鉢の巣
「村田くん、見たまえよ!」
塗りつぶしたようなピンク色の花弁を、人差し指でなぞりながら狩生は嬉しそうに告げる。
「ヒナゲシの花だぞ、君。もしかしたら恋のはじまりなのかもしれないぞ」
俺は歯牙にもかけず、目の前の積み重なった書類の山との戦いを再開する。
「ヒナゲシの花言葉を知ってるかね。『恋の予感』『豊穣』だ。どうやらこの花の贈り主は君か私のどちらかに恋をしているんだろう」
こうして右手を動かしつづけてどのくらい経つのだろう。人差し指と中指がじんじんする。ふと、小指球のあたりを覗いたら黒鉛で真っ黒になっていた。
「はぁ……」
紙の山に埋もれたスポーツドリンクに手を伸ばす。蒸し暑い中放置していたせいか、自販機から転がり落ちてきたときの冷たさはとうに失われていた。
微かな温もりを帯び、滲み出た水滴があたりの紙束にシミを作っていた。最悪だ。よりにもよって書き終えた書類ばかりじゃないか。せっかく誠意とか魂とか、その他諸々の血とか汗とか涙をこれでもかとばかりに込めて書いた文字がどろどろに溶け落ちている様は見ていて泣きたくなった。
「村田くん、聞いているのか。以前の依頼人の女性の真心の塊だぞ。私と君、どちらに宛てたものなのかは分からないがね。男の君に当てたものならばいざ知らず、もしも女である私に宛てたものなのだとしたら……あぁ!あぁ!」
「あぁ!もう、うるせえなぁ!」
バンッ!と勢いよく机を叩くと紙束が何枚か床に落ちていった。
「ピーチクパーチク、通販の司会みてぇに喋りやがって!ヒナゲシの花言葉にはな、『労わり』や『思いやり』って意味もあるんだよ!暇ならテメーも手伝え!それか帰れ!」
俺は書類の山の一番上の紙を乱暴にめくり、さえずる女のデコのあたりにぐりぐりと押しつけた。
「もとはといえば、テメーが持ってきた面倒事だろーが!なんでその後始末を、部外者の俺がやらされるハメになってんだオラァ!」
「いやいや、村田くん。これだけ多くの紙束が積み重なるほど時間が経っても、君はここに足を運んでくれているじゃないか。君はもう立派な『探偵部の部員』もとい、私の助手なのだよ?いいから私の顔から紙をどけたまえ」
「俺はこんな部に、馴染んだおぼえはねえぞ……!」
「それは困る、君がいなくなればこの部は定員割れを起こしてしまうだろう。それに、随分前の話だが最初に出会ったとき言ったはずだぞ。君の濡れ衣を晴らす代わりに『なんでも一つだけ』言うことをきく、と。その約束を忘れたわけじゃないだろう?」
「う…………」
確かにその通りだ。随分まえの話だが、こいつと出会ったときに、俺は人生を救われている。そのときに、状況が状況だったとはいえなかば強引に約束させられてしまったのだ。「なんでも一つだけ言うことをきく」と。
だがそれはそれ、これはこれ。言うことをきいて一度はこの探偵部とかいうきな臭い部の立ち上げに携わったが、すぐに部室のテーブルに退部届けを叩きつけて帰った。
だが、次の日の朝。学校の机の中には退部届けが覗いていた。次の日も。その次の日も。何度部室に置いて帰っても戻ってきた。
そうして今日に至るまで、何か起こればこうして部室に呼ばれる毎日を送っているわけだ。
「そのときの話を引き合いに出すのはやめろ。仮に、部員になったとしても、書類の束を片づけることまでは約束に含まれてねえ。仕事を強要される筋合いはねえぞ」
「それでも君は『助手』という役職欄にサインをしたじゃないか。それは古来より探偵の手となり足となり、ときには探偵自身を正解へと導いたり、探偵の名推理に慄いたりするものだと理解したうえでのものではなかったのかね?」
そういえば、職員室に創部届けを提出する際、そのようなものにサインをさせられたような気がする……。
そのときは普通は部長、副部長と書くものではないかと指摘したのだが、いわく「私が探偵で君が助手だ。こういうのは形が大事だろう?肩書きだけだから安心しろ」と言っていたのを思い出した。それが蓋を開けてみればこういうことか。
「こ、この詐欺師が……!」
「これで納得したかね。さぁ、作業に戻りたまえ」
と。俺たちがどうこう争っているうちに部室にノックの音が響いた。
狩生は俺の手首を掴んで強引に引き剥がすと、綺麗な装飾の施された白い鉢を差し出して言った。
「それが終わったら、君、この鉢植えにヒナゲシを植え替えておいてくれ」
「な…………!」
自前のスリッパに履き替え、ガラステーブルのアイスコーヒーを一口飲み、来客用のソファーに置かれた雑誌をさっさと片づけると、愛らしい表情でにっこりと微笑んだ。
「久しぶりの客だ」