現実逃避
『吸血鬼一族は混乱に乗じて逃げたのか?』
『死体はそのままだ。これはオークの襲撃で起こったこととされる』
『村から出ていった形跡はありませんでした。それに、あの死の山に引き寄せられるはずでしょう、あの吸血鬼なら』
吸血鬼め。お前さえいなければ。
お前さえいなければこんなことにはならなかった。
「はっ!」
突然、俺は覚醒した。まるで生き返ったように。
仰向けに眠っていたらしい俺には、青空が藍色に染まって、銀色の三日月が浮かんでいるのが見えた。
綺麗だ。
でもどこかもの悲しい。何かこれまでとは決定的に違った。
その原因を求めて、俺がここで目覚めるまでの、記憶を辿っていく。
脳裏に残酷な光景が鮮明に浮かんだ。
あぁ、そうだった。ここは、地獄なのだ。
あんな残酷なことが起きても空はいつも通り綺麗だ。
この村なんて、俺なんて、取るに足らないこの世界のただの一部分に過ぎないのだ。
そう悟って俺は生を諦めたんだった。
こんな世界生きていてもしょうがないと。
確かあの時俺は首をあの剣で落とされて、この地獄から解放された、はず。
「……なのに、どうして、生きてる?」
仰向けに寝たまま、首に手をやると傷一つなくしっかりと繋がっている。
斬られた傷跡などどこにもなかった。
いや嘘だ、ありえない。
「あれは、全部、俺の夢だったってのか?」
それを口にして、急に希望が見出され始める。
そうか。まだその可能性があった。俺はここで寝ていて、悪い夢を見ていた。
そうに違いない。
さっきから、夕食のいい匂いがしている。
これまで感じたことがないくらいの、その匂いに食欲が唆られる。
俺は立ち上がった。
俺のいる場所は広場だった。夢の中で、俺が死んだ場所。でも、夢だ。
寝起きだからだろうか、視界はぼやけてあまりよく見えない。
ただ、いたるところに鮮度が少し落ちたものの、欲を唆る食料が、あるのが分かった。
腹が減った。
下に落ちてるのでいいや。
ほぼ何も考えず、それを持ち上げる。
そして本能で吸いとろうとしたが寸前、
「吸いとる? 何を?」
と、我に返った。
段々とクリアになっていく視界が捉えたのは、俺に持たれてぐったりとする、既に事切れた村人だ。
串刺しにされて、垂れ流される血を見て、思わず息を呑む。それはこれまでにあまり抱いたことのない未知のもので、言うなれば一一一。
「ぁぁぁあ!」
俺は一瞬で恐ろしい想像を振り払う。叫びながら村人から手を離して後ずさった。
そんな訳のわからないことは後回しだ。
とにかく死体だ。やっぱり死体だ。
あの惨劇はやはり、夢なんかじゃなかった。広場には、俺がさっき見たのと変わらず死体が散らばっている。じゃあ、俺はどうして生きている? あれだけは夢か。
いやそれよりも、どうして俺は死体が散らばっているのに最初気づかなかった。あそこで聖騎士と会った時も、今も、俺は死体の山を見て何を思った。
いい匂いがするとか、食料だとか、俺は一体何を考えている。
きっと……俺は頭がおかしくなったんだ。
こんな惨たらしいものを延々と見せつけられて、俺はおかしくなってしまった。
死にたいと願って首を落とされるリアルな夢を見て、死体から漂う香りをいい匂いだとか思って。
血だ! 血血血血血血血!
抑えきれない激情が、一瞬だけ理性を追い越した。
すぐに今までの俺が戻ってくる。
今のはなんだ? 俺なのか今のは。どうして血を見て俺は歓喜してた?
血血血血血血血血血血血血!血だ! 血!
「うわぁぁぁぁ!」
ただ混乱した。自分の中に、これまで感じたこともなかったどす黒い何かが生まれてしまった。
大きな声で夜の空に叫びながら、俺は走った。
どこかを目指して走ったわけでもない。
ただ辿り着くであろう場所は、なんとなく俺自身が分かっていた。
そこは俺にとっては、目にしたくないものがある場所。でも、目にしないと絶対に死にきれない。
頭がおかしくなっても目にしないといけない。死ぬとしても生きるとしても、見なければならないものだ。とにかく、目にしなくては行けない場所なのだ。
そこに辿り着いて、俺は絶句した。
顔見知りが死んでいるのを見るのは、生まれて初めてだった。胸が締め付けられ、動悸が激しくなる。
一人でも絶望的であろうに、それが何人も同時に目に飛び込んでくる。それは、先の地獄に匹敵した。
目につく転がる死体は、顔見知りばかりだ。
当たり前だ。ここは俺の近所なのだから、ほぼ知り合いに決まっている。きっと彼らもここにいる。
「アルフレッド……ニースおばさん……ヴィーシャ」
一人一人、見つけては名を呼んでいく。誰も返事をしない。血に対する執着を押し込めて、俺は人を探す。
「レイスさん……ボイマン爺さん……」
皆、死んでしまっている。安らかな顔をしているものなど誰一人としていない。突然あんなに無慈悲に無意味に殺されたのだから。失意の中で死んでしまったのだろう。
「ニーナ……ヨウ……ネラ……」
小さい子供までもが、犠牲になっていた。彼らも恐怖に歪み、痛みに苦しんだ顔のまま、動かなくなっていた。
そして、彼らもまた例外でなかった。
「……親父、母さん」
分かってはいたが、目にするとやはり応える。
身体から力が抜けて、座り込んでしまった。
二人は、顔を絶望に歪ませている。
到底、安らかに死ねた、とは解釈できない。
この世界で、安らかに息を引き取るように死ねる者ばかりではないだろう。それは分かっている。仕方のないことなのかもしれないのは分かっている。
でも、涙が溢れ出してきた。
二人は何を思って死んだのだろうか。
あんなにも近かった心の在り処が、もう永久に手の届かない場所に行ってしまった。
もっと話していれば、悲しくなかったのか?
考えていることが全部分かれば悲しくなかったのか?
いや多分そういうことじゃない。
俺はいつでも悲しむ。
突然奪われて悲しまない者はいない。
誰だ? これをやった奴は誰だ?
奴らだ。あの騎士どもだ。
そして、存在するかも分からない吸血鬼だ。夢の中で、俺は騎士に吸血鬼に強く憎悪を抱いた。
今ここでそれらが再燃し始めた。
できれば、この手で騎士も吸血鬼も地獄に落としてやりたい。
でも、……俺には出来ない。
俺は弱い。精神的にも肉体的にも。
あんな強い奴らをどうこう出来るはずがない。
こんな恐ろしい世界で、俺一人で何かが出来るはずがない。
俺には出来ない。
出来ることは、死んで呪うことくらいだ。
俺だって皆と同じなのだ。
何故か死に損なったが、変わらない。無力に死にゆくのだ。
奴らは憎いけれど、それでもどうすることもできない。
死んだ後に、奴らを呪い殺してやる。
強い激情のまま、割れて散乱したガラスに走り寄る。
この勢いのまま死のう。皆のところに行くのだ。できれば死の世界から奴らを呪ってやる。それでいいじゃないか。
ガラスをしっかりと握り、その鋭利な先端を首筋に当てる。冷たい感触が、俺の身を震わせる。
俺の手で死ぬ。
死んでやる。
「親父、母さん、皆、あっちで会おう」
静かにそういうと、覚悟を決めて勢いよくガラスを喉に突き刺した。
瞬間、電撃を走ったような激痛が俺を襲う。
赤く染まった視界に煩いくらい耳鳴りがする。
血が、俺の生命力が、物凄い勢いで外に零れ落ちていく。
苦しい。
でも今だけだ。
死ねばそれもなくなる。
数を数えろ。
1、2、3、4、5……。
もうすぐ解放、さ、れ、る。
朦朧としかける意識の中で、幾多もの声が脳内を巡った。
『僕たちと君は一緒じゃない』
『加害者と被害者』
『そう、あなただったのね』
『騙していたのか? 親である俺たちさえも』
「はっ!?」
それは、俺を糾弾する知り合いの声の数々だった。
思わず、風穴の空いた喉が反応する。
その中には両親の声も含まれていた。そんな言葉聞いたこともないのに、妙にリアルで俺がそれを言われているようだった。どういうことか、俺にはさっぱりだ。
『とぼけたんじゃねえ! もう、分かってんだろ!』
『この吸血鬼がっ!』
『あなたは、私の息子じゃないわ、この化け物っ!」
俺に言ってるのか?
俺が、吸血鬼、だって?
違う。親父も母さんもそんなこと言わない。
そんな言葉遣いじゃない。
言わない、だけれど。
その言葉には実感が伴っていた。
否定……できない。
「なんなんだよ……これ」
目の前で、喉から零れ落ちた血が、意志を持ったように蠢いていた。俺の混乱した意識を表すように、暴れてのたうちまわっている。
血が流れ出さない。血が身体の中に戻っていく。
身体が、血を一滴も失ってたまるかと唸っている。
見るからに化け物だ。正常な人間の血が、こんな風になるか。俺が吸血鬼だと、それを否定したい。
だが目の前の事実が、それを拒む。
おまけにさっきまで無視していた俺の中のどす黒いものたちが、証拠となる。
血の撒き散らされた広場で、二度もいい香りがするという感想を抱いた。
返り血に染まった鎧を美しいと本気で思った。
きっと聖騎士に首を落とされたのは夢じゃない。
俺は死ねなかったのだ。化け物である俺は死ななかった。
『あなたが、ここでのうのうと暮らしていたから、私たちは死んだのよ』
『早くこの村から消えて』
声が、攻撃的に俺を責め立てる。
否定したいのに、否定できない。
これは幻聴なのかもしれないが、彼らは本当にそう思っていたのかもしれない。
一つ紛れもない事実は、
「俺がいたせいで……皆んなは死んだ」
ということか。
俺が聖騎士の言っていた吸血鬼で、そして皆を死に導いた。憎んでいた対象が俺自身だった?
そんな馬鹿な。俺が皆を? 俺が化け物?
『早く、出て行けぇえ!』
「ぁあぁぁぁぁぁぉ!」
違う違う違う違う違う違う違う!
俺のせいじゃない! 俺のせいじゃない!
俺は吸血鬼なんかじゃない!
人間だ! 人間だ!
自分の殻の中に閉じこもって、俺はひたすら走った。
そして、村から逃げた。
序章は主人公が、国を滅ぼそうと覚悟を決めるところまでで、あと三話か四話くらいの予定です。そんなに長くはならないと思いますので、是非!




