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第五話


 チェストの中には、数冊の本が収められていた。その中から取り出していたのは、ミドスタン王国を中心とする、惑星ラーグの常識本だった。

 一年を通しての気候の変化、治安や衣服のサイズ表と言った生活と密接な事柄。また、貴族階級のことまで、幅広く纏められている。そうなると、情報は広く浅くとなってしまっているが、それが却って、海外旅行のガイドブックを思わせて、なんだか好ましかった。


 そこから私の注意は、コンコンコン、という、三度の落ち着いたノック音に向けられる。


「どうぞ」

「失礼いたします。ベイツ様がお呼びになっています」

「ありがとうございます、すぐ行けます」


 ノックの主は、ベルさんだった。ベルさんには、昨日今日という短時間にも関わらず、随分世話になっている。


 昨夜のことである。

 私は、夕食が用意されていることなどすっかり忘れていた。そして、年甲斐もなく、派手に泣き喚いた。泣いている内に、バスタブに溢れんばかりの湯が溜まっていたことに気付くと、しゃくり上げながら、拙い手つきで服を脱ぎ散らかすと。衝動的にバスタブに飛び込んだ。

 透明な湯が、浸かった途端に肌に絡みついてくる。ぐしゃぐしゃに汚れた身体と顔を清める。じんわりとした癒しが、無数の毛穴から体内に沁みこんでくるかのようだった。

 だが、なぜだろうか。それが却って、私の虚しさを刺激した。ますます涙が滲んでくるのだ。このままだと、明日は目が腫れてしまう。

 ベイツさんに泣いたことを悟られるのも本意ではないが。それ以上に嫌なのは、鏡に映る自身の顔から弱さを連想させることだった。悲しさを誤魔化すべく、私は、湯の中に頭まで沈めてしまう。


 水中では、心臓の音が大きく聞こえる。胎内音を聞くと赤ん坊が安堵するのと同じような効果があるのか。それが、自身を落ち着かせる。そして何より、呼吸できない苦しみが、絶望を紛らわせるのである。

 息の限界が来ては、酸素を取り込み、再び潜る。これを何度か繰り返していると、浴室に籠ってから、三時間を超過した。そのお陰もあって、心が安定した私は、濡れた身体で室内に戻る。

 清潔なバスタオルで身体を包ませ、ナイトウエアに着替え。床に垂らした水滴を粗方拭き終えた折に、部屋の扉を叩くベルさんがいた。


 何か用があるのかと部屋に招き入れて見ると、手にしていたのは私の食事。時間を忘れて入浴している内に、夕食のピークと思われる時間帯は、とうに過ぎていた。ということは、この食事は、今さっき完成したものではないだろう。

 にも関わらず、盆に置かれたスープは温かだった。湯から上がって一呼吸置いた時、という丁度良いタイミングを見計らって、食事を温め直してくれたのだろう。

 無言の配慮を受けて、感動が胸に広がる。


「――ありがとうございます。頂きます」

「いえ。こちらの洗濯物も、お預かり致します」

「よろしくお願いします」


 ベルさんは、面倒をおくびにも出していない。そして、何一つ、私に対して特別な興味関心を抱いた様子がない。控えめながらも、細やかな配慮を随所に見せる、プロフェッショナルだった。


 誰の家にお世話になるにしても、単に依存はしたくない。どうにか自分に出来る仕事を見つけたいと思っていたのだが、彼女のようにはとてもこなせないだろう。未熟な者が、プロフェッショナルの集まる現場で出しゃばったとしても迷惑なだけである。

 無論、後世を育てることは大切だが、私はそれに該当しない。選択肢が、ひとつ減ってしまった。


 溜息を吐きながら、スープを口に運ぶと。

 口内に広がる、濃厚なクリームとポルチーニに似たキノコの香り。しつこく後に残らないのは、他に使われているサッパリと清涼感のある野菜が利いているのだろう。

 また、ふっくらとしたパンがそのスープと相性抜群で、思わず頬が綻んでしまう美味しさを誇っていた。


 当然のことながら、私が作るそれとは比較にならないほど美味しく上品な味をしていた。ひとつ選択肢が減った、というのは間違いで。私は、選択肢をふたつ失っていたのだった。




 このように。思いの外、私が快適に過ごせているのは、ベルさんの力があるからだった。

 背筋をピンと伸ばして、私をベイツさんのもとへ案内するべく前を歩く姿。それを見ながら思いを馳せていると、知らぬ間に、一度入室した客間に辿り着いていた。


 中へ入ると、ベイツさんはソファにゆったりと座っていた。昨日、あれから仕事を続けていたらしいのに、疲れている様子は全く見受けられない。それどころか、その端正な容姿は一層の磨きをかけているようにも思える。――実際のところは、観察するだけの余裕が私に生まれただけかもしれないが。


「お休みになれましたか?」

「ベイツさんとベルさんのお陰で随分休まりました。ありがとうございます」

「それはよかった。ベルは気が利きますからね、任せた甲斐があります」


 自分の正面の席に座るように言うベイツさんに従ったところで、彼はまず、世間話から入る。

 ミドスタン王国に勤める女中は、誰もが高い能力を持っている。だが、ベルさんは特別優れているようだ。私以外の異世界人の中でも評判であり、それを聞いた貴族からの引き抜きの要望もあったという。


「そういえば、他の異世界人の方と是非お会いしたいのですが――地球基準でも素晴らしい、ベルさんの仕事ぶりについて語り合いたいのです」

「そこまで気に入って下さるとは。ベルが聞いたら喜びます」


 ベルさんを口実にして、当初から考えていたことを提案すると。ベイツさんは、苦笑しながら礼を述べた。私の真意など、見通しているのだろう。


「異世界からの来訪者の多くは、守護される立場にあります。また、情報が守られる場を用意しなければなりません。ですから、直ちにという訳には」

「そうですよね……」

「とはいえ、機会がある際には、ハシバさんにもお声掛け致します」


 過去には、異世界人を守護する貴族が集うこともあったらしい。その際は、異世界人同士が元の世界について語り合う姿も見られたのだそうだ。

 もっとも、行われなくなったということは、そこで有益なモノは生まれず。地球に帰りたいという切実な思いを只々語り合うという、暗鬱とした場になっていたのかもしれない。

 ベイツさんの物言いは柔らかかったが、ニュアンスからいって、会合が開かれる見通しは暗いのであろう。


「他の異世界からの来訪者も、ハシバさんと同じ想いを抱えています。それでも、環境に馴染むにつれてミドスタン王国の人々と心が通じ合い、孤独は癒やされていくようです」

「――そうですね、努力します」


 私が、人と心を通わせることができるのであろうか。心の中に、黒い塊が落ちる音を聞いた。だが、それを見ない振りをして、ベイツさんを安心させるべく、爽やかな笑顔を浮かべた。

 昨日は心のうちが筒抜け状態だった。だが、一日休んだことで、表情筋が回復したのか。ベイツさんの様子を見る限りでは、上手く装えているようだ。


「ハシバさんは、モンセン家に守護されます。モンセン家の当主は、若いながらも賢人で、領民を思いやる人だと評判です。ハシバさんにとっても、良い環境かと」


 かの家の当主は、財政難で没落した貴族の領土を引き継いだ。そこは、酷税が敷かれていたということもあり、領民の生活が窮乏された地だった。

 だが今では、長年管理していた元々の領土と比較しても、遜色ない暮らしぶりを領民はしているらしい。その高い内政能力が評価され、今回の選出にも繋がったのだそうだ。


「数日後にはそのような方とお会いするかと思うと、緊張しますね」

「ハシバさんなら、きっとすぐに溶け込めます」


 何を根拠にして、そうも自信ありげなのか。私には秀でた能力などないのだ。優秀な人間にとっては、勇者という名前がなければ、捨て置かれるような存在だろうに。

 ベイツさんとは対照的に、私は、一抹の不安を抱いていた。


 それでも、ベイツさんの言うような、良好な関係のスタートを切れるよう。ゲストルームに置かれていた本を読破し、少しでも惑星ラーグに関する知識を入れるという努力をすることを心に決めた。






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