2 エレベーター乗れないんですけど……
伊乃は呆然と、1Fと書かれた案内表示を見つめていた。
「困ったわね」
伊乃は呻いた。
まさか、こんなことになるとは。仕事に関する困難となれば、どのようなものであれ、尋常でない気合いで乗り越えてみせるが、こんな風に職場への道を閉ざされてしまうことは想定していなかった。
腕時計を見ると、九時を過ぎていた。遅刻である。
伊乃の就職しているソライロ・フォーマスティカル株式会社は遅刻に厳しく対処する企業であった。
しかも、本社への転勤初日から遅刻するなんて、プロ意識を疑われてしまうだろう。
人事部長から直々にお叱りがあるかもしれない。
そう思った刹那、
「伊乃おおおおおお! 遅刻しやがってええええ!」
人事部長の怒声が、エレベーターシャフトを通じて80階から反響してきた。
「はあ」
伊乃は溜息をついた。
遅刻してしまうなんて、まったくツイてない。ずっと皆勤だったのに。
まあ、遅刻してしまったことは仕方がない。気を取り直して、本社ビルの1階を見て回った。1階に青いコンビニを見つけたので、コーヒーを買った。
ロビーのベンチに腰掛け、コーヒーを飲む。コーヒーの塗り込めたかのような茶色い味が伊乃に流れ込む。コーヒーの表示を見て、伊乃の目が丸くなった。
「へえ、カロリー・ゼロ? いくらでも飲めちゃうじゃん」
カフェイン摂取によおるインスピレーションのおかげで、過去に聞いた話を思い出した。
本社のエレベーターに関する怪談を耳に挟んだことがあった。
働きすぎ、疲れたサラリーマンが、エレベーターに乗ろうとした際に、足をもつれさせて転んでしまった。そのとき、エレベーターの扉が閉まってきて、彼は扉に頭を潰されて死んだらしい。
先ほどのエレベーターで寝ていた男は、ここで死んだサラリーマンの亡霊なのかもしれない。
「怖いわ。ぶるぶる」
伊乃は震えながらコーヒーを啜った。
だが、考えれば考えるほど、ツッコミどころが湧いてくる。伊乃は、迷信と因習ではなく、経理と統計の時代の女であった。
まず、扉に挟まれて死ぬというのが、よく分からない。
例え、エレベーターの扉に挟まれても、扉はすぐに開いてしまう。どうやって死ねるというのだ。ハンドバッグに頭を挟んで窒息死する方が余程ありそうに思える。
伊乃は立ち上がってコーヒーを捨てると、エレベーターへと歩み寄った。ボタンを押す。エレベーターのカゴは1階で止まっているので、扉はすぐに開いた。
伊乃は腰に手を当て、布団で眠る男を見下ろす。
「どう見てもお化けじゃないわね」
伊乃の声に反応して、男はかっと目を見開いた。
「貴様……。またしても我が眠りを妨げるか。余程、命が惜しくないようだな」
男は、岩が軋るような声で言った。
「だって、エレベーターの中で寝るって非常識でしょ」
「非常識? 非常識だと!?」
男は、ぎりぎりと歯を噛みしめる。そして、ずいっと布団から顔を突き出してきた。
「いいか、ファックヘッド。いいこと教えてやる」
「ファックヘッド?」
「自分が巨大な一枚の氷の上に立っていることを想像しろ。他の人間も、この本社ビルも、東京にある何もかもが一枚の氷に乗っていると想像するんだ」
「何の話?」
「想像しろ!」
男が唾を飛ばして怒鳴る。しぶしぶ、伊乃は万物が氷の上に乗っている光景を想像した。
「したわよ」
「いいか、この氷はな、決して厚くはないんだ。厚さはほんの数ミリだ。その下には何があるか、分かるか? 混沌だ。薄い氷の下には、どろどろとした汚い狂気が渦を巻いている」
男は足でエレベーターのカゴの床を蹴り、話し続ける。
「ちょっとしたことで氷は砕けてしまう。だがな、氷の上にいるおめでたい奴らは、誰も自分が墜ちるなんて事を考えない。一枚の氷の向こうに狂気の世界が広まっていることを夢想だにしない。でも、氷はあっさりと砕けるんだ。テロリストの爆弾や交通事故……ちょっとした圧力で砕けてしまう……そして、元に戻ることはない……決して」
男は下を向いて、低い声でゆっくりと言葉を紡ぐ。エレベーターの中に不吉なオーラが渦巻いた。
伊乃は思わず、男が見つめる先へ目をやってしまう。男の足下、布団の下に黒々と狂気とカオスの世界が広がるのを見てしまった。
「ひっ」
思わず悲鳴が口から漏れて、後ずさった。
男は顔を上げる。
「貴様にとっての圧力は、この俺だ。貴様の氷は砕けたんだ」
男は、悪魔にしか浮かべることのできない笑みを浮かべて続けた。
「現実世界へようこそ」
硬直して、微動だにできない伊乃の前でエレベーターの扉は閉まる。