5 上がり続けるしかないんですね?
明らかに松原部長は空元気を出していたようだ。20階も上がるうちに、ぜえぜえ喘ぎ始めた。尋常ではない呼吸音であった。
階段を一段踏みしめるごとに、松原部長の足が細かく震えている。
「松原部長、少し休みますか?」
伊乃は尋ねるが、
「バカ言うな」
松原部長は言葉を切って、呼吸に専念する。
「ここしばらくの運動不足が祟っただけだ。すぐにいつもの調子が出るはずだ」
そう言って、よろめくように上る。
伊乃の方は、この程度の階段は何ともなかった。生まれついての健脚と優れた肺活量、バイタリティで、すいすい上っていける。
むしろ、松原部長のせいでペースは乱されていた。でも、それを部長に気付かせない程度の気遣いは忘れていなかった。
40階にたどり着く頃には、松原部長の容態は更に悪化していた。彼は左胸を押さえながら、一歩一歩、もがくように上っていく。
目は飛び出そうなほどに見開かれ、口からは泡を吹いていた。
「松原部長! 少し休憩しましょうよ。顔色悪いですよ」
伊乃は言うが、
「な……何を言う」
松原部長は、どうにか喉から言葉を絞り出す。
「なんなら、私が松原部長を負ぶって上りますから」
伊乃は申し出る。松原部長は身を折って、激しく咳こんだ。口から出ている泡が血の色に染まった。そして、勢いよく顔を振り上げる。
「伊乃……ちゃん、僕にもプライドがあるんだ……。上がるぞ!」
松原部長はそう言って、上がり続ける。伊乃は見守ることしかできなかった。
松原部長は、伊乃の恩人で、伊乃よりも二十年以上の長いキャリアを持つ。その松原部長が上れると言うのなら、伊乃はそれに従うしかないのだ。
60階。
松原部長の顔色は、ぞっとすることに、紫と灰色の中間の色になっていた。
医者でなくても、一目見てマズいことが分かるような状態であった。
「松原部長……」
伊乃の声に対して、松原部長は反応しなかった。その余力もないのだ。
ただただ、執念のようなもので、己が体を引きずり上げていく。
手摺りを掴んだ彼の手は血が通っているとは思えない、鉤爪に見えた。喉の奥から死期を悟った獣じみた唸りを漏らして、上る。
決して止まらず、ただ、上る。
そして、松原部長と伊乃は80階にたどり着いた。80Fとかかれた防火扉が二人の前にあった。
長い道のりであったが、やり遂げたのである。
「さすがです、松原部長」
伊乃が涙をこらえた声で祝福した。松原部長は明確な死相の浮かんだ顔で、静かに微笑むだけだった。
「さあ、伊乃ちゃん。その扉を開けて、行くべきと場所へ行くんだ」
そう言って、防火扉に手をかける。
防火扉は開かなかった。鍵がかかっている。
松原部長は完全に停止した。扉に手を当てたまま、動かない。
悟りの色がその目に浮かんだ。
「鍵がない」
松原部長がぽつりと言った。
「はい!?」
「防火扉の鍵は、僕のオフィスの金庫に閉まってある。そして、金庫の鍵は、僕がここに持っている。僕たちはこの扉を開けることができないんだ」
「そんな……」
言うべき言葉が思いつかず、伊乃は肩を落とした。
ここまで上がってきたのに。その労力は報われないと言うのだろうか。どこまで慈悲のない話だ。
あまりに救いが無さ過ぎる。
「……防火扉に鍵がかかっていたら、火災の時にどうするんですか?」
伊乃は泣き笑いのような顔で言う。松原部長は、静かに首を振った。
「人は、破局の訪れるその時まで日常が壊れることを夢想だにしないんだ。日常はいつまでも続くと思うんだ」
「薄い氷のような日常が?」
「そう。薄い氷のような日常が」
伊乃は拳を握りしめ、防火扉に押し当てた。
「こんな扉に行く手を遮られるなんて耐えられません。破れませんかね?」
「そうしたら、ビル火災という誤報が東京中の消防隊に行き渡ってしまうよ。とんでもない騒ぎになって、会社は信用を喪失してしまう。僕はたどり着けなかったんだ。僕は失敗したんだ」
松原部長の声が小さくなっていく。
「僕は弱すぎたんだよ、伊乃ちゃん……」
松原部長は弱々しく微笑んだ。
そして、ばたりと倒れて、息を引き取った。