世界で一番哀しい声
深夜三時半。例年通りの忘年会はそれにてお開きとなった。カラオケ店から予約してある近くのビジネスホテルへと僕らは歩いて向かう。
年越しもあと二日に迫ったというだけあって、深夜の暗い外は酔いが醒めてしまうんじゃないかというくらい寒かった。寒さを通り越して痛いくらいだ。外は数時間前よりも一段とまた寒くなっていた。最後にトイレに行ったせいで、僕はみんなの後を一番後ろか追いかけるような具合になった。
僕の前をみんなが歩いている。三人で仲良く肩を組みながら歩いていてる、あいつとあいつとあいつ。その後ろには、ひとつのスマホを一緒に見ながら何やら騒ぎながら歩いている、あいつとあいつ。そしてその後ろ、僕の少し前には、ケンとユキちゃんが肩を寄り添うようにしてゆっくりと歩いている。
ふと、アルコールのせいなのか、それとも久しぶりにみんなで集まれてテンションが上がっているせいなのか、まるで、あの頃とほとんど何も変わっていない、そんな錯覚に僕は襲われた。僕の姿や、みんなの姿が、みるみる若くなってあの頃の面影に重なる。辺りの風景までもが、あの頃の慣れ親しんだ風景に重なってゆく。でも、もちろんそれは錯覚だ。あの頃からもう十五年が経ったのだ。僕らは見た目だって変わったし、それに僕らはもうそれぞれに家庭を持ち、それぞれの決められた狭いセカイの中で生きている。こうやってみんなで集まれるのも一年の内で、せいぜい二、三回くらいのものなのだ。
僕らはあの頃から確実に歳をとり、あの頃はもう僕らの後ろ側へと確実に行ってしまった。人生の中で一番輝かしいといわれるあの瞬間を、僕らはもう確実に通り越してしまったのだ。
しかし、『でも』と僕は思った。でも、本当は何もどこも変わってなんていないのかもしれない。ふいにそんな疑念にかられて、僕はもう一度確認するようにみんなの後ろ姿を眺めた。
みんなは、今現在のそれぞれの姿でホテルに向かって楽しそうに歩いていた。ケンとユキちゃんも変わらずに二人で寄り添うように歩いていた。
僕はみんなの所に追いつこうという気持ちは全く失せて、短い溜息をついた。そして、初恋の相手というのはいつになっても悲しいものだな、と思った。
僕が吐いた溜息は、たちまちに白い息となって僕の頭上に登り、やがてどこかに消えた。僕の胸の中にはいつものように様々な後悔が走馬灯のように流れては消えていた。暗い夜空には、数えきれないほどの星たちが綺麗に輝いていた。
ふと、前を歩いていたユキちゃんが突然僕の方に振り返った。ユキちゃんと目が合う。僕は少し戸惑った。それからユキちゃんはいつもの目で僕を見つめ、
「ゆうき、早く!置いてっちゃうよ」と僕に叫んだ。
僕は片手を上げてそれに答え、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで、二人の所までしょうがなく駆けた。
※
ビジネスホテルに着くと「じゃ、おやすみ」と言って、僕らは各々の部屋に別れた。運良くみんな、同じ階の隣同士の部屋だった。
二十分近くも外を歩いたせいで体は完全に冷え切っていた。けれども風呂に入るのはもう面倒だったから、僕はジーンズだけを脱ぎ捨てパーカーのまま、暖房の風量だけを目一杯上げて、それから布団の中に潜り込んだ。ベットは氷みたいに冷たかった。
しかし、どれだけ時間が経っても僕はなかなか寝付くことができなかった。僕の体は今すぐにでも寝たいのに、僕の意識がそれを許してはくれなかった。アルコールのせいなのか、テンションが上がっているせいなのか、僕の体と僕の意識との間には境界線があって、それがなかなか一つに交わってくれないのだ。僕の意識は、まだ昂っているようだった。
人間、こんな時は様々なことを考えてしまうものだ。少なくとも僕はそうだった。僕は全ての制御を取っ払い、半ばヤケクソな気持ちで、こんな風になるのも一年の内で今日だけだ!だったら逆にとことん楽しんでやる!と、止めどなく浮かんで来るそんな様々な想いたちに、僕は身を委ねることにした。
僕は目を瞑りながらとりとめもないことをずっとずっと考えていた。頭に浮かぶ映像や言葉には白い靄がかかり、まるでずっと前に見た夢をもう一度見ているかのようだった。でもそれは、僕が本当に実際に夢みていた『夢』だったのかもしれなかった。不思議と嫌な気持ちではなかった。むしろ心地良ささえ僕は感じていた。
それからどれくらいの時間が経過しただろうか。ふと、どこからか『声』が聞こえた。その声は最初、どこか知らないずっと遠くの世界から聞こえてきてるみたいだった。辺りは静かで、僕の耳には暖房のゴォーという音しか聞こえてはいないはずだった。けれどもその声は、誰かの溜息が間違って僕の意識の中に入り込んで来てしまったみたいに、いつの間にか僕の意識の中にいた。
声は次第に大きくなっていくようだった。声が大きくなるにつれて、その声ははっきりとした形を取り始めた。そうしてその声はやがて、僕の知っているあるひとつの声に重なった。声色は僕が聞いたことがないものだった。けれどもその声音は同じだった。僕は堪らなくなり、訳もわからずドキドキした。そのドキドキは、今までで感じたことのない種類のドキドキだった。いや、一生の中では絶対に経験したくはないタイプのドキドキだった。僕は居ても立っても居られなくなりベットから起き上がって、枕元のテレビのリモコンを無意識に手に取っていた。
さっきとはまるで違う時間が流れていた。僕は全く嫌な気持ちで、全く観たくもないペイチャンネルを、ハエがハエ叩きを眺めてるみたいな気持ちで眺めていた。画面の中では、二流だか、三流だかの女優が、卑猥な顔で、卑猥な声を出しながらつまらないセックスをしていた。反吐が出そうになるくらい、全くもってつまらないセックスだった。肌と肌がぶつかる乾いた音がなんだかとても耳障りだった。けれども、その声をかき消す方法はこれしかなかったのだ。僕の僕は一ミリも反応なんかしていなくて、涙は一滴も出てこなかった。本当に哀しい時、あるいは涙なんて実際には一滴も出ないものなのかもしれない。
世界で一番哀しい声だ。僕はその時、世界で一番哀しい声を聞いた。僕にとったらその声は、世界中のどんな声よりも、きっと世界で一番哀しい声だった。僕はこれも何かの思い出だと、胸の中の小さな箱にその声を一応、そっとしまった。
-おわり-