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ep12 人の煙

西へ。


星の加護を失い、完全に枯渇した死帯の歩みは、三人の肉体を確実かつ無慈悲に削り取っていた。


乾いた灰の風が吹き荒れる中、歩を進めるごとに喉の渇きは鋭い痛みへと変わり、ひび割れた唇からは血が滲む。

王都アル・レイスを脱出してから、すでに丸一日以上が経過していた。

手持ちの水も食料もなく、星法による恩恵も一切受けられないこの環境は、もはや生存の限界をとうに超えている。


「……はぁ……、はぁ……」


イリアの息遣いは、砂を噛むように荒く、重かった。


引きちぎったドレスの裾からは、傷だらけの白い足が覗いているが、その歩みは限界を迎えた機械のようにぎこちない。何度もよろめき、その度に倒れまいと必死に岩肌にすがりつく。


「イリア様、無理はなさらぬよう……少し、日陰で休みましょう」


ローランが、気遣わしげに声をかけた。

だが、その老騎士自身もまた、満身創痍であった。ノアによって関節を入れ直されたとはいえ、左肩はだらりと垂れ下がり、脇腹に巻かれた止血用の布は赤黒く変色している。巨体を支える折れた剣の震えが、彼の体力の底が見え始めていることを物語っていた。


「私は……大丈夫よ……」


イリアは強がりを口にしながら、乾ききった唇を舐めた。


「ここで休んでも、水が湧いてくるわけじゃないわ。……少しでも、西へ進まないと」


ノアは、そんな二人の様子を黙って見つめていた。

彼女自身も激しい疲労と渇きを感じてはいたが、そのサファイアブルーの瞳は、決して絶望に濁ることはなかった。

彼女は歩きながら、常に視界の星図を回転させ、足元の地盤の強度や、風の抵抗が最も少ない「効率的な道筋」を弾き出し、一歩一歩の無駄な体力の消耗を極限まで抑えていたのだ。


ふと、先頭を歩いていたノアが足を止めた。

彼女の碧眼が、灰色の濃淡しか存在しないはずの世界に、明らかな「異物」を捉えたからだ。


「……光の線の乱れです」


ノアが、西の空を指差して言った。


「あの稜線の向こう。……大気のかたちを乱す、不自然な気流が発生しています」


イリアとローランが、目を細めてその方角を見つめる。

鉛色の空を背景にして、ごくわずかに、細い黒い筋が空へ向かって立ち昇っているのが見えた。

それは、王都を焼いたような破壊の爆炎でも、星被アストラ・ステインが放つ濁った光でもない。


「煙……? ただの、薪が燃える煙ですな」


ローランの藍色の瞳が、驚きに見開かれた。


「薪を燃やしているということは……人がいるのか!?」


イリアの顔に、ぱっと希望の光が差した。

水があるかもしれない。怪我の手当てができるかもしれない。この地獄のような荒野で、生きている人間と出会えるかもしれないという期待が、彼女の表情に一筋の活力を与えたのだ。


「行きましょう、ローラン! あそこなら、きっと助けが……」


「お待ちください、イリア様」


駆け出そうとする王女の肩を、ローランの大きな手が重く引き留めた。

だが、ノアの目から見た老騎士の顔には、安堵の表情は全く浮かんでいなかった。むしろ、先ほど星被と対峙した時よりも、さらに厳しい緊張が走っている。


「ローラン……?」


「ここは死帯です。星の光が届かず、神の加護から見放された場所……。そんな場所で生き延びている人間が、見返りもなく我々に水や食料を与えてくれるなどという『甘いおとぎ話』を、ゆめゆめ信じてはなりません」


ローランの言葉は、イリアの希望を冷や水のように打ち砕いたのだろう。


「人間は、エーテルの光に守られている間は高潔に振る舞えます。だが、すべてを失った時、最初に飢え死にするのは『道徳』と『理性』です。……あそこにいるのは、言葉を話す獣かもしれない」


「獣……」


イリアはゴクリと唾を飲み込み、不安げにノアの方を見た。


ノアは無言のまま、再び瞳の中で星図を回転させていた。

その黒い煙が立ち昇る方向――深くえぐられた谷底のような地形の中に、微弱だが確かな無数の「命の光」が密集しているのが視える。

だが、その光と光を結ぶ「集団の繋がり」は、王都アル・レイスで見たような整然とした調和の形をしていなかった。


(……歪で、醜い結び目です)


ノアは心の中で分析した。


星被のように、個体の構造そのものが狂っているわけではない。彼らは間違いなく、ただの人間だ。

だが、彼らが形成している集団の繋がりは、恐怖と猜疑心、そして圧倒的な利己心によって無秩序に絡み合い、いつ崩壊してもおかしくないほどギリギリのバランスで保たれていた。


「……ローランの言う通りです。美しい形ではありません」


ノアは、腰の『白紙の魔導書』に軽く触れながら言った。


「ですが、ここを迂回する体力は、もう私たちには残されていません。……接触するしか、道はないでしょう」


三人は警戒を最大限に高めながら、黒い煙の上がる谷底へと慎重に足を踏み入れた。


急な斜面を下った先、枯れ果てた川床の跡地に、その「野営地」は存在した。

雨風を凌ぐためか、岩の隙間にボロボロの布や獣の皮を張り合わせただけの粗末なテントが、無秩序にいくつも身を寄せ合っている。

王都の美しさとは対極にある、ただ「生き延びること」だけを目的に作られた、薄汚れた吹き溜まり。


周辺の燃え尽きた村や町から逃げてきた難民たちの集落なのだろう。

悪臭と、病人の咳き込む音、そして乾いた灰の匂いが混ざり合い、息を吸うだけで肺が重くなるような空間だった。


「……止まれ」


突然、岩陰から現れた数人の男たちが、三人の行く手を遮った。

彼らの手には、星法を行使するための杖はない。代わりに握られているのは、赤錆の浮いたなたや、先を尖らせた鉄パイプ、血のこびりついた木棍といった、純粋で野蛮な凶器だった。


男たちの目は、窪み、濁っていた。

だが、イリアとローランの姿を認めた瞬間、その瞳の奥にギラリとした飢餓の光が灯った。


「見ない顔だな……。どこから来た」


リーダー格らしき、顔に深い傷跡のある男が一歩前に出た。

彼の視線は、三人の顔ではなく、露骨に「値踏み」をするように彼らの装備へと向けられている。


ローランが身につけている、砕けてはいるものの純度の高い白銀の甲冑。

ノアの腰に提げられた、立派な装丁の『白紙の魔導書』。

そして何より――イリアが握りしめている、今は光を失っていても、細工の美しさが際立つ王家のペンダントへ。


「私たちは……」


イリアが名乗ろうとした瞬間、ローランがスッと前に出て、彼女を背中で庇った。


「西を目指す旅の者だ。水と、少しの食料を分けてほしい。……もちろん、ただとは言わん」


ローランは、懐から金貨を数枚取り出し、男の足元に投げた。

アルカディア王国の刻印が入った、純金の貨幣。平時であれば、一ヶ月は遊んで暮らせるほどの価値がある。


だが、男は足元の金貨を、汚物でも見るかのように一瞥しただけで、鼻で笑った。


「金貨ぁ? そんな硬いモン、ここでは何の役にも立たねえんだよ、爺さん」


男は錆びた鉈を肩に担ぎ直し、舌なめずりをした。


「水が欲しけりゃ、もっと『実用的なモン』を置いていきな。……その立派な鎧と、小娘たちが着てる上等な服、それから……その首にぶら下げてる、光の消えた石ころだ」


明確な敵意。そして略奪の宣言。

周囲の岩陰からも、さらに数人の男たちがじりじりと距離を詰めてくる。


星のエーテルを失い、星法を使えなくなった「ただの人間」たちが、生き残るために選んだ最も醜く、最も直接的な手段――暴力。


ノアは、この泥にまみれた人間の業を前にしても、やはり表情を動かさなかった。

ただ、冷徹な碧眼の中で星図を回転させ、眼前の男たちが形作る「暴力の軌道」の脆さを、静かに計算し始めていた。


「馬鹿な真似はやめろ」


ローランは低く凄みのある声で警告し、折れた剣の柄に手をかけた。


「痛手を負っているとはいえ、素人の貴様ら数人に後れを取る私ではない。無駄な血を流したくなければ、道を空けろ」


それはハッタリではなかった。ローランの身から発せられる重く冷たい圧力は、長年戦場を渡り歩いてきた騎士だけが放つ本物の殺気であると、ノアにもはっきりと感じ取れた。

男たちの中に、一瞬の怯えが走る。


しかし、絶望と飢えに追い詰められた彼らには、もはや合理的な判断力など残されていないのは明らかだった。


「へっ、ハッタリかましてんじゃねえぞ、半死半生の爺さんが!」


リーダー格の男が叫び、鉈を振りかぶった。それを合図に、周囲の男たちも一斉に三人に襲いかかろうと足を踏み出す。


「ローラン!」


イリアが悲鳴を上げた。

老騎士が剣を抜こうと肩を動かした瞬間、その顔が苦痛に歪む。外れかけていた関節が悲鳴を上げ、動きがコンマ数秒遅れた。

その致命的な隙に、男の鉈がローランの頭上へと振り下ろされようとしていた。


だが。


「……観測、終了」


涼やかな、そしてひどく無機質な少女の声が、谷底の乾燥した空気を切り裂いた。


ノアは、虚空に向かってすっと右手の指先を伸ばした。

彼女の指先が、青白い星の光を帯びて微かに瞬く。

死帯であっても、彼女の圧倒的な集中力と『熱』は、空間に残留するわずかな星屑を強制的に結び合わせる。


「第一点から第二点へ。……力の結び目を繋ぎ換え」


ヒュンッ、と。


ノアの指先が、空中で一本の短い「斜線」を引いた。

それは、振り下ろされる鉈の軌道に対して、極めて不自然な角度で交差する見えない幾何学の線。


直後、信じられない現象が起きた。


「ぐっ、うぉぁ!?」


リーダー格の男が、奇妙な叫び声を上げて大きく体勢を崩したのだ。


彼が力任せに振り下ろしたはずの鉈は、ノアの描いた「軌道」に触れた瞬間、その暴力の向きを強引に捻じ曲げられた。

鉈はローランに向かうのではなく、男自身の右膝をめがけて、まるで磁石に吸い寄せられるように凄まじい速度で落ちていったのだ。


ゴスッ! という鈍い音と、骨の砕ける嫌な音が響いた。


「ぎゃぁぁぁぁぁぁッ!!」


男は自らが振り下ろした鉈によって自身の膝を深々と叩き割り、血しぶきを上げながら地面に転げ回った。


「な、なんだ!?」「何が起きた!?」


周囲から襲いかかろうとしていた男たちの足が、一斉に止まった。

星法が使えないはずのこの死帯で、突然リーダーが自滅した異常な光景。彼らの濁った瞳に、得体の知れない恐怖が浮かび上がる。


ノアは、血だまりの中でのたうち回る男を見下ろしながら、冷ややかな声で言った。


「貴方たちの構成する暴力の形は、あまりにも重心が前方に偏りすぎています。……ほんの少し、力の線をズラしてあげるだけで、その塊は容易く自壊するのです」


彼女の碧眼が、周囲を取り囲む男たちをゆっくりと見回す。

そのサファイアブルーの瞳の中で、金色の星図がチリチリと回転しているのを、男たちは確かに見たのだろう。


それは、彼らがかつて知っていた、優しく温かい星法の光ではない。

人間という存在を、ただの計算式や幾何学の図形としてしか見ていない、異次元の捕食者の目だった。


「ひ、ひぃッ……!」


男たちの一人が、鉄パイプを放り出して後ずさった。


「ば、化け物だ! 星法は使えないはずなのに……ッ!」


「化け物ではありません。私はただ、乱れた因果を整頓しているだけです」


ノアは一歩、前へ出た。

それだけで、屈強な男たちが一斉に悲鳴を上げて道を開けた。


「水と、三日分の食料を出しなさい。……それだけ置いていけば、貴方たちのひどく醜い結び目(命)は、そのままにしておいてあげます」


交渉ですらない、絶対的な命令。


男たちは震え上がりながら、自分たちのテントに逃げ込み、貴重なはずの革袋に入った水と、乾燥した獣の肉をかき集めてノアの足元に投げ出した。

そして、蜘蛛の子を散らすように岩陰へと逃げ去っていく。


後に残されたのは、血の匂いと、イリアの荒い息遣いだけだった。


「……これで、少しは歩けますね」


ノアは何事もなかったかのように、足元に転がった水袋を拾い上げ、イリアへと差し出した。


イリアは、震える手でそれを受け取った。

水を受け取る彼女の表情は、命を繋ぐものを手にした歓喜よりも、得体の知れないものへの恐怖に強張っていた。


先ほどまで命を奪い合おうとしていた人間たちを、ノアは星被と同じように、一切の感情を交えずに「排除」したのだ。


(この子は……本当に、人間なの……?)


灰色の空を背にして立つノアの横顔を見つめるイリアの瞳には、そんな疑念すら浮かんでいるように見えた。


「……行きましょう。彼らの『煙』が、また余計な厄災を呼ぶ前に」


ローランが、痛む肩を押さえながら促した。


三人は、略奪と恐怖によって作られた吹き溜まりの野営地を背にし、再び灰色の荒野へと歩みを進める。


星の加護を失い、人間が獣へと堕ちていく世界。

そんな醜悪な現実の中にあっても、ノアの瞳に映る星図だけは、狂わずに美しい幾何学を求め続けていた。


彼女が『白紙の魔導書』に次のページを綴るための過酷な旅は、まだ始まったばかりだった。


(第2章 完)


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