3 この変人どうにかして下さい!
エレベーターの扉を前に、伊乃は立ちつくしていた。
息が荒かった。胸の中で心臓が飛び跳ねている。
男は、恐るべき男だった。エレベーターの床で寝ているので、大したことのない変人だと思っていたが、その正体は手強い変人だった。
気を落ち着かせるために、青いコンビニへ向かい、コーヒーを買う。
「んー。こだわりのエスプレッソ」
コーヒーで一服したおかげで、平常心を取り戻すことができた。伊乃は鞄からスマートフォンを取りだした。
警察を呼ぶのがベストなのだろうが、会社は警官がビルに踏み込んでくることを喜ばないことだろう。
伊乃は、ひとまず80階のオフィスにかけてみた。
「もしもし、彦久保伊乃です」
「伊乃! 遅刻しやがって、てめえ!」
出たのは、人事部長だった。激怒のあまり、人事部長は病気の犬のように息を荒げていた。
「営業部長のお気に入りだからって、調子乗りあがって! 後悔させてやるからな! 覚悟しろよ! 礼文島の工場へ転勤させてやろうか! それとも、ボーナスをマイナスの位にまで下げてやろうか? そしたら、ボーナスの時にてめえは罰金を払うことになるんだぜ! 遅刻するような奴には罰が必要だからな!」
「いや、でも、本社の1階まで来てるんですよ。エレベーターに変な男がいましてーー」
「あー、はいはい。子供が熱出した、電車が止まった、エレベーターに変な人がいる。人事部長をやっていて何万回と聞かされてきた台詞だよ。そんなベタな言い訳でごまかそうたあ、なめられたものだな!」
「本当に変なのがいるんですってば。どうして、このビルにはエレベーターが一つしかないんですか?」
うあああっと、人事部長が苛立ちの雄叫びを発した。
「エレベーターごときで文句を言うモンスター社員にはうんざりだ! 文句があるなら、今すぐ辞めろ! 会社の害め!」
人事部長は電話を叩きつけて切った。
「辞表を届けるにも、80階に行かなきゃいけないんですけど……」
伊乃は電話を鞄に戻しながら呟いた。
エレベーターが一つしかない理由は明白だった。
例えば、1階にいるAさんが80階にいるBさんに会いたいとする。Aさんはエレベーターに乗るだろう。だが、他にエレベーターがあると、Bさんの方でもAさんに会うためエレベーターで1階に向かってしまうかもしれない。
確率的に、エレベーターシャフトが二本あると、必ずすれ違いが生じてしまう。
無論、利益を求める企業に、そんな無駄は許されない。
最近では、欧米の企業でもビルにエレベーターを一つしか設置しないことが主流となりつつある。
よきサラリーマンたるもの、会社にエレベーターが一個しかないことを良しとしなければならないのである。
「じゃあ、私もよきサラリーマンっぽく、相手と取引をしてみようかしらね」
伊乃はエレベーターまで歩いていって、ボタンを押す。扉はすぐに開いた。男が布団の中で眠っていた。
「もしもーし」
伊乃は男に呼びかけた。男がかっと目を開く。
「貴様! 二度ならず三度も!」
男はがばっ、と身を起こす。男のパジャマの下で筋肉が膨らんでいた。
伊乃は相手を刺激しないよう、努めて穏やかな声で、
「ねえ、私はどうしても80階まで行きたいの。助けてくれない? ただで、とは言わないわ。あなたは寝ているだけで稼げるのよ。どう?」
伊乃としては、魅力的な提案をしたつもりだった。しかし、布団の男は、これが非常に気に食わなかったらしい。
ぶちっ、と堪忍袋の緒が切れる音がする。
「地上げする気か、ヤクザめ!」
男は怒声を上げつつ、足で布団を天井にまで蹴り上げた。同時に腹筋で身を跳ね上げた。
「やるならやってみろ! 俺は家を守るためなら、血の最後の一滴まで戦うぞ!」
男は自分の踝に手をやる。ホルスターを装着していて、そこから銀色に輝くものを抜いた。
ナイフだ!
伊乃の背を冷たいものが走る。
伊乃がナイフを避けれたのは、生来の鋭い動体視力と、カフェインで鋭敏化した反射神経のおかげだった。
どんっ、と音をたてて、ナイフは壁に突き刺さった。
切断された伊乃の前髪がはらりと落ちる。
伊乃は後ろに転がるようにして、エレベーターのカゴから脱した。
「どこへ行く! 臆病者め! 戻ってきて戦え!」
男の怒鳴り声が伊乃の身を打った。だが、エレベーターの扉がなめらかに閉まってきて、男の声は聞こえなくなった。