表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

5 上がり続けるしかないんですね?


 明らかに松原部長は空元気を出していたようだ。20階も上がるうちに、ぜえぜえ喘ぎ始めた。尋常ではない呼吸音であった。

 階段を一段踏みしめるごとに、松原部長の足が細かく震えている。

「松原部長、少し休みますか?」

 伊乃は尋ねるが、

「バカ言うな」

 松原部長は言葉を切って、呼吸に専念する。

「ここしばらくの運動不足が祟っただけだ。すぐにいつもの調子が出るはずだ」

 そう言って、よろめくように上る。

 伊乃の方は、この程度の階段は何ともなかった。生まれついての健脚と優れた肺活量、バイタリティで、すいすい上っていける。

 むしろ、松原部長のせいでペースは乱されていた。でも、それを部長に気付かせない程度の気遣いは忘れていなかった。


 40階にたどり着く頃には、松原部長の容態は更に悪化していた。彼は左胸を押さえながら、一歩一歩、もがくように上っていく。

 目は飛び出そうなほどに見開かれ、口からは泡を吹いていた。

「松原部長! 少し休憩しましょうよ。顔色悪いですよ」

 伊乃は言うが、

「な……何を言う」

 松原部長は、どうにか喉から言葉を絞り出す。

「なんなら、私が松原部長を負ぶって上りますから」

 伊乃は申し出る。松原部長は身を折って、激しく咳こんだ。口から出ている泡が血の色に染まった。そして、勢いよく顔を振り上げる。

「伊乃……ちゃん、僕にもプライドがあるんだ……。上がるぞ!」

 松原部長はそう言って、上がり続ける。伊乃は見守ることしかできなかった。

 松原部長は、伊乃の恩人で、伊乃よりも二十年以上の長いキャリアを持つ。その松原部長が上れると言うのなら、伊乃はそれに従うしかないのだ。


 60階。

 松原部長の顔色は、ぞっとすることに、紫と灰色の中間の色になっていた。

 医者でなくても、一目見てマズいことが分かるような状態であった。

「松原部長……」

 伊乃の声に対して、松原部長は反応しなかった。その余力もないのだ。

 ただただ、執念のようなもので、己が体を引きずり上げていく。

 手摺りを掴んだ彼の手は血が通っているとは思えない、鉤爪に見えた。喉の奥から死期を悟った獣じみた唸りを漏らして、上る。

 決して止まらず、ただ、上る。



 そして、松原部長と伊乃は80階にたどり着いた。80Fとかかれた防火扉が二人の前にあった。

 長い道のりであったが、やり遂げたのである。

「さすがです、松原部長」

 伊乃が涙をこらえた声で祝福した。松原部長は明確な死相の浮かんだ顔で、静かに微笑むだけだった。

「さあ、伊乃ちゃん。その扉を開けて、行くべきと場所へ行くんだ」

 そう言って、防火扉に手をかける。


 防火扉は開かなかった。鍵がかかっている。

 松原部長は完全に停止した。扉に手を当てたまま、動かない。

 悟りの色がその目に浮かんだ。

「鍵がない」

 松原部長がぽつりと言った。

「はい!?」

「防火扉の鍵は、僕のオフィスの金庫に閉まってある。そして、金庫の鍵は、僕がここに持っている。僕たちはこの扉を開けることができないんだ」

「そんな……」

 言うべき言葉が思いつかず、伊乃は肩を落とした。

 ここまで上がってきたのに。その労力は報われないと言うのだろうか。どこまで慈悲のない話だ。

 あまりに救いが無さ過ぎる。

「……防火扉に鍵がかかっていたら、火災の時にどうするんですか?」

 伊乃は泣き笑いのような顔で言う。松原部長は、静かに首を振った。

「人は、破局の訪れるその時まで日常が壊れることを夢想だにしないんだ。日常はいつまでも続くと思うんだ」

「薄い氷のような日常が?」

「そう。薄い氷のような日常が」

 伊乃は拳を握りしめ、防火扉に押し当てた。

「こんな扉に行く手を遮られるなんて耐えられません。破れませんかね?」

「そうしたら、ビル火災という誤報が東京中の消防隊に行き渡ってしまうよ。とんでもない騒ぎになって、会社は信用を喪失してしまう。僕はたどり着けなかったんだ。僕は失敗したんだ」

 松原部長の声が小さくなっていく。

「僕は弱すぎたんだよ、伊乃ちゃん……」

 松原部長は弱々しく微笑んだ。


 そして、ばたりと倒れて、息を引き取った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ