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ep3 父の遺言

 静寂は、死の前触れのように重く、そして脆かった。

 塔の最上階、円形の執務室には、ただ荒い呼吸音だけがよどんでいた。

 老騎士ローランは、ひしゃげた甲冑の重みに耐えかねたように床へ膝をついている。その背中には、恐怖に震える王女イリアがしがみついていた。

 煤と血。高貴な香油の残り香と、鉄の錆びた臭気。

 それらが混じり合い、滅びゆく王国の「死臭」となって鼻腔を刺す。

 ノアは、その光景をじっと見つめていた。

 窓の外では、依然として王都が燃えている。空を焦がす紅蓮の照り返しが、室内の本棚に長い影を落とし、まるで黒い怪物が踊っているかのような錯覚を抱かせた。

(……記述テクストが、停止している)

 ノアの碧眼には、この空間の時間が、インク溜まりのように粘度を増しているのが視えていた。

 物語の進行が滞っているのではない。

 次のページをめくるための指が、躊躇われているのだ。

 その躊躇いの正体は、父エリアスの背中から立ち昇る、濃密な「決意」のオーラだった。

「……来るぞ」

 ローランが呻くように言った。

 彼は血に濡れた手で、腰の剣柄を握りしめる。だが、その愛剣は半ばから無残に折れ、切っ先を失っていた。

 それでも、老兵は牙を剥く。

 護るべき主君が背にいる限り、肉体が朽ち果てようとも、その魂までは折れていないことを証明するかのように。

 ズゥゥン……ズゥゥン……。

 地の底から響くような振動が、塔の石壁を伝わってきた。

 それは心臓の鼓動ではない。

 蒸気を吐き出し、歯車を軋ませ、無機質な鉄の足で大地を踏みしめる、文明の破壊者の足音だ。

 シュゥゥゥ……!

 突然、窓の外から白い蒸気が噴き上がり、視界を遮った。

 ガラスがビリビリと共振し、本棚の古書が悲鳴を上げるように床へ滑り落ちる。

「帝国の……機甲猟兵イェーガーか」

 エリアスが眼鏡の奥の瞳を細め、冷静に、しかし絶望的な事実を口にした。

 機甲猟兵。

 鉄鋼帝国ドレイクが誇る、星法殺しの兵器。

 ドワーフの技術を略奪し、精霊結晶エーテルコアを強制燃焼させることで得られる高出力で、重厚な鋼鉄の鎧を動かす「蒸気式機甲鎧スチーム・アーマー」。

 それは、人間の筋力では扱えぬ巨大な戦斧を軽々と振り回し、星法障壁ごと兵士を粉砕する、歩く処刑台である。

 ガガガガガッ!

 不快な金属音が鼓膜を裂いた。

 回転するダイヤモンドカッターが、塔の外壁をバターのように削り取っていく音だ。

 美しい石造りの壁に亀裂が走り、そこから無数の亀裂が蜘蛛の巣のように広がっていく。

「壁が……!」

 イリアが悲鳴を上げ、耳を塞いだ。

 ノアの視界において、その破壊は「削除」として映った。

 数百年、風雪に耐えてきた石壁の「堅牢」という記述が、暴力的な黒いインクによって乱雑に塗り潰され、物理的に消失していく。

「あぁ……なんて野蛮な編集エディット……」

 ノアは顔を歪めた。

 そこには美学も、必然性もない。ただ、効率的に障害を取り除くという、冷徹な計算式だけがある。

 ドォォォォン!

 轟音と共に、執務室の扉周辺の壁が爆散した。

 舞い上がる粉塵。飛び散る瓦礫。

 その白煙の向こうから、ぬうっと巨影が現れた。

 身長三メートル近い、鈍色の鉄塊。

 関節部からシューシューと高温の蒸気を噴き出し、頭部にある単眼モノアイのセンサーが、不気味な赤色灯を明滅させている。

 その右腕には、まだ回転を続ける巨大な削岩用カッターが装着されていた。

『――生体反応、確認』

 鉄の腹の底から響くような、無機質な合成音声。

『アルカディア王族、および逃亡幇助者レジスタンス。……星法保護法違反により、これより強制執行パージする』

 問答無用。

 彼らは対話をしに来たのではない。記述を終わらせに来たのだ。

「下がれッ!」

 ローランが咆哮し、折れた剣を構えて前へ出る。

 死に体であるはずの老体に、最後のエーテルが燃え上がる。

「ここは星見の塔! 知の聖域である! 貴様らごとき鉄屑が、土足で踏み入ってよい場所ではないわ!」

 老騎士は地を蹴った。

 目にも止まらぬ速さで懐へ飛び込み、機甲兵の膝関節――装甲の隙間を狙って剣を突き出す。

 達人の一撃。

 だが、

 ガギィン!

 硬質な音が響き、ローランの剣は弾かれた。

 機甲兵は微動だにしない。その装甲は、通常の鉄ではない。ドワーフの秘術で鍛えられた『対魔鋼アンチ・エーテル・スチール』――エーテル干渉を拡散させる特殊な複合装甲だったのだ。

『脅威度、ロー。排除する』

 機甲兵が左腕を振るう。

 丸太のような鋼鉄の腕が、ローランの体を横殴りにした。

 ゴッ、という鈍い音。

 ローランの巨体が枯れ木のように吹き飛び、本棚に激突する。数千冊の本が雪崩のように崩れ落ち、老騎士を埋もれさせた。

「ローラン!」

 エリアスが叫ぶ。

 だが、機甲兵の赤い眼光は、すでに次の標的――イリアとノアを捉えていた。

「……終わりね」

 ノアは、迫りくる鉄の巨人を前にして、不思議なほど冷静だった。

 彼女の脳裏には、無数の「死の記述バッドエンド」が分岐図のように浮かんでいる。

 逃げる? 間に合わない。

 戦う? 勝算はゼロ。

 説得? 相手に聴覚みみはない。

(この章は、ここで打ち切り。……つまらない結末)

 ノアが諦めの吐息と共に瞼を閉じかけた、その時だった。

「――まだだ」

 凛とした声が、絶望を切り裂いた。

 父エリアスだった。

 彼は怯えることなく、機甲兵と娘の間に立ちはだかった。その手には武器はない。

 だが、彼は背後の巨大な天球儀――星々の運行を模した真鍮製の機械仕掛け――へ手を伸ばした。

「ノア、よく見なさい。星は巡る。……道が閉ざされた時こそ、新たな軌道が開かれるのだ」

 エリアスは、天球儀の台座にある特定の星座のレリーフに指をかけた。

 それは「方舟座アーク」。

 大洪水の夜、選ばれし生命を乗せて明日へ渡ったという、神話の星座。

 カチリ。

 小さな音がした瞬間、部屋の床が重々しい音を立てて振動した。

 ゴゴゴゴゴ……!

 執務室の中央、厚い絨毯の下から、隠されていた石の階段が口を開ける。暗黒の地下へと続く、細く、急な螺旋階段。

「……隠し通路?」

 ノアは目を見開いた。

 この塔で生まれ育ち、すべての蔵書を読破した彼女でさえ知らなかった、隠蔽された記述コード

「この塔がただの書庫だと思うか? ここはかつて、星詠みたちが時の権力者から『真実』を守るために築いた、地下迷宮への入り口だ」

 エリアスは早口でまくし立てながら、瓦礫の下から這い出そうとするローランに肩を貸した。

「西の荒野へ抜ける道がある。……ローラン、イリア様を連れて行け。お前の残りの命、ここで散らすには惜しい」

「エ、エリアス……。だが、お前は」

 ローランは血反吐を吐きながら、友の意図を察して顔を歪めた。

 通路は狭い。そして、入り口を開放すれば、敵も追ってくる。

 誰かがここで、内側から鍵をかけ、時間を稼がねばならない。

「私は残る」

 エリアスの声は、静かだった。

 それは自己犠牲の悲壮感ではなく、役割を全うする者の晴れやかな響きを帯びていた。

「お父様!」

 ノアが叫んだ。

 父の背中が、急に遠く感じられた。いつも温かい紅茶を入れてくれた背中。古い本の匂いがする背中。それが今、燃え盛る炎と鋼鉄の怪物を前にして、たった一人の軍隊のように立ちはだかっている。

「来なさい、ノア」

 エリアスは振り向かず、手招きをした。

 ノアが駆け寄ると、彼は懐から一冊の本を取り出した。

 白い革の表紙。タイトルも、著者名もない。

 だが、その本からは、部屋中のどの古書よりも古く、そして重厚な「星の気配」が漂っていた。

「これを」

 父はノアの手を取り、その本を強く押し付けた。

 ずしりとした質量。

 それは単なる紙の束ではない。父が、祖父が、何代にもわたる「星見」たちが命を懸けて守り抜いてきた、歴史の白紙部分。

「お父様、これは……」

「**『白紙の魔導書タブラ・ラサ』**だ。……ノア、世界は書物だと言ったね」

 父の指が、ノアの手を包み込む。

 ごつごつした、インク染みのついた指。

 温かかった。

 それが、父と交わす最後の体温だと、ノアの鋭すぎる感性は理解してしまった。

「今の世界は、ヴァルガスという一人の著者によって、無理やり『終わりのページ』へ書き進められようとしている。……だが、物語は誰か一人のものではない」

 機甲兵が、邪魔な瓦礫を踏み砕きながら迫ってくる。

 蒸気の噴出音が、死神の吐息のように近づく。

 エリアスは娘のサファイア色の瞳を覗き込み、万感の思いを込めて告げた。

「お前のその眼は、悲劇を『読む』ためにあるんじゃない。……いつか、お前自身の言葉で、新しい明日を『書く』ためにあるんだ。この白紙の本を埋めなさい。神のシナリオでも、帝国の検閲でもない。……ノア、お前が見て、感じて、選んだ物語で」

 父エリアスの言葉は、遺言のように重く、そして祈りのように優しく響いた。

 父は、ノアの胸に『白紙の魔導書』を強く押し付けた。

 ずしりとした質量。

 指先から伝わる革の冷たさとは裏腹に、そこには父の体温と、数千年の時を超えて受け継がれてきた「星」の脈動が込められているようだった。

 それは、ただの贈り物ではない。「終わり」の宣告だ。

 ノアの鋭すぎる感性は、この本の重みが「父の命の重み」そのものであることを瞬時に理解してしまった。

「……嫌」

 ノアの手が震えた。彼女は反射的に、押し付けられた本を突き返そうとした。

 これを受け取ってしまえば、父の死という記述フラグが確定してしまう。

「お父様、嫌です……! こんなの、いりません!」

 ノアは叫び、首を激しく振った。亜麻色の髪が乱れる。

 彼女の碧眼には、父の背後に迫る「死の記述」が鮮明に見えていた。

 鋼鉄の巨人から伸びる赤い因果の糸が、父の命の灯火を無慈悲に絡め取ろうとしている。その結末バッドエンドへの恐怖が、彼女を突き動かす。

「そんな記述、私は認めない。書き換えます。私が、星を繋いで……!」

 ノアは魔導書を持ったまま、もう片方の手を虚空へ伸ばした。

 空間に浮かぶ光の点(星)を無理やり結び、物理法則をねじ曲げて、迫りくる鉄塊の『進行』という記述を止めようと試みる。

星法せいほうに頼るな!」

 父の叱責が飛んだ。

 それは、十四年の人生で一度も聞いたことのない、烈火のごとき怒号だった。

 ビクリと、ノアの体がすくむ。

「奇跡を待つな、ノア。星法は万能のペンではない。それは対価を喰らう劇薬だ。……世界を救うのは、空から降る光ではなく、泥の中から立ち上がる人の意志だ」

 エリアスは強くノアの肩を掴むと、その体を隠し通路の闇へ向かって突き飛ばした。

「行けッ!」

 ノアの体が宙に浮く。

 スローモーションのように流れる時間の中で、彼女は見た。

 父が振り返り、たった一人で鋼鉄の怪物に向き合う姿を。

 魔導書も杖も持たない、背中の丸まった初老の学者。

 だが、その背中は、どんな英雄の記述よりも大きく、雄弁に「守護」の二文字を語っていた。

『――排除する』

 機甲猟兵イェーガーの無機質な宣告と共に、巨大な回転カッターが振り下ろされる。

 空気を切り裂く高周波音。

 それは、父の肉体ではなく、父という存在が積み上げてきた「時間」そのものを切断しようとする、野蛮な鉄の爪。

「知識は、自由なる魂のために!」

 エリアスが叫び、両手を広げた。

 詠唱はない。

 彼が発動したのは、星法ですらなかった。

 彼が足元のレバーを引くと、天井に張り巡らされていたパイプが破裂し、塔内に備蓄されていた防腐用の「鯨油げいゆ」が一斉に散布された。

 同時に、崩れ落ちた松明の火が引火する。

 ドォォォォォン!!

 紅蓮の爆炎が、執務室を飲み込んだ。

 敵を倒すためではない。

 この塔に眠る数万冊の知識を、帝国の汚れた手に渡すくらいなら、潔く灰にするという焦土の決断。

 炎の壁が、父の姿をかき消していく。

「お父様――ッ!」

 ノアの絶叫は、爆音にかき消された。

 彼女の体は地下への階段を転がり落ち、それを間一髪でローランが受け止める。

 老騎士は血を吐きながらも、その太い腕でノアとイリアを抱え込み、自身の背中で瓦礫の雨を受け止めた。

「走れ! 振り返るな!」

 ローランが吼える。

 彼は足元の石板を蹴りつけ、入り口の閉鎖機構を作動させた。

 ズズズ……と重い音を立てて、分厚い石の扉がスライドし始める。

 閉まりゆく隙間の向こう。

 燃え盛る炎の中で、父エリアスがこちらを見て、微かに微笑んだのが見えた気がした。

 

 ――生きなさい、私の愛する読者むすめよ。

 ダンッ。

 石扉が完全に閉じられ、世界が断絶された。

 光が消えた。

 音が遠のいた。

 後に残ったのは、鼻を突くカビの臭いと、頭上の遥か彼方で響く、塔が崩壊していく微かな振動だけ。

「…………ぁ」

 ノアは、暗闇の中でへたり込んだ。

 膝が震えて、力が入らない。

 腕の中には、父が無理やり持たせた『白紙の魔導書』があった。

 

 彼女は、それを抱きしめた。

 今度は突き返すためではない。

 失われた父の温もりを、その革表紙の中に必死に探すように。爪が食い込むほど強く、強く抱きしめた。

 涙は出なかった。

 人間は、許容量を超えた喪失を前にすると、感情の処理落ち(フリーズ)を起こすのだと、彼女はどこかの本で読んだことがあった。

 だが、彼女の特殊な眼は、闇の中でも機能し続けていた。

 石扉の隙間から漏れ出る微弱なエーテルの残滓。

 それが、プツリ、プツリと消えていく。

 父という「登場人物」の記述が、世界という書物から完全にロストしたことを、光の消失が冷徹に伝えてくる。

(記述が……終わった)

 ノアの脳裏で、何かが決定的に変わる音がした。

 これまで彼女は、塔という特等席から、世界という物語を安全に「読んで」いるだけの観測者だった。

 悲劇も、喜劇も、ガラスの向こう側の出来事だった。

 だが、今は違う。

 父は死んだ。

 国は滅んだ。

 そして自分は、泥と血と闇にまみれた、出口の見えない地下通路に放り出された。

「……歩けるか、お嬢さん」

 ローランの沈痛な声が、闇に響いた。

 その声には、友を失った悲しみと、それでも残された命を導こうとする鋼の意志が混じっていた。

 イリアは声もなく泣いている。王女の衣擦れの音が、暗闇に虚しく響く。

 ノアは、ゆっくりと顔を上げた。

 暗視の効かないイリアやローランには見えないだろう。

 ノアの瞳――サファイアブルーの虹彩の中で、幾何学的な星図が静かに、しかし激しく回転を始めていた。

 彼女はもう、読者ではない。

 筆を折られるその瞬間まで、この残酷な白紙を埋めなければならない「当事者」なのだ。

「……はい」

 ノアは立ち上がった。

 その声は震えていたが、足取りは確かだった。

 彼女は父の遺した魔導書を胸に抱き、真っ暗な通路の先――微かに漂う風の流れ(エーテルの道筋)を視界に捉える。

「出口へのプロットは、視えます。……行きましょう。物語を、終わらせないために」

 少女は一歩を踏み出した。

 星なき夜の地下迷宮へ。

 五つの星が巡り合う、過酷な運命の荒野へと続く第一歩を。


(第3話 完)

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