次の土曜日
マリーちゃんの来訪から五日が経過しての土曜日。
我がトスカーナ、二週目の出店日が訪れた。
前日のうちに充分に睡眠を取り、朝四時起きで仕上げの作業に入る。
やはり移動時間が大きなネックだとは感じつつも、パン窯がなければどうしようもないので仕方がない。眠い目を擦りながら今日のパンを焼き上げた。
移動中に仮眠できるのでヨハネには申し訳ないが、お陰で店先でのわたしは寝不足にはならない。移動中の仮眠が程よく体力を回復させてくれる。
「そうそう、これを預かってくれねえか?」
開店直後、そんな調子で元気はつらつなわたしはモトベさんから機械を渡された。手のひらサイズだが電卓か何かだろうか?
「曲がりなりにもお嬢ちゃんも俺っちの子方みたいなもんだからよ。連絡用に電話くらい持っててほしいんだ」
どうやらこれは携帯電話らしい。
たしかに言われてみれば昔のそれに近い。
「ありがとうございます。でも良いんですか? まだ電話代も払えるか、不安な状態なのですが」
「どうせ俺っちとの連絡にしか使わんだろうから、利用料は出世払いで構わねえさ。それよりも連絡が取れないのが面倒でよ。この前もお嬢ちゃんらのヤサは何処かって聞かれて困ったんだ」
「それってもしかしてマリーちゃんですか?」
「んっと……そんな名前だったかな。子方のコレが連れてきたんだが、どうしても兄ちゃんに会いたいって聞かなくてな。その時に、電話できれば一発だと思ったってわけよ」
「お手数をおかけします」
「いいって。それに俺っちもちょくちょく頼みたいこともあるしな。例えば秋になったら山にはシヴァ栗が実るから、収穫を手伝ってほしいしよ」
「それくらいはいつでも言ってください。いろいろお世話になっていますし」
モトベさんから渡された携帯電話をポケットにしまい、この日の営業が始まった。
先週の反響のお陰かポツポツとパンは売れていき、十一時を前にして二十個以上のパンが首尾よく捌ける。やはりいちご大福パンが一番の人気のようで、これだけが先に十五個も売り上げていた。
ヨハネもカーゴの中で忙しく飲み物を準備してくれてるほど順調な滑り出しに、わたしも気分がいい。
そんな浮かれ気分に一抹の不安を呼び込む一陣の風が中央公園に吹いた。
「ごきげんよう。とりあえず一個ずつください」
満面の笑みでやって来たのはマリーちゃんである。
質素なエプロン姿のわたしに見せつけるかのようなお洒落な服装の彼女は何処か華やかで、仕事着ゆえの地味さを孕んだわたしとは大違いである。
直感だが、彼女はヨハネに色目を使う気でおめかしをしているようだ。今までも彼女は服装に気を使っている様子は見てとれていたが、今日はそれまでの比ではない。
「はい、五百円」
「えん?」
「ゴメン。つい単位を間違えてしまったわ」
「そう言うことですか。これで良いですよね。ところでアマネさん、ヨハネさんは?」
「カーゴで飲み物の用意をしているけれど、まさか仕事の邪魔をする気じゃないわよね」
「そ、そんなつもりじゃないですって」
一瞬どきりとした顔になったのをわたしは見逃さなかった。
「お喋りがしたいのならご自由に。だけど仕事の邪魔はしないでね」
「わかりました」
もし邪魔をされたら大変なので、わたしはマリーちゃんに釘を刺した。
わかったとは口では言うが大丈夫だろうか
わたしは悶々としつつも途切れ途切れに訪れる客の応対に追われてマリーちゃんの様子を探るどころではなかった。
そのまま一時を回っていちご大福パンが売り切れると、客足も途絶え始める。残念そうに初恋の味を買っていったお客さんを見送ったわたしは休憩の為、ヨハネに店番を頼もうとカーゴを覗いた。
「な?!」
そしてわたしは中の様子に思わず絶句してしまった。
首筋に唇を重ねられて顔を赤くしたヨハネがそこに居たからだ。
「あ……」
ヨハネはわたしに気がついて、気まずそうな顔である。
一方マリーちゃんは目を閉じていて、わたしには気づいていない。
「どうぞご勝手に!」
わたしは言い訳など聞きたくないと、ふたりを拒絶してしまった。
突発的なことで後先を考えないその行動は、頭が冷えれば勝手すぎたと自分でも理解できる。
未来の自分に言わせれば、嫉妬で癇癪を起こしたほろ苦い記憶なのだが、その最中のわたしにはヨハネへの妬みしかない。
自分だって出会って一ヶ月弱でしかないとはいえ、ある程度は気持ちが通じていると思っていた。一方的ながら片思いをするわたしはヨハネには自分だけ見て欲しいと思ってやまない。
だから色目を使うマリーちゃん以上に、その色目に落ちたヨハネに嫉妬してしまう。身勝手ながら、自分でもよくわからないながら、彼が好きという気持ちが暴走していた。
「オイオイオイ。そんな調子じゃ誰も来ねえぜ」
「え?」
あれから時間が経過した二時を過ぎ。手が空いて声をかけてきたモトベさんの言葉にわたしは気づかされた。
「兄ちゃんとケンカでもしたか?」
「そ、そんなんじゃないですって」
「隠すことはないじゃねえか。お嬢ちゃんが急にイラつく理由なんて、他にはあり得ねえんだし」
からかうようなモトベさんの指摘にわたしはぐうの音もなかった。
「恥ずかしい。でも言われてみればその通りなんですが」
「さっきカーゴの中に女の子が入ったのを見たし、大方その子と兄ちゃんがなにかやってたって所だろう。兄ちゃんの事だからお嬢ちゃん以外の女に手を出したとは思えねえが」
「相手はその……結構自分からグイグイするタイプみたいですし」
「つうことは据え膳か。もしかして、兄ちゃんの故郷はエドか?」
「さあ。でもエドマエがどうこうと、言っていたことはありますけど」
「あちゃあ」
モトベさんは何か不味いことでもあるかのように、自分の額を手で叩いた。
前にも聞いた「エドマエ」とは、なにか問題があるのだろうか?
「エドマエ男子ってのは、要するにエド出身ってことよ。まあ出身者でなくてもエドの気風を気に入ったヤツはそう名乗ることもあるんだが、要するに気前がいいんだ」
「たしかにヨハネはそういうところがありますね。でもそれの何処があちゃあなんですか?」
「普通ならそれは美徳だが、悪く言えば押しに弱くて安請け合いしちまうって事だ。土下座して頼み込まれたら、渋々でも脱いでしまうのがエドマエ気質なんだよ」
「じゃあやっぱり」
あれはマリーちゃんに言い寄られたヨハネが屈していた姿だったのだろう。わたしのなかではそういう風に繋がってしまった。
ヨハネがあのまま流されるようにマリーちゃんと事に及んでいようモノならば。わたしはそういう考えをイライラしつつ思い浮かべた。
だがいくら嫉妬とはいえ相手は好いたヨハネである。彼をオカズにそう言うことを考えると、否が応でも顔が赤らんでしまった。
まったく、フェイトちゃんじゃないんだから。
「大丈夫か? ずいぶんと顔が赤いが」
「へ、平気です」
「まああまり気を落とさんな。逆に言えばお嬢ちゃんにとっても、エドマエ気質はチャンスなんだから」
「???」
「裏を返せばお嬢ちゃんの押しにも弱いってことよ。今晩辺り、仲直りを兼ねてやってみなよ」
わたしにヨハネを押し倒せと言うモトベさん。
それをわたしは早速頭のなかで妄想し、そして頭のなかを桃色に染めてしまった。
モトベさんが言うことが出来ていれば苦労などないのだが、頭の中ではどうしてもそれを思い浮かべてしまう自分がいた。