ep2 崩落の序曲
窓ガラス越しに見える世界は、毒々しい茜色に染まっていた。
王都アル・レイスを焼く炎は、薪が燃えるそれとは違う。数千年にわたり地脈に蓄積されたエーテルの奔流が一気に解き放たれ、大気そのものを燃料に変えて暴走する、飽和した光の津波だった。
「……綺麗な色。でも、とても悲しい色」
ノアは窓枠に手をかけたまま、動けずにいた。
彼女の視界には、燃え上がる王都の上空に、どす黒い「穴」が開いていくのが見えていた。その穴が、歴史という書物のページを次々と吸い込み、あちら側――虚無の彼方へと消し去っていく。
それは虐殺などという生温かいものではない。もっと根源的な、文明という記述の「抹消」だ。
世界の記述が、悲鳴を上げている。
「ノア、下がりなさい! 窓から離れるんだ!」
父エリアスの鋭い声が、書庫の静寂を破った。
普段は本の虫である父が、見たこともない形相で扉の方へ駆け寄っていく。
直後、塔の入り口にある重厚な樫の扉が、外から激しく叩かれた。
ドォン、ドォン!
ノックではない。それは助けを求める拳の乱打であり、あるいは生存本能の叫びそのものだった。
分厚い木の板の向こうから、苦悶に満ちた叫び声が漏れてくる。
「エリアス! ……いるか!? 私だ、開けてくれ!」
聞き覚えのある、しわがれた、しかし芯のある老人の声。
エリアスが閂を外すと同時に、扉が乱暴に押し開けられた。
途端に、熱風と硝煙の匂い、そして生々しい鉄の錆びたような臭気――血の匂いが、清浄な書庫の中へとなだれ込んできた。
「ハァ……ハァ……ッ!」
転がり込んできたのは、二つの影だった。
一人は、巨木のような体躯の老人。
かつては白銀に輝いていたであろう全身鎧は無残にひしゃげ、煤と泥に塗れている。兜は失われ、雪のような白髪は乱れ、額から流れる鮮血が片目を塞いでいた。
アルカディア王国近衛騎士団長、ローラン・ヴァロア。
この国の武の象徴、「不落の白壁」とも呼ばれた英雄が、今は手負いの獣のように肩で息をしていた。
そして、そのローランが左腕で庇うように抱えていたのは、一人の少女だった。
年齢はノアと同じくらいだろうか。
豪奢なシルクのドレスはあちこちが裂け、レースは黒く焦げている。丁寧に結い上げられていたはずの金の髪は灰にまみれ、その表情は恐怖に凍りつき、魂が抜け落ちた人形のようだった。
「ロ、ローラン様……?」
ノアは呆然と立ち尽くした。
物語の中にしかいなかった登場人物が、いきなり現実の境界線を破って目の前に現れたような衝撃。
だが、ノアの特殊な「眼」が真っ先に捉えたのは、彼らの社会的地位や悲壮感ではなかった。
(記述が……千切れている)
ノアは無意識に、ふらりと彼らに近づいた。
彼女の瞳には、ローランの右肩にある深い切り傷が、肉体の損傷としてではなく、「物語を構成する文字の欠落」として映っていた。
そこにあるべき「皮膚」や「筋肉」という存在の理が、何らかの強力な外圧によって強制的に、焦げた紙片のように失われている。
痛々しい空白。インクを零したような、不条理な断絶。
本来、そこには「護る者としての強靭さ」が記述されていたはずなのに、今は「敗北」という二文字が赤く上書きされている。
「……星の糸が、切れています」
ノアは夢遊病者のように手を伸ばした。
彼女の指先が、ローランの傷口の虚空を彷徨う。
空間に散らばる光の点――「星」を結び、その空白を埋めようとする無意識の衝動。
彼女の指先から、微かな白銀の燐光が糸のように伸びる。それは、破れたページを繕うための、世界で一番繊細な糸。
だが、その指先は震え、光を定着させることはできなかった。
目の前の現実はあまりに重く、質量を持ちすぎていて、今の彼女の未熟な指では「繕う」ことなど不可能だった。
結ぼうとした光の結び目は、ローランの溢れ出る血の熱さに触れた瞬間、パチンと弾けて消えた。
「触れてはならん、お嬢さん!」
ローランが低い声で制し、ノアの手を優しく、しかし拒絶するように遮った。
その瞳は「深い藍色」。幾多の戦場と死を見届けてきた、古井戸のような深さを湛えている。
「この血は穢れている。……それに、もう痛みは感じんよ。老骨には慣れっこだ」
その言葉は強がりではなく、戦士としての凄絶な諦念だった。
自分の痛みよりも、腕の中にある小さな命を守ることだけに全神経が注がれている。
ノアはその「献身」という記述の美しさと、それを無残に切り裂く現実の残酷さに、言葉を失った。
「ローラン……その傷は、一体」
父エリアスが駆け寄り、よろめく騎士の巨体を支えた。
ローランは苦渋に満ちた顔で、窓の外、燃え盛る王都を振り返った。
その視線には、守りきれなかった主君と、崩れ去った祖国への慟哭が込められている。
「陛下は……守れなかった。王都の絶対防御結界が、内側から破られるとはな」
ローランは血の泡を吐きながら、憎悪のこもった声で告げた。
「……ヴィンスの奴、いや、ヴァルガス皇帝は、最初からこの国の『心臓』を知っていたのだ。奴は……我々が油断していた隙に、最も脆い頁へ火を放った」
ヴィンス。
その名が出た瞬間、エリアスの顔に痛ましい影が落ちた。
かつてこの塔で、身分を隠して学んでいた異国の少年。ノアも幼心に覚えている、本棚の陰で膝を抱えていた、黒髪の静かな青年。
彼が、あの炎を放ったというのか。
共に星を読み、歴史を語らったあの少年が、師であるエリアスの故郷を灰に変えたというのか。
「う……あぅ……」
ローランの腕の中で、少女――イリア王女が小さく呻いた。
彼女は自分の足で立つこともできず、ただガタガタと震えながら、虚ろな目で床の一点を見つめていた。
その視線の先には何もない。けれど、彼女の網膜には、父である王が瓦礫の下敷きになり、母である王妃が炎に巻かれた瞬間の映像が、永遠に焼き付いているのだろう。
ノアはイリアを見た。
王女の首元には、砕けた精霊結晶のペンダントがぶら下がっていた。
かつては国宝級の輝きを放っていたであろうその青い石は、今は燃えカスのように黒ずみ、死んだ昆虫のように光を失っている。
(彼女の記述も、めちゃくちゃだわ)
ノアは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
イリアという存在を形作っていた「幸福」「高貴」「未来」といった輝かしい記述が、黒いインクで乱暴に塗りつぶされている。
まるで、誰かが悪意を持って書き殴った草稿のように、彼女の人生は寸断されていた。
文章として読むにはあまりに乱雑で、救いのない悲劇の描写。
「……ひどい」
ノアの口から、本音が漏れた。
それは同情というよりは、崩れた物語に対する純粋な嘆きに近かった。彼女にとって、世界の崩壊は「悪い筋書き」として認識されてしまうのだ。
「……構成が、乱雑すぎます。伏線なき崩壊は、三流の悲劇です。……正しい物語なら、ここで奇跡が起きて、均衡が保たれるはずなのに。どうして、次のページが白紙のままなの?」
その言葉に、イリアが弾かれたように顔を上げた。
涙と煤で汚れた顔。しかし、その瞳には王族としての矜持の欠片と、理解できないものへの激しい拒絶が宿っていた。
「物語……? 貴女、これが……物語に見えるの……?」
掠れた声。それは非難であり、同時に恐怖でもあった。
目の前で肉親が焼かれ、国が滅んだ地獄を、この少女は「本のページ」だと言ったのだ。
イリアは、ノアの透明すぎる瞳を見て、本能的な悪寒を感じた。この子は、人の死を「読んで」いるだけだ、と。
「お父様もお母様も、みんな燃えてしまったのよ! 私の国が、民が、死んだの! 熱かったの、痛かったの! それを……インクの染みみたいに言わないで!」
イリアの絶叫が、石造りの塔に反響する。
ノアは息を呑んで一歩後ずさった。
イリアの言葉は、熱を持った刃のようにノアの胸を刺した。
「記述」ではない。そこにあるのは、ノアが古書の中では一度も触れたことのない、生々しく、熱く、そしてどうしようもなく痛い「現実」の感情だった。
「イリア様、落ち着いてください。彼女に悪気はないのです」
ローランが王女をなだめるが、イリアの震えは止まらない。
ノアは何も言い返せず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
自分は、世界を見ているつもりでいた。
誰よりも深く、理を理解しているつもりでいた。
けれど、目の前で流れる涙の熱さひとつ、記述することはできない。
その無力感が、ノアの心に小さな棘として突き刺さる。
「……来るぞ」
不意に、ローランが低く唸り、剣の柄に手をかけた。
塔の外、断崖の下から、不気味な蒸気の排気音と、重い歯車の駆動音が響き始めていた。
風に乗って聞こえるのは、魔法の静寂を踏み砕く、鉄の足音。
それは、物語を強制的に終わらせるために派遣された、慈悲なき検閲官の足音だった。
(第2話 完)




