2・『ヘラジカ』
「やあ、あいかわらずしけたツラしてるね」
今の仕事場へと向かう俺にそう声を掛けてきたのは、一応は同僚ということになるのだろう、一人の男だった。
俺とは違う、一目で分かるほど上等な生地で誂えた服には、美しくも下品にならない程度の刺繍が施されている。首に下げられたネックレスも小さいながら宝石が輝き、彼のセンスの高さを良く表している。
「お前と違って客当たりを考える必要がないんでな。楽させてもらってるよ」
しけたツラ、と言われて十分思い当たる節しかない俺は、苦笑いを浮かべながらそう答えるしかない。
彼の仕事はいわゆる女衒というやつだ。俺の職場である娼館『煌きの城』付きの女衒なのだが、幸いにもうちの娼館は人手不足どころか満員御礼もいいところで、必死こいて娼婦を探す必要は全くといっていいほどにない。
とはいえ彼の女衒として培った人当たりの良さや話術は貴重だ。普段は客の応対であったりとか、真っ当なクレームへの対応を任されている。
「よしてくれよ、僕としては荒事を処理できる君が羨ましくなるというものさ。こんな腕じゃ、殴ったこっちが怪我をしてしまうしね」
そう言っておどけるように腕を曲げる彼の腕には、力こぶの一つもできていない。女衒をする上で相手に威圧感を与えることは御法度だ、鍛えたくてもそうはいかない。
そう、俺の今の仕事は娼館付きの用心棒。荒事や理不尽なクレームへの、力を用いた対応だ。
ライカンスロープとの戦いの後、元冒険者としての腕を買われた俺はこの娼館に雇われた。いかに義足を用いようとも、片脚を失い、さらに馴染みのパーティメンバーさえ失ってしまった俺では、もはや冒険者を続けることは適わなかったからだ。
「まあ、お互い適材適所というやつだね。今日もお互い頑張るとしようじゃないか」
「ああ、何かあったら呼んでくれ。最近は平和なもんだから暇でかなわん」
「君を呼ぶようなことは僕としては避けたいんだけどね。そうならないようにするのが僕の仕事なわけだし……ああ、そうだ」
今にも手を上げてそこを去ろうとしたとき、彼は何かを思い出したように俺を呼びとめた。
その表情は珍しく苦々しげにゆがんでいる。珍しい、と素直に感じた。彼がここまで感情を露にするのは、たとえ酒に酔っていたとしてもあることじゃない。まして今は完全に素面だというのに。
「『ヘラジカ』が、今朝街に入ったようだよ」
ピキリ、と二人の間の空気が凍りつくような感覚。なるほど、それは確かにそんな顔にもなろうというものだ。
『ヘラジカ』というのは、簡単に言うと要注意人物の一人に付けられた符丁だ。とはいえ、例えばこの街の法を犯しているわけでもなく、また店を出禁になるほどのこともしちゃいない。
店側として勝手に要注意としてマークしているだけの、一般人。だからこそ、タチが悪い。
「わかった。支配人から改めて事情を聞いておく」
しけたツラ、と自分でも十分理解できるほどに不機嫌な表情を隠そうともせずに、俺はそう言って店への道を急ぐ。といっても、もはや店は目と鼻の先だ。
歩いていた路地から、大きな通りへ。娼館通りとさえ呼ばれるほど娼館が立ち並ぶその通りの一角に、それは鎮座している。
『煌きの城』。その名を冠するこの娼館は、正に城という名前に恥じないものだ。
まずは外観。大きく広がる門には、無学な俺では名前も知らないが高名な彫刻家が自らその腕を振るい、神の姿を象った装飾を施している。それ以外にも植物や動物を模した彫刻は細部に亘り精巧で、この門が客には天国への門と呼ばれていることも頷けるというものだ。
娼館本体の建物はそういった彫刻こそないものの、真っ白な石造りの建物は常にピカピカに磨き上げられ、芸術に全く興味のない俺でさえも、初めて見たときには思わず目を奪われたものだ。
外壁には色とりどりの花が飾り付けられ、魔法灯の光を受けてキラキラと輝いているかのように見える。朝露が残っているような時間でもないわけだが、これは光を反射して綺麗に見えるように、うっすらと水を吹きかけているのだとか。
そんな建物の裏へ回り、従業員専用の入り口から中へ入れば、これまた圧倒されるような内装が広がる。
さすがに俺が普段待機しているような場所は別として、客の目に付くような場所は全て赤い絨毯が敷き詰められている。しかもそれがまた上質なもので、靴を履いて歩いても沈み込むような感覚を与えてくるほどだ。
客が娼婦を選ぶ場所であるエントランスには、娼婦が待機するガラス張りのショールームの他に酒や食べ物を出すカウンター、さらには噴水まであるというのだから驚きだ。
俺も冒険者時代にはこの店ではないにせよ娼館を利用したことくらいはある。だがここまで煌びやかに、かつ至れり尽くせりな娼館なんてこの街にしかないだろう。
さすがはパルース、世界一の歓楽街ということだ。
しかしそんな場所には目もくれず、裏の通路を通って一番奥へと俺は進む。元々用心棒なんてものは客に顔を見せてはいけない商売だ、そんな客用の場所になんてこれっぽっちも縁はない。
娼館部分の裏、従業員用の区画の一番奥。重厚な黒い扉には、支配人室、と金文字で彫られている。
何を隠そうこの支配人こそが、あの時ライカンスロープから俺を助けてくれた張本人だ。話せば長くなるのだが、とにかく俺はこの人に頭が上がらない。
「失礼します、支配人」
使い慣れない敬語に鳥肌が立ちそうになるのを必死に抑え、黒い扉を開ける。
室内は店内と打って変わって簡素なものだ。何の変哲もない白い壁、木材の床、そして大きな黒い机。机の上には幾ばくかの書類が積まれているのだが、個人的にはそれさえも絵になる、と思っている。
そしてその机の向こうに座っている、幼い、とすら表現できるほどの背格好をした少年。彼が、この娼館の支配人だ。
「やあ、ライル。今日も元気そうで何よりだ」
俺がこの時間にくるのを予め知っていたかのように、彼、レイリアは俺を見て笑う。その視線だけが、外見とかけ離れた鋭さと深さをもって俺を射抜く。
レイリアの実年齢は誰も知らない。だが見た目どおりの年齢だと思っている奴は、ここで働いている中には一人としていない。それだけの実績と肩書きと実力を、彼は備えている。
「……『ヘラジカ』が、街に来たようで」
命の恩人で、雇い主で、頭が上がらない相手ではあるのだが、レイリアとの会話を俺は非常に苦手としている。
もちろん彼はなんとも思ってはいないのだろうが、こっちが無駄に気を遣うのだ。機嫌を損ねてはいないだろうか、失言をしていないだろうか、と。そうして気を遣っていると、彼は決まって苦笑いを浮かべるのだが、こればかりはどうしようもない。
なにせ『煌きの城支配人』でありながら、世界に10人しかいない『冒険者ギルドSクラス保持者』で、キリセア魔法国にある世界最高峰の魔法学校の『主席卒業者』だ。気を遣うなというほうが無理だろう。
「ああ、そのことか……今回は少し、キナ臭いみたいなんだ。何もないことを祈るけれど、念のため、翌朝から彼女の護衛を頼みたい」
そう言って、やはり苦笑いを浮かべながら、レイリアは俺に紙束を差し出す。それを俺が受け取ると、今すぐに読めと目で催促してくるものだから、慌てて紙面に目を向けると、確かにキナ臭いことが書かれている。
『ヘラジカ』は、その名の通りヘラジカをモチーフにした紋章を掲げる貴族の一員だ。
このパルースはどの国家にも属していないために、その貴族としての威光が十全に発揮されるわけではないのだが、様々な配慮はしなければならない。どの国にも属さない自由の街だが、いや、自由の街だからこそ、無用な軋轢を他国との間に生じさせるのは避けなければならないからだ。
そのお貴族様のなにがそんなに要注意なのかというと、こいつは非常に思い込みが強く、粘着質な性格をしている。自分がこうと思ったならば、当然そうであるべきなのだと、疑う素振りもない。
そんな『ヘラジカ』は数ヶ月前から、うちの娼婦であるアイリスにご執心でよく通っている。アイリスは娼婦としての、ベッドの中での技術はさておくとしても、やけに幸の薄そうな、儚げな雰囲気で好評を博している嬢だ。
『俺が幸せにしてやりたい』という男の庇護欲を掻き立てるのだろうが、それが『ヘラジカ』に見つかってしまったからには少々問題が発生することになる。
『ヘラジカ』は、アイリスを幸せにできるのは僕だけだ、と、ある時からそこいらの酒場で吹聴するようになったらしい。
それだけなら可愛いものなのだが、『ヘラジカ』には前科があるのだ。前科、といってもこれはレイリアが自分の伝手を使って調べた結果考えられる推理に過ぎないものなのだが。
『ヘラジカ』には既に第一夫人がいる。彼女もまた元娼婦なのだが、彼女は当初、『ヘラジカ』に身請けされることを拒んでいたようだ。どんなに大金を積まれても買われたくない、と。
ところがある日、彼女は態度を一変させ、『ヘラジカ』の元へ身請けされ、嫁ぐことを承諾したらしい。身分差に関しては『ヘラジカ』がどうにかしたんだろうが、彼女の心はどうにかできるようなものではない。
熱烈なアプローチでもしたのか、とも考えられたが、『ヘラジカ』は彼女を夫人に迎えて以後も娼婦遊びを控えることはせず遊び歩いている。本当に心から熱烈に夫人を愛しているのなら、そんな行動をとることはないだろう。
そんな『ヘラジカ』がうちに通い始めたことで、レイリアは彼の身辺調査を始めたらしい。その結果、とんでもないことが浮かび上がる。
『ヘラジカ』が商人から買い付けていた品物。それそのものはなんのことはない、薬草や、宝石や、工芸品なのだが……それらをうまく加工し、組み合わせ、いじくると、レイリア曰く、惚れ薬のようなものが出来上がるのだという。
正確には飲んだものの判断力を一時的に奪い、言いなりにする薬らしいが、やり方次第で惚れ薬のような使い方もできるのだという。どちらにせよ、そういう類の薬の製造・使用は禁じられている。『ヘラジカ』が住んでいる国でも、この街でもだ。
だが『ヘラジカ』がその薬を作ったという証拠はない。全てはレイリアの推理であり、本当は違う真実があるのかもしれない。
それでもその可能性がある以上、レイリアも俺も、アイリスを放っておくことなどできるはずもない。
そしてそんな『ヘラジカ』が、また同じような品物を買い付けている、という報告が、手元の紙束には書かれていたのだった。
「頼んだよ、ライル。『今度は』君の手で守ってやって欲しい」
そう、アイリスはあの時、俺だけでは守りきることができなかった、『奪還対象』の彼女なのだから。