登下校
「お荷物はこちらでございます」
バトラーさんが鞄をお嬢様に見せて確認をとると、そのまま俺に持てと渡してくる。仕事だから別にいいんだけどね。
「バトラーには世話をかけますわね」
「いえいえ、滅相もございません。このバトラー、お嬢様に仕えるのが唯一の歓び。ただ、私の男爵位が名目だけでは無く実体が伴うものであったならば……」
バトラーさんは鞄を受け取った俺を一瞥すらせずに深々とお辞儀。
「それではお嬢様、行ってらっしゃいませ」
今日から日常となるであろう、朝の一幕であった。
以前よりも学校に近く、朝に安寿と話す必要もなくなった----というよりは話せなくなった----ので、俺にしては随分と遅い朝、横には驚くべき美少女、鞄持ちとはいえ人によっては羨ましい登校風景だろう。それにもかかわらず、状況に似つかわしくない溜息が漏れた。
「どうか致しまして?」
「いえ! なんでもないです!」
お嬢様に聞かれて焦ってしまった。
とはいえ、不満はある。例えば食事。花代さんの作ってくれる食事は……以前の屋敷での食事と同水準で、要するに美味しくない。問題は朝食である。花代さんは通いらしく、バトラーさんが作ってくれたわけだが、これが酷い。食事を提供してくれるだけでも感謝をしなければならないのだが、あれは食事と呼んでいいのだろうか? だって、かつては卵だった真っ黒い物体だよ? 世の中では炭化物って呼ばれる奴だ。炭水化物から一字少ないだけで大違い。「ふむ、失敗しましたな。馬野に食べさせましょう」じゃないって! 自分達はシチューとゆで卵だしさ。いや、シチューの方は美味しかったし、文句があれば自分で作れって話になるし。完璧超人と思っていたバトラーさんにも意外な欠点が……って思ったけど、前に食べさせられていた豆の水煮も酷かったな。意外とあれも本気で作った料理だったのかもしれない。
だけど、それくらいは別にいいんだ。食べさせて貰えるだけで感謝しなきゃいけないんだし、美少女と食卓を共に出来るんだから。
溜息の原因は別にある。バトラーさんに怒られた。それも尋常な怒られ方じゃなかった。俺が栗林の足を払った事を知ったバトラーさんに「次は首」って言われてしまったのだ。なんでも「この世界は貴族の血とそれに伴う膨大な魔法力で秩序が保たれているのです。今回は三流以下の貴族の子弟で、本人達に爵位がなく、発言力の弱い移民系貴族だから良かったものの、これが大貴族の子弟や爵位持ちの貴族だったらピエール様の横槍があってもどうなったかわかりません。短慮で君が死ぬ分には構いませんが、下手をすればお嬢様にも類が及んだかも知れないのですよ。次からは何があっても手を出してはなりません。気に入らない奴を殴れば自分は気分が良いかもしれません。しかし周りの事を考えなさい」ってことらしい。
それを朝から一時間以上繰り返し注意された。いや、仕方がないのかも知れないけどさ。思い出して再びの溜息。
「前よりも不便かもしれませんが----」
「いや、とんでもないです!」
俺の溜息をそう解釈したのかお嬢様は申し訳けないといった風情である。お嬢様に心配をかけさせないようにしなければ。そう思った朝の通学路であった。
その日は恙なく授業が終わった。ピエールの求婚効果か、食堂の様な人が集まる場所においてもお嬢様にちょっかいをかける者はもとより、噂をするような人すらいなかった。バトラーさんの言う通り、貴族の国だと思い知らされる変化だった。
学校が終わるとお嬢様のお供として荷物をもって校外へと出る。これからの日常のワンシーンであろう。そんな日常を破るかのように二台の馬車が俺達の前に停まった。
一台のドアが開くと中から黒服姿の男たちが出てきた。どこかで見たことがあるプロレスラー体型と思いきや松尾さん達であった。
「こんにちは、お嬢様に何か御用ですか?」
「いや、お前に用があるんだ」
松尾さんがお嬢様を無視して、俺に話しかけてきた。
「俺達はスチュワート様に雇われたんだが、お前も誘ってやろうと思ってな」
今、なんて言ったんだ? 聞き違いでなければスチュワートだったよな? よりによって!
「自由民だから給金も待遇も前に比べて格段にいいぞ」
「嫌です」
お嬢様をこんな目に遭わせたスチュワートに仕えるとかあり得ないだろ。
「なんでだ? どうせ何か理由を付けられてタダ同然で働かされているんだろ?」
図星すぎる。だけど、何でと言われても回答に困る。お嬢様が好き……っていうのは少し違うな。あえて言うのなら……。
「一宿一飯の借りがあるからです」
うん、それで十分だ。
「ほう……優しい先輩の誘いを断るとは馬野も偉くなったものだな」
「自由民ですから」
自由民って何のことか知らないけどさ。
「なるほど、なるほど」
松尾さんが笑顔と共に頷きながら肩を組んできた。俺の成長を認めてくれたのかな? そんな風に思っていると、耳元で囁かれた。
「運が悪くなければ死なねえよ」
同時に腹部に激しい衝撃。思わずしゃがみこむ。なにが起きたのか理解するのに数秒を要した。俺は松尾さんに腹部を殴られたのだ。
「止めなさい!」
お嬢様のつんざくような声が聞こえる。お嬢様を巻き込むのだけは避けなければならない。
「大丈夫です! この程度は何でもないので、下がっていてください」
「馬野もタフになったなぁ。鍛えてやった俺も嬉しいよ」
松尾さんが俺を見下ろしながら笑っている。嫌な予感がする。
「どれくらい鍛えられたのかチェックしてやるよ。おい、お前ら!」
嫌な予感に限って当たるもので、松尾さんの合図と同時に元同僚の黒服に蹴飛ばされた。
その勢いのまま壁にぶつかる。さらに別の黒服に持ち上げられたと思ったら、地面に叩きつけられた。思わず咳き込む。一体、なんだって言うんだよ!
さらなる私刑を覚悟してると、怒鳴り声が聞こえた。
「お前達! 今すぐに止めるんだ!」
声の主はリチャード様で、その横には五月女。少し後ろで安寿が走って追いかけている。
「いや、ですが……」
松尾さん達が戸惑っている横を安寿が走り抜け、俺に駆け寄る。治癒魔法でもかけてくれるのだろう。お嬢様は……うん、無事だ。
「これはこれはリチャード様、当家の者が見苦しい所をお見せしたようで」
もう一台の馬車から一人の紳士が出てくると、リチャード様に挨拶し始めた。