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星を見上げる駅

作者: 早摘 大豆

 小さな駅があった。

 ただひとつだけこぢんまりとしたベンチがあって、そこに男が掛けている。草臥れた雰囲気の、スーツ姿の男だ。黒縁の眼鏡を拭き、目尻を弛緩させた、穏やかな人相。暫くしてそれを掛け直すと、膝上に置いていた文庫を手に取って読み始める。

 駅員はいない。

 改札もない。

 周囲には民家もなく、道もない。

 人のいる痕跡もない。

 さりとて動物もいない。

 ただ上りと下りの線路が駅にはあって、あとは地平線の果てまで続く干潟だけ。そこはそうした場所だった。

「おや」

 遠い汽笛の音で、男はふと顔を上げる。

 上りの汽車だ。遠く棚引く蒸気を見て、男は顔を曇らせる。乗る様子は無かった。ただ文庫に目を落として、じっと文字に目を滑らせていた。

 やがて汽車が停車し、扉が開く。車内には幾人かの人が居て、皆一様に俯き、握りしめた手を見つめている。彼らの多くは男に見向きもしない。そうした様子を、男は文庫に顔を向けつつ悲し気に見回して、その時一人の少女と視線があった。

 汽笛が鳴る。突っかかるような軋みを上げて扉が閉まり、車輪が徐々に回転を増す。やがて汽車が見えなくなって、駅に沈黙が戻った。男が声を掛ける。

「お掛けなさい。いつまでもそうしていては、疲れるでしょう」

 男の声は穏やかで、だからだろうか、少女は言われるがままベンチに腰掛けた。

 時間がどれだけ経とうと、この駅はいつまでも夕方だ。茜色の陽が差す、静謐の干潟。水辺に足を降ろせば波紋がどこまでも広がっていくように、風もない。

 永遠から刹那を切り取ったような場所で、ともすれば時間を忘れるような、そんな駅。

「どうして、こんなところにいるんですか」

 少女がぽつりと呟く。

 男は僅かに目線を揺らし、文庫を持つ手が硬くなったが、すぐ柔らかな雰囲気に戻って小さく微笑みを浮かべ、答えた。

「さあ。胸を張ってこれ、と言えるような理由はありません。こんな場所にいるのだから、それはあなたも同じなのでしょう」

 少女は汽車の中にいた人々と同じように、手を組んでじっとそこを見つめている。虚ろな眼差しで、ただ何もかもを諦めたような顔をして、じっと佇んでいる。

 文庫を繰る音が、紙の捲れる音だけが響く。

「あなたは、迷っていますね」

 ふと、男が問うた。

「恐らく、まだ戻れる。そうでしょう?」

 少女は制服のポケットに手を入れると、二枚のチケットを取り出した。一枚は判の突かれた上りのもの、もう一枚は未使用の下りのもの。何の感情も見せず、ただ幽鬼のように二枚の紙切れを持つ少女。男はそれをちらりと見ると、自嘲気味に口を開いた。

「羨ましい、などと軽々しく言ってはいけないのでしょうがね。それで、あなたは戻りたいのですか。戻りたくないのですか」

 少女はその問いに直接答えることはせず、逆に男に問うた。

「ここに来たのに、それでも戻りたいって、あなたはそう思うの?」

 少女の声はどこまでも透明で、暗く、そして小さかった。男は文庫を繰りながら、答える。

「ええ。私は少なくとも、そう思っています。だからいつまで経っても終点まで行けない。……どうしようもないのにね。これを、未練と言うのでしょうか」

 小さく笑う。

「深く詮索はしません。答えにくいこともあるでしょう。あの汽車に乗っていたということはつまりそういうこと(・・・・・・)ですし、戻りたくないというのも当然に理解できます」

 男の目は文庫に向いていたが、特に文字を読んでいる様子は無い。ゆっくりと言葉を選んでいて、それに丁度良いから頁を捲っていた。長い間そうしていたから、癖になっているというのも理由の一つではある。

 だが、口を開いては閉じ、何度もそうして躊躇って、慎重に言葉を紡ぐその様子は、少女からも見えていた。だから彼女も、急いたりすることは無く、男の言葉を待っていた。

「ですが、あなたはまだ若い。迷っているというのなら、戻るべきだ」

「月並みですね」

 少女はそれを一蹴する。男は苦笑した。

「大人というのは、そういうものですよ」

 少し伸びをして、文庫を傍らに置く。夕焼けを見つめ、凝った肩を揉みながら、男は口を開いた。

「星がね、綺麗だったんです」

 少女はぴくりとも反応しない。じっと握った掌を見つめていて、聞いているのかいないのか、それすら判然としない。しかしきっと、聞いているのだろう。男は続ける。

「最期に見た景色ですよ。私は落ちながらそれを見ていて、そのせいで、未だにこんな場所にいる。私にとっては、それだけで未練足り得た」

「つまらない理由ですね」

「そうでしょう。でもね、私は馬鹿だったんですよ。星が綺麗だなんて、その時まで思ったことも無かった」

 凪のように、音が止む。

「思うに、私は生きるのが下手だったんでしょうね。そしてそれは、この駅に来た誰もが同じこと。きっと、そんなに思いつめることなかったんです。気楽に生きていれば、それだけで良かったんですよ」

「……誰もがそうというわけじゃ、ない。気楽に生きることなんて、あんな仕打ちをうけて、私には」

「ああ、少し語弊がありましたね。気楽に、というのは違う。説教臭い話にはなってしまいますが、もっと遠くを見るべきだ、ということです」

 力無く笑って、男は少女を見る。少女は微かに怒りを滲ませた目で、男を薄く睨んでいた。

「あなたがどのような経緯を辿って、ここに来たのか私は知らない。どうしようもないから、知る必要もない。あなたも話したくはないでしょう。でもね、そういうことじゃないんです」

「……というと」

「例えばクソ野郎が自分に喧嘩を売って来たとします」

 少女は少し、毒気を抜かれた。あまり男には似つかわしくない雰囲気の言葉が出てきて、だからその違和感が苛立ちを吹き消した。

「徒党を組んで、ボコボコに殴られて。それが毎日続いたとします。クソ野郎は腕っぷしが強く、抗う術はありません。どうしますか?」

「……逃げる」

「そう。それでいい」

 穏やかな笑み。

「何も変わらない。あらゆる障害からは、自分の意思で逃げることができる。あとはその手段の尺度の問題だ。一番遠くに逃げて来たのが、私たちという訳ですけどね」

 つまり何が言いたいのだ、と少女は目で続きを促す。

「気楽に生きろというのは、もっと適度に逃げればよかったということです。それは如何なる事象にも適用できる。極論、出来る出来ないで言えば何からだって逃げられる」

「……でも、親からは逃げられない」

「逃げられますよ。北極に行きましょう。とても追ってはこられない」

「何を」

「馬鹿な、と言いたいのでしょうがね。こんなところまで逃げて来たのです。今さら極圏に行くくらい、なんだというんですか」

 少女は小さく目を見開いた。握りしめられていた拳は、いつの間にか開かれている。

「普通の人では来られない場所にまで逃げて来て、地球上のどこよりも遠い場所まで来て、そうして無事帰る手段がある。なんだか、何処へでも行けそうな気になってくるでしょう。実際、あなたは何処へでも行ける」

 男は眉尻を下げた。

「……普通の人なら、こんなところまで来なくても気付けるのでしょうがね。やっぱり、そういうところが下手くそだったんですよ、私たちは。それが簡単な道だと妄信して、最も困難な道を突き進んでしまう。生きづらいわけだ」

 喉元まで出かけた反論は、しかし、言葉として紡がれることはなかった。男の言葉は、痛い。どこまでも正しくて、なら、自分の葛藤はなんだったのか、とそう思ってしまう。

 少女も少女なりに、考えてここに来た。それが全て否定されるのはおかしいと、そう思いつつも返す言葉が無い。

 男はそんな少女を見て、人差し指で少し首元を掻いた。

「追いつめられると、人間は手の届く範囲ばかりを見てしまう」

 手を握りしめて膝の上に置き、俯いてみせる。

「そして、そこに縋るべき何かがないと、もはやそれでお終いだ。焦るし、怖くなるし、信じられなくなる。そんな人には、誰も近づきたくなくなる。悪いことは繋がって、まあ有体に言えば、どつぼに嵌るというわけです」

 握った掌を開いて、ふつと笑う。

「苦しいでしょう。逃げたいでしょう。でも、手の届くところに逃げ場がない。都合よく差し伸べられる掌なんか無い。手を取りたくとも取れる手が無い。……だから、最も身近な逃げ道を選ぶ。荒唐無稽などんな道より、ずっと遠いはずなんですけどね。でも、追いつめられると近道に見えてしまう。火事の時、退路を塞がれた人が隣の建物に飛び移るのと似ています。どうにも、人間というのはそのように出来ているようだ」

 夕焼けは、どれだけ時間が経とうとも小動もしない。水面に波は立たず、鏡のように緋を映す。いつまでも変わらない。きっとずっと、この風景は変わらない。

「――だからね。星を見なさい」

 どこまでも穏やかで、静かな微笑と共に、男は少女にそう言った。

「手の届かない遠くを見なさい。荒唐無稽な夢を抱きなさい。近くのあらゆる出来事が、まるでどうでもよいと思えるような、そんな絵空事を描きなさい」

 男は続ける。

「生きている今を見る必要はない。苦しいなら、逃避の中で生きてもいい。目を逸らし、現実を遠ざけ、そうして生きるのも悪いことではないでしょう。誰もあなたを咎めない。ただあなたは、見果てぬ空を想うだけでいい。大事なのは、自分の命が続いているという、そのことたったひとつなのです」

 あなたにはまだ先があるのだから、と、言外にそう付け加えているのが、少女にもわかった。

 汽笛の音が聞こえる。

「おや」

 困ったように眉を下げて、男は地平の果てを見た。

「お迎えですよ」

 下りの汽車だった。

 少女は未だ決心のつかぬまま、遠くに揺らぐ煙を見た。そこにあるのは恐れと、逡巡。握りしめた二枚のチケットを食い入るように見つめて、警笛に急く。

「言ったでしょう、気楽でよいと」

 男の優し気な声が耳に残った。

「思いつめてはいけません。迷いが生じる時、それは往々にして、どちらがよいか既に自分の中で結論が出ています。どちらにも魅力があって、どちらにも欠点がある。恐怖と言い換えてもいい」

 男は深く、ベンチに腰掛け直して、文庫を手に取った。

「恐怖は克することができる。それが大変なのですが、でもね、魅力ほど選択に際して重要ではありません。まあ、何が言いたいかといいますとね」

 文字を読んでいないのに、頁を繰る。

「これと決めたら、突き進みなさい。後悔している暇なんか、きっとその人生(みちゆき)にはありませんよ」

 汽車が停まり、扉が開く。

 少しして警笛が鳴り、扉が閉まって、ゆっくりと車体が動き始めた。

 男が呟く。

「あなたの生に、願わくば幸多からんことを」

 その声を聞くものはいない。ただ、どこか男の声には柔らかなものがあった。その声は、夕焼けの中に溶けて、消えていった。



 ――後日。



「おや?」

 男はふと、この小さな駅に珍しく駅員がいることに気付く。通常この駅は無人で、一人静かに文庫を繰る男の姿しか無いのだが、ときたま駅員がいることがあった。そうした時、駅員は新聞を持っていて、特に対価を払わずともそれらを貰えるのだった。

「ひとつ、いいでしょうか?」

 駅員は無言で新聞を一部手に取り、渡す。男はそれを会釈して受け取り、ベンチに再び腰かけて読み始めた。

 大概は他愛のない記事だ。恐らくは一般に流通しているものと同じものなのだろう、日付を確認しては、もうこれだけの時間が経ったのか、と感慨にふける。世の中の流れ、どこそこの誰が誰誰と結婚した、破局した、不倫した……諸々を丁寧に読み進めて、そうして、その見出しが目に留まった。


『若き才女、宇宙へ行く』


「おやおや」

 そこには一枚の写真が付されていた。とびきりの笑顔を浮かべた、仲間たちと肩を抱き合う一人の日本人女性の写真だった。

 汽車の音が聞こえる。

 上りのものだった。

「……そうですね。随分と長い間、ここにいた」

 男は立ち上がる。駅員から鋏を借りて、その写真を切り取ると、丁寧に折りたたんで文庫に挟み、ベンチに置いた。

「ありがとう」

 その声は夕焼けに溶けて消えた。やがて駅から遠ざかってゆく汽車の、その遠い警笛が、残響となって小さな駅に響く。

 文庫はいつまでも、そこにあった。

 或いは墓標のようでもあるそれは、しかしどこか穏やかに、温かな紅に抱かれていた。

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