6 確かに強さは必要です。でも
伊乃は足早に本社ビル1階のロビーを通り抜ける。そして、エレベーターの前に立って、呼び出しボタンを押した。
エレベーターの扉はすぐに開いた。そして、布団から頭を出して寝ている男が、かっと目を見開いた。
「また来たか」
伊乃は、ずかずかとエレベーターのカゴに上がり込み、男の襟首を掴んだ。
「松原部長が死んだわ」
「人は皆死ぬ」
「あんたのせいよ」
「違う。弱いから死んだのだ」
「あんたが殺した。あんたの罪よ」
「バカバカしい。俺は布団の中で寝ているだけだ。我が国の司法システムは俺の味方をすることだろう。事態なら新聞の三面で推し量らせていただこうかね。布団の中でな」
「司法システムの手をわずらわせることはないわ。私が、二度と布団から出られない身体にしてあげる」
伊乃の掴んだ男のパジャマの襟が、男の首に食い込んでいく。男の顔色が変わる。
「落ち着こう」
「落ち着いているわ」
「話をしようじゃないか」
「そんなまだるっこしい事をするより、あんたを排除した方が、迅速かつ確実かつ満足な結果が得られるのよ」
伊乃は冷たい声で告げた。
この変人に、松原部長の苦しみ全てを味合わせてやる。
男がナイフを持っていれば振ってきただろう。だが、男のナイフは壁に刺さったままだ。男は丸腰だった。
伊乃が場の主導権を握っていた。男は身をよじるが、伊乃は男を放さない。
「……そうだ。その強さだ。いい強さだ。やっと虚飾がなくなった。貴様がこうして、力をつけて戻ってきたというのなら、俺は歓迎しよう」
男は、首を絞められながらも、笑い声の断片を発した。
「貴様の神髄……エッセンスにこの手で触れることができたのだからな!」
伊乃は男が泣いたり命乞いをしたら絞め殺そうと心に決めていたが、男はこの期に及んで強気であった。
……この男、死を恐れていない。伊乃は察した。この男は、エレベーターの中で寝るという行為に命を懸けているのだ。
伊乃は手を離した。男の身体は布団の上に崩れ落ちた。
「なんで、ここに布団を敷いたわけ?」
男は血の混じった痰を吐く。
「54人」
男のぽつりと言う。その声は完全に潰れていた。
「何の人数よ……? 都内にいる、エレベーターの中で寝る変態野郎の数?」
「違う!」
男は凄まじい形相で怒鳴った。それから、がくりと肩を落とすかのような動作をした。男は伊乃に背を向け、布団を頭から被った。
「朝、清掃員がオフィスに入ってきて、何を見つけると思う? 夜食のサンドイッチにかじり付いたまま、冷たくなった社員だ。……徹夜で仕事をしているうちにあの世へ逝っちまうわけだ」
「過労死ね」
伊乃は目を細めた。男の後ろ姿が頷く。
「ソライロ・フォーマスティカル株式会社がこのビルに本社を置いてから、54人がそうして死体で発見された。今日……松原営業部長が加わって……55人になった」
男が布団の下で、激しく肩を震わせた。
もしや、この人、泣いているのではないか?
伊乃は思った。
男が勢いよく振り向く。布団の下の闇で、男の目が光った。
「そうやって死ぬ奴がいる。一方で、どういうわけかタフな人間もいる。莫大な仕事をこなさなければならないにも関わらず、不平を言うわけでもなく、サボりもしなければ、ダレることもない。どんな精神的ショックでも打ちのめされず、一年ぐらい寝ないでいてもビクともしない。要領の悪い奴が過労死する仕事を、淡々とこなしていき、安定した成果を上げ続ける」
男の手が布団から伸びてきて、伊乃の手首をとった。伊乃はぎょっとしたが、男の手は離れない。
「そんな強さが欲しい。貴様の持つような強さが」
「ど……どういうこと?」
「企業の弱点とは何だ? それは、弱さだ」
男は唾棄するような口調で言う。
「弱さ?」
「そうだ。うちのような一流企業は、常に国際社会を相手にきったはったの勝負を続けなければ、存続できない。秩序も道徳もなく、利益を得るためならば何でもやる海外企業に対する終わりない戦いを続けるしかないのだ。大変な労力が必要だ。時には犠牲も出る。これは弱い人間につとまる仕事ではない」
伊乃を掴む男の手に力がこもる。
「社員を奴隷のように扱うブラック企業? 勤務時間外の幸福? そんな、なよなよと弱いことを言う世間の風潮が、我が社を占めるようなことがあっては困るのだ! ……そんな中、貴様は強さを見せてくれた」
男は立ち上がった。布団が男の上から滑り落ちる。
布団の下から現れたのは、パジャマではなく、スーツを完璧に着こなした男だった。
「彦久保伊乃。貴様は合格だ」
男は告げた。
伊乃は目をぱちくりした。
「あんた、一体?」
「俺は、ソライト・フォーマスティカル株式会社の代表取締役だ」
「それが、なんでエレベーターで寝てるのよ?」
「社員を試すためだ。履歴書や、面接、あるいは小論文で人柄が見えるか? 人は極限状態でピンチに置かれなければ、その本質など発揮できないのだ。そして、俺は貴様が本社に相応しいと認めた。単に給料をもらって言われたことをこなす社員ではなく、対等な存在、ビジネスパートナーとして認めたのだ」
男は、伊乃の肩に手を置いた。男の目は伊乃を真っ直ぐ見つめて、離れない。それは厳しい目付きであったが、理不尽な敵意は消えていた。
「今日から、貴様が営業部長だ。その力で、ソレイロ・フォーマスティカルを盛り上げてくれ」
伊乃は状況を完全に理解できていたわけではなかったが、松原部長の後を継ぐよう言われたことは心に響きわたった。
平社員から、営業部長へ。
すごい出世だ。
上気して、伊乃の頬が色づく。
次の瞬間、伊乃の拳が男の鳩尾に食い込んでいた。
「ぐはあっ!」
容赦のない打撃に、男の身がくの字に折れた。
「何を……する!」
「あんたがエレベーターの変人でも、うちの会社の代表取締役様でも、何でもいいけど、試す者は自らも試されないといけない。対等な立場ってそういうものでしょ?」
目を煌めかせながら、伊乃は問う。
男は目を白黒させていたが、どうにか笑い声を漏らした。
「くくく……確かにそうかもしれん。それでこそ俺の見込んだ奴だ!」
「話が早くて助かるわ」
伊乃は男のネクタイを掴むと、男をエレベーターのカゴの外へと放り投げた。男の身はロビーの床を転がった。
男は何事もなかったように起き上がる。
その時だった。
それまで、ずっと強気な表情をたたえていた男の顔が、初めて狼狽に歪んだ。
エレベーターホールの、1Fと書かれた表示を目にしてしまったのだ。
エレベーターを支配し、望むときに高所へ行けた男の権力が、いまや霧散していた。
男はエレベーターの外にいて、伊乃がエレベーターを支配していた。
男の顔は蒼くなり、瞳が揺れ動く。手の届くなくなってしまった高みへの哀悼をどう表せばいいのか分からない様子だった。
「や、やめてくれ……こんな下に取り残されてしまうことはできない! ……俺は上にいたいんだ!」
男が哀願しながら、エレベーターへにじり寄ろうとする。
「強さがほしいんでしょ? 手に入れるチャンスよ。どうにかして、自力で這い上がってごらんなさい」
伊乃は笑いながら言い残して、エレベーターの扉を閉めた。