 不意に背後から幼い声でそう呼びかけられ、はっと我に返った。振り向くと、公園で線路を描いていたあの少女が、神妙な面持ちで私の顔を覗き込んでいる。

 ああ、そうか。

 謎が解けた。

 ――これは彼女の電車ごっこなのだ。

 そう理解すると同時に、私は思わずぷっと吹き出してしまった。彼女の恰好がどうにも可笑しかったからだ。濃紺の制服にえんじ色の腕章を付け白い手袋をはめたその姿は、あきらかに車掌のつもりなのだろうが、大人用の服を無理に着込んでいるため、なんだか出来そこないのチャップリンみたいに見える。笑われたことで気を悪くしたのか、彼女はぷーっと頬を膨らませ再び私に詰めよった。


 じょうしゃけんを、みせてください


「悪いなあ、どうやらチケットは持っていないようなんだ」

 私がすまなさそうに言うと、彼女は制服のポケットから一枚の切符を取り出した。


 じゃあ、これ、あげる


「……え、いいのかい?」

 旧国鉄のものと酷似したその切符には、しかしつたない手書きで駅名がこう記されていた。


 すいせいむし発――たんじょう行き


 なんだろう、聞いたこともない地名だな。切符と外の景色を見比べながら、私は首を捻った。そもそもこの列車は、日本国内のどの辺りを走っているのだろう? 訊ねても無駄のような気もしたが、なにか話がしたくて顔を上げると、あの少女の姿はもうそこにはなかった。

 まあ、いいか、どうせ子供の遊びだ。

 深く考えるのをやめ、私はもらった切符をジーンズの尻ポケットに突っ込むと、再び外の景色へ目をやった。やはりどこかで見たような懐かしい街並みが次々と現れては消えてゆく。私は、くすぐったいような懐旧の情におそわれながらもその景色に見入っていた。しばらくして、車内アナウンスが次の駅名を告げた。


 次は、つまごい、つまごい――


 列車が徐々に速度を落とし始める。――と、そのとき明らかに見覚えのある建物が私の目に飛び込んできた。それはビルとビルの間に挟まれるようにひっそりとたたずんでいた。レンガ色に塗られたモルタルの壁にびっしりと蔦が絡まっている。洒落た造りの小さな喫茶店だ。よく覚えていた。以前勤めていた会社のすぐ近くにあった。

 あのカフェは……、まだ結婚する前よく妻と待ち合わせをした場所だ。すると、ここは東京なのか? いやしかし、あの喫茶店からは線路など見えなかったはずだ。妙だな、まさか空間がねじ曲がっているというわけでもあるまい。

 瞬時にあれこれと考えをめぐらせてみたが、しかし納得のいくような答えは見つからなかった。ただ、妻と知り合ったばかりのころいつも感じていた、あの切ないほどの愛おしい恋情がいつの間にか私の胸にふつふつと甦っていた。

 思い返してみれば、私には過ぎた女だった。知り合ったばかりのころは、彼女のことを考えて眠れない夜もあったのに。今頃どこでどうしているのか……。妻には悪いことをしたと思っている。仕事を辞めるとき、彼女には一言も相談をしなかった。どうせ話したって分かってもらえないと思った。しょせん女なんてリアリズムの権化だと決めつけていた。だから私は口をつぐんでいたのだ。ずっとこの胸に秘めていた大切な夢のことを。好きな絵を描いて生きてゆきたいという、捨てることの出来ない情熱のことを……。

 ちゃんと話しておけばよかったのだ。妻は情の深い女性だ。誠意をもってじっくりと話し合っていれば、彼女だって最後にはきっと分かってくれたはずなのに。どうして私は、その努力を怠ってしまったのだろう。

 悔悟の念におそわれ私がため息をついたとき、窓の向こうに小さな教会が見えてきた。私は思わず腰を浮かせた。ああ、あれは妻と結婚式を挙げたカトリックの教会じゃないか。三角のトタン屋根に、天使ミカエルが掲げる剣と見紛うような細くて長い十字架が突き立っている。懐かしいな……。挙式したのはたしか九月の終わり頃だった。おんこの生け垣に赤い実がびっしりとみのっていたのを覚えている。今は礼拝堂のステンドグラスに鋭い夏の陽ざしが反射して神聖な輝きを放っていた。

 あのとき……真っ白いベールを持ち上げ妻にそっと口づけをしたとき、私は神に誓ったはずだ。


 良きときも悪きときも、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、私はこの女性と力を合わせ生きてゆく……死が二人を分かつまで。そう誓ったはずなのに……。

 ――ああ、妻に会いたい。なぜだかむしょうに会いたいのだ。

 私の心がそう叫んだとき、列車は、古びた駅のホームへとすべり込んだ。ほとんど無人の駅だが、なぜか胸が高鳴るのを感じた。この駅のどこかに妻がいるような気がしてならない。降りてしまおうか……。そう思ったとき、背後から染み通るような男性の声が語りかけてきた。

「……妻とは一週間だけともに暮らしました」

 私と背中合わせに腰掛けていた、あの軍服姿の男だ。

「以前から結婚する約束をしていたのですが、急に満州へ出征することとなり慌てて祝言を挙げたのです」

 私は振り向くことが出来ず、黙って背中越しに彼の話を聞いた。

「その後、私は運良く命のあるうちに終戦を迎えることが出来たのですが、間が悪いとでも申しましょうか、長春へ引き揚げてすぐマラリアに罹ってしまいました。高熱にうなされ半醒半睡のはっきりしない頭で、私はただひたすらに妻のことだけを考えていました。彼女の目、彼女の唇、彼女の指、彼女の声、彼女の髪のにおい……。もし生きて再び会うことができたなら、まず最初に何をするべきか――」

 そこでいったん話を区切り、男は私の耳元に口を寄せて低い声で囁いた。

「あなたならまず何をします、遠く離ればなれのままずっと思い焦がれてきた妻とやっとめぐり会えたその瞬間に……?」

 私は迷わず答えた。

「思いきり抱きしめます」

 背後で、男がすっと立ち上がる気配がした。

「そうです。私はそれをするためにこの列車に乗り込んだのです」


 まもなく、このれっしゃは発車します――


 ベルが鳴る。

 ジリリリリリリリリリ……

 ドアが閉まる瞬間、小さな風呂敷包みひとつを手に、男は列車の乗降口をするりと抜け出た。やがて鈍い反動を伝えて車体が動き出す。ゆっくりと後方に流れゆく駅舎の中に、私はさいぜんの男が女性としっかり抱き合っているのを確認した。その姿を、しばらく羨望のまなざしで見送ったあと、私は気の抜けたように座席へ腰を下ろした。

 思い切って、私もこの駅で降りるべきではなかったのか。そうすれば妻ともう一度会えたかもしれないのに。後悔の念がひしひしと胸に迫る。なぜだか、妻とはもう二度と会えないような気がした……。


 私は、しばらくのあいだ呆けたようになって窓の外を過ぎゆく景色を、見るともなく見ていた。なんだか自我が喪失してしまったような、自分が自分でなくなったみたいな、そんな不思議な気分だ。

「あの……」

 不意に若い女性の声で呼びかけられた。はっとして顔を上げると、セーラー服姿の女が神妙な面持ちでこちらを見ていた。

「あの、向かいの席へ座ってもいいですか?」

 女は、やや遠慮がちにそう訊ねた。客車の中はがらがらに空いていたのだが、しかし私はことさらに不審とは思わず快く承諾した。

「どうぞ」

「ありがとうございます……」

 そう礼をのべ、女は静かに腰掛けた。そして流れるような所作でそのまま外の景色へ目をやる。私は、何か話しかけた方がいいのかなと気を揉んだが、彼女の気を引くような話題も思いつかなかったので、仕方なく一緒になって外を眺めていた。するとしばらくして、女の方から話しかけてきた。

「どこまで行かれるのですか?」

「さあ……、別に決めていないんだ」

「そうですか……、私は次の駅で降りようと思うのです」

 なんと返答していいのか分からず、まごまごしていると、その女はひとりで勝手に話をはじめた。

「……三歳のころからピアノを習い始めました。最初は親に言われて仕方なしに通っていたのですが、小学校四年生のときリリー・クラウスの演奏を聴いて本気でピアノを勉強する気になったのです……」

 女は、ときどきため息を交えながらも話を続けた。

「演奏の腕は……自分では良い方だと思っています。地元のコンクールで何度も賞を取りましたし、周りの友人からもそう言われました……。でも高校の卒業が近づいていよいよ進路を決めなければならなくなったとき、私にピアノを教えていた先生がこう言ったのです」

 そこで彼女は一度窓の外へ目を戻した。そして胸の内で何かと葛藤しているような、そんな険しい表情を一瞬だけ見せた。私はへたに相づちを打ったりせず、黙って話しの続きを待っていようと思った。やがて彼女は私の目を見ながら、ポツリと言った。

「あなたくらいの腕のピアニストなら、この日本には掃いて捨てるほどいるのよ――」

 そして女は、ふっと自嘲的な笑みをもらした。

「きっと先生は、何か気に障ることがあって私に意地悪を言ったんだと思います。普段はそのようなことを言うひとじゃなかったから……。でもそのとき私はもの凄く傷ついて、すでに決めていた音大への入試を断念してしまったのです」

「たったそれだけのことで、諦めたのかい?」

「はい……。芸術ってメンタルな部分が本当に大きく影響を与えるんです。私はそれ以来、自分の演奏を聴くのがいやになりました。ああ、なんて下手くそなんだ――って」

「確かに……。私も学生時代には絵を描いていたんだが、やはりスランプに陥るともう絵筆を見るのさえいやになったものだよ」

 彼女は、少しだけ私に親しみをおぼえたのか、はにかんだような笑顔を見せた。

「それでもやはり音楽に関わって生きてゆきたいと思い、私は中学校の音楽教師になりました。そして気が向いたときには生徒たちを集め音楽室のピアノを使ってモーツァルトなどを弾いて聴かせました」

 ここで彼女は頬を赤らめた。

「……こんな格好をしているけれど、私、今年で二十三になるのですよ」

 そのとき、車内アナウンスが次の駅名を告げた。


 次は、ゆめじ、ゆめじ――


「一生の夢って、諦めると悔いが残るものね。だから私はもう一度チャレンジしてみようと思うのです。列車を降りる前にどうしてもそのことを誰かに話したくって……、聞いてくださり、ありがとうございました」

 女はぺこりと頭を下げ、滑るような足どりで昇降口へと向かった。私は彼女が降りるこの駅がどういったところにあるのか気になって、窓の外を注意深く見渡した。

「あっ――」

 そのテナントビルは、ガラス張りのカーテンウォールに街の景色をくっきりと映し出していた。小さいが、近代的なデザインの建物だ。しかし私は知っていた。三階から非常階段へ抜けるスチールドアの取っ手が外れている。屋上にはいつも、空気の抜けたサッカーボールが転がっている。正面ロビーにある缶コーヒーの自動販売機はしょっちゅう故障して釣り銭が出てこない。そのビルのことなら我が家のように知っていた。なぜなら半年前まで私が勤めていたデザイン事務所があるビルだからだ。

 広告代理店の下請けをおもな事業内容とする小さな会社だった。チラシやポスターのデザイン、デパートのショーウィンドウや売り場のディスプレイ、ここ数年は都の緑化事業にも参入し公園のデザインなども手掛けていた。

 しかし、顧客に媚びて芸術性を犠牲にする会社の方針に、私は強く反発していた。自分がやりたかったのは、こんなことじゃない。もっと感性や創造力を活かせる仕事がしたかった。そう思い、会社を飛び出したのだ。

 しかし、今こうして会社のあるビルを外から眺めると、入社したてのころの奮い立つようなあの意気込みが甦ってくる。あのとき……、初めて出社して社員全員に挨拶したとき、私は大きな使命感に燃えていたはずだ。この会社での仕事を通して、私は私の持てる力を存分に発揮しようと思った。私の描く絵が多くの人に夢を与える、そんな仕事をしようと誓った。それがいつの間にか、妥協と挫折の繰り返しとなり、自分自身への失望が会社への不平不満にすり替えられていったのだ……。

 本当は、まだまだあの会社で頑張れたのではないか……。私の一生の夢を実現させる可能性が、いくらでも残されていたのではないか……。ひょっとすると私は、人生の舵取りを誤ってしまったのでは……。

 この駅で降りたなら、私はまたあの会社で一からやり直せるのでは――。

 そう思いかけたとき、ベルが鳴り、ドアが閉まり、列車はゆっくりと動き始めた。流れ去る駅のホームからこちらに背を向け、あのセーラー服の女が悠然と歩み去った……。


 まだ、わからないの?


 はっとして通路の方を見る。あの少女が、腰に手を当てて、ふんと息巻いた。


 このれっしゃはねえ、じょうきゃくの、じんせいを、さかのぼっているのよ

「人生を……?」

 そうよ。だから、じぶんが、ここから、じんせいをやりなおしたい、とおもうえきがあったら、まよわず、そこでおりればいいのよ

「……なるほど」

 私は、彼女の電車ごっこが意味するものを初めて知った。そういうことだったのか……。

 その後も、まるでスライドプロジェクターのように懐かしい情景が次から次へと現れては消えていった。

 ”おんし”という駅の近くには、中学時代お世話になった、美術教諭の家があった。一時期非行にはしっていた私に絵を描く喜びを教えてくれた恩人だ。また”しんゆう”という駅では、小学校時代のクラスメイトたちとよく草野球をした公園を見ることが出来た。やがて東京の大学に行き、無味乾燥な毎日を送るようになってからも、彼ら一人一人の顔を忘れたことはない。

 しかし、どの駅に着いても私はホームに降り立つ気にはなれなかった。どの駅も、どの時代も、何か違うような気がしていた。

 ここから何をやり直せるというのだ――。

 そうこうするうちに、列車は突然長いトンネルに入り、そのまま地下へと潜った。赤茶けた土がむき出しの、なんだか危うげなトンネルだった……。


 ながらくのご乗車ありがとうございました。つぎは終点、たんじょう、たんじょう――どなた様も、お忘れ物のございませんように……


 薄暗い土壁のトンネルに沿って線路は延々と続くかに思われたが、やがてそれも終わりをつげた。終着駅に着いたのだ。赤茶けた粘土質の壁に、たんじょうと手書きされたプレートが嵌めこまれている。ああ、とうとう終点まで来てしまった。列車はしばらくのあいだ徐行運転を続けたあと、ブレーキ音を軋ませ、やがて静止した。ゆっくりとドアが開く。一瞬、躊躇してしまったが、しかし私は追い立てられるようにふらふらと列車を降りた。

 その駅は、季節外れの海水浴場よりもまだ殺風景だったが、しかし不思議なぬくもりを宿していた。なんと心地良い……まるで母の背に負われているような、そんな安堵感をおぼえ、私はこのままずっとここにいたいという欲求にかられた。そっと壁に触れてみる。地熱が伝わってくるのだろうか、まるで人肌のような温かさを感じた。それにしても壁の奥がかすかに脈動しているように思えるのは気のせいだろうか……。

 やがて薄暗さに目が慣れてくると、赤土で出来た駅舎の床のあちこちに、何人ものひとが横たわっているのが見えた。みな一様に体を丸め、まるで胎児のような格好で眠っている。彼らはここでいったい何をしているのだろう? しかしそんな光景を目にしたとたん、私は猛烈な疲労感に襲われた。

 疲れた……。私は、生きてゆくことに疲れた。自分の人生を歩んでゆくことに、もうすっかり疲れ果ててしまったのだ。ここで彼らと一緒になって地面に丸まっていたい。ずっといつまでも、この不思議な温もりに包まれて赤ん坊のように眠っていたい。そんな思いが、じりじりと私の胸を締めつける。

 とりあえず少し休もう。

 ちょうど横たわるのに最適な場所をみつけ、膝を折ろうとしたとき、不意に背後から声をかけられた。あの少女の声だ――。


 しゅうてんまできてしまった、あなたには、えらぶべきみちが、ふたつあるの。


 私は、ゆっくりと振り向いた。彼女はもう車掌の格好をしてはいなかった。公園で見かけたときと同じ水色のワンピースに赤い革靴を履いていた。手を後に組み小首を傾げ、少し哀れむように私を見ながら、やがて彼女はこう告げた。


 ふたつのうちの、ひとつはね、ここにのこることよ……。ここには、あなたをくるしめるものなんて、なにもないの。なやみも、つかれもしらず、おおきな、おおきなちからにまもられて、ただねむりつづけていればいいのよ


 私はすぐ足下に横たわる年配の女性を見た。すっかり安心しきったようなその顔は、まるで保育器の中でまどろむ乳児のようなあどけない表情をしていた。私は少しだけ羨ましいと感じたが、しかしその反面、奇妙な嫌悪感をおぼえた。どうにもその女性が、人間でありながら根源的な部分においては人間でないように思えたからだ。生きることへの苦しみから解放された人間というのは、こうも間が抜けて見えるものなのだろうか。私はすがるような思いでもう一度少女を見た。それを待っていたかのように、彼女はこう続けた。


 もうひとつのみちはね……、あそこから、そとのせかいへでることよ


 少女は、ホームの一番はしを指さして言った。そこには、EXITという表示とともに上りの階段があった。地上から差し込む光で、ステップの滑り止め金具がきらきら輝いて見えた。私は緊張で手のひらが汗ばむのをおぼえたが、しかし気がつくと、ふらふらとそちらへ向かって歩き出していた。先程から全身をおそう疲労感はやはり消えないが、なぜだか外へ出なくてはならないと強く感じていた。……どこかで妻が待っているような気がした。……私を必要としてくれる職場が他にもあるような気がした。……もう一度絵筆をにぎる感触を心ゆくまで味わってみたいと思った。


 いちどそとへでてしまったら、もうにどと、ここにはもどれないのよ


 出口へ向かって歩きはじめた私の背に、少女が慌ててそう語りかける。

「いいんだ、私の在るべき場所はここじゃない。たった今、それが分かったんだ」

 私は立ち止まって振り向いた。しかし今までそこにいたはずの少女は、まるでマジックのようにその場から姿を消していた。あたかも初めから存在していなかったように。私は思わず苦笑してしまった。子供というのは、どうしてこうも気紛れな生き物なのか。

 出口までの階段を一歩また一歩と踏みしめ、私は本来自分が在るべき世界をめざした。やがて出口が近づくにつれ、私の顔の、光の暖かさを感じる部分が徐々に広がっていった。それと同時に、何者かの視線を強く感じはじめた。とても懐かしいような、ともすると泣き出してしまいそうなほどに愛おしい、そんな視線だ……。

 程なくして狭い階段を上りきり、わずかな段差を踏み越えて、私は外の世界へと出た。先程までのうじうじした心はもうすっかり影をひそめていた。眩しいほど明るい天を見上げてみる。すると、そこから聞き覚えのある声がまるで子守唄のように降ってきた。


 ねえ、この子の寝顔、あなたにそっくりね……

 そうかな、僕は君に似ていると思うが

 あら、そうかしら。ふふ……、でもそんなの、どちらでもいいわ、だって私たち二人の子ですもの

 そうだな。……おいこら、元気に育ってくれよ

 この子、将来は何になるのかしら?

 何でもいいさ、のびのびと自分の選んだ人生を歩んでくれれば、それでいい

 そうね……、この子の人生ですものね

 そうさ、この子の人生だ


 私は天を振り仰いだまま泣いてしまった。そこに、まだ若い日の父と母の顔を見たからだ。彼らはじっと私を見つめていた。その慈しむような瞳には深い愛情が込められていた。私がこの世に生まれ出たとき、彼らはその小さな命にどんな夢を託したのだろうか? 少なくとも今の私のような投げやりな人生を歩む男の姿なんか、想像していなかったはずだ。

 私は、自分を生んでくれた彼らの期待に応えるような人生を歩まなくてはならないと強く思った。そしてもう一度、自分の人生を一からやり直したいと、そう強く願った。

 光が渦を巻いた――。意識が徐々に遠のいてゆく――。体が重力から解放され、ふわりと舞い上がった。そして、そのままぐんぐん上昇する。

 世界が、もの凄い早さで私のわきをすり抜けていった……。


 そしてその瞬間…………私は、もう一度生まれた。


 気がつくと、元いた公園ベンチの背もたれにだらしなく体をあずけ、夜空を見上げていた。降るような満天の星がじんわりと滲んでいる。泣いていたのか……。しかし私は、不思議と晴れやかな気持ちだった。身にまとっていた重たい鎧をぜんぶ脱ぎ捨てたような、そんな心持ちだ。

 すべては、うたた寝の間に見た夢だったのだろう……。

 私はゆっくりと体を起こし、あたりを見渡してみた。夜の公園内に人影はなかった。ただ常夜灯の明かりに羽虫が群れ、その繊細な光が照らす先の地面には、未だあの白いチョークで引かれた線路が延々とのびていた。

 ふと、私は自分の足下を確認してみた。やはりそこには駅のホームが描かれている。しかしよく見ると、昼間には終着駅だったそこからは、反対側に新たな線路が延びていた。その二本線は延々と夜の公園内を這い、闇を突っ切り、ネオンが明滅する夜の街を通り抜け、ずっとずっと遠くまで、そう、まるであの星空の先までも続いているように見えた。

 ――私は悟った。

 ああ、私には、まだ未来がある。ここは終着駅なんかじゃない、私の人生には、まだまだその先が残されているのだ……。

 心が勇気でみたされてゆくのを感じた。やがて私は、明確な意志を持って立ち上がった。やるべきことは分かっている。今日、ここへ来て本当に良かった。心の中であの不思議な少女に感謝した。すべて君のおかげだ、ありがとう――。

 昂揚する気持ちを抑えるために、私はたばこを吸おうと体じゅうのポケットを探った。そしてジーンズの尻ポケットに一枚の紙片が突っ込まれていることに気づく。その硬質な感触は、おそらくあのとき少女がくれた切符に違いなかった。

 では、やはり夢ではなかったのか……。

 しかし私は、それが何であるのかも確かめずに、ベンチの横にあったゴミかごへ捨てた。例えそれが切符であったとしても、今の私にはもう必要ないからだ。

 知っているのだ。

 ここから先は、もう自分の足で歩いてゆかねばならないことを……。

 

 


 お読み下さり、ありがとうございました。

実はこの小説を書き始めたとき、ちょうど内田花先生が『秘密基地』を投稿され、その出だし部分のシチュエーションがなんだか似ていたため、とても嬉しく感じたことを覚えています。もしかして感性に似た部分があるのかな、なんて……。(本人が聞いたら怒るだろうなあ…汗)

まあ、書き上がってみれば、ボクのは相変わらずのグダグダなんですが……(T_T)

さて、ゆちよさんは、私の作品『ともだちのうた』のためにバナーを作ってくださった方で、とても素敵な絵を描かれるイラストレーター兼作画漫画家です。人間的にも、とっても素敵な人なのです。今回こうして、ゆちよさんに捧げる小説を書かせていただきましたが、出来上がってみればご本人のキャラクターとは程遠いような……。広い心で読んで下さることを祈っておる次第です(^_^;)。

なにはともあれ、ゆちよさん、お誕生日おめでとうございます。

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