1 伊乃、本社に転勤しました!
彦久保伊乃は新進気鋭のキャリア・ウーマン。
入社して半年、そのパワーとエネルギーで分社を席巻して周り、あっという間に分社を伊乃色に染め上げた。
ついていけない同期のゆとり世代っ子たちが悲鳴を上げるので、伊乃一人が本社への栄転が決まった。
まこと、向かうところ敵なしである。
そんな伊乃といえども、本社出勤初日とあれば緊張もする。
東京駅八重洲口から出てすぐの所に建つ本社ビルは荘厳な作りであった。アットホームでこぢんまりとした分社とは雰囲気が違った。
入口の回転扉を通り、エントランス・ホールに入る。ホールの天井は天をつくように高く、どこを見ても燻されて煤けたような重厚なカラーで統一されていた。
伊乃は硬い面持ちで、足早にホールを横切っていく。
オフィスのある80階へは、エレベーターで上がるのだ。伊乃はホールの奥にあるエレベーターへと辿り着いた。
ボタンを押すや、滑らかにエレベーターの扉が開く。
「あれ?」
エレベーターは高層ビルに似合った洗練されたデザインのものだった。
エレベーターに問題はない。
問題は、エレベーターのカゴの床に布団が敷かれていることだ。男が布団から頭を突き出して眠っていた。
エレベーターに布団を敷くなんて、非常識な男である。あるいは、本社では、誰もがあまりに忙しいので、エレベーターで上昇する間に仮眠をとるのが通例なのかもしれない。
とにかく、伊乃は上に行かねばならなかった。
「ちょっと、お邪魔しますよっと……」
伊乃はエレベーターの敷居をまたいで、カゴに乗り込もうとした。
「おいっ!」
伊乃は鋭い怒声に飛び上がる。
布団から顔を出した男が怒っていた。
「人の家に入るたぁ、どういう了見だ!」
「……家?」
「家! マイ・ホーム!」
男が怒鳴る。怒りのあまり、顔面の筋肉が痙攣している。
伊乃は、なぜ男に怒られているのか分からない。狼狽した。
「ここ、エレベーターなんですけど……」
「エレベーターである以上に俺の家なのだ!」
「いや、あの、私はここの会社のサラリーマンで、このエレベーターで80階に行かないといけないくて……」
「申し訳ありませんが、セールス・勧誘はお断りしております。サラリーマンだか何だか存じませんが、どうぞ失せやがれ」
男はわざとらしいうやうやしさで述べると、布団から手を伸ばす。そして、エレベーターの制御パネルの閉ボタンを連打した。
「ちょっと乗せてほしいだけで……」
「ごきげんよう」
伊乃の眼前でエレベーターの扉は滑らかに閉まる。おかしな男は見えなくなり、80階への道も閉ざされた。