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ep10 渇きの正体

狂乱の嵐が去り、再び「死帯ヴォイド」特有の、音を吸い込むような静寂が戻ってきた。


空からは相変わらず、灰色の雪がハラリ、ハラリと舞い落ちている。

先ほどまで大地を震わせていた四体の怪物――星被アストラ・ステインたちは、今やただの黒ずんだ鉱物の破片と、風に紛れて消えゆく乾いた灰に成り果てていた。


「……ッ、ぐぅ……」


呻き声が、薄い空気を震わせた。

砂埃の中から、血まみれの巨体がゆっくりと身を起こそうとする。ローランだ。

彼は折れた愛剣を杖代わりに立ち上がろうとしたが、脱臼した左肩と、肉が裂けた脇腹の激痛に顔を歪め、再び片膝をついた。


「動かないでください。光の結び目が、さらに千切れます」


淡々とした声とともに、ノアが老騎士のそばにしゃがみ込んだ。

彼女の顔には、死闘を生き延びた歓喜も、疲労の色も浮かんでいない。ただ、目前の「壊れた形」を修復しようとする職人のような、冷ややかな知性だけがあった。


「……ノア。そなた、本当に……」


ローランが青ざめた顔で何かを言いかけたが、ノアはそれを手で制した。


「今は、口を開くよりも呼吸を。……少し、痛みますよ」


ノアの碧眼の中で、再び金色の星図アストロラーベが微かに回転する。

彼女が見ているのは、ローランの生々しい傷口ではない。骨格と筋肉、血管が織りなす「人体の幾何学」だ。


星被たちの暴力によって無惨にねじ曲げられたその星図を、彼女は視覚の中で正確に読み解いていく。


(肩甲骨の座標ズレ、約三センチ。……ここです)


ノアは、自身の細い両手を、ローランの分厚い左肩に添えた。

そして、星の軌道を修正するような、無駄のない正確な角度と力加減で、その巨体の腕をグンと押し込んだ。


ゴキッ!


鈍い軟骨の音が鳴り、外れていた関節が正しい位置へと収まる。


「ごふッ……!」


ローランが白目を剥き、痛みに巨大な体をビクンと痙攣させた。


だが、ノアは躊躇しない。彼女は書記官用ベストのポケットから、いつも持ち歩いている修復用の「針と糸」、そして清潔な布を取り出した。

星法が使えないこの枯渇した大地では、光の線ではなく、物理的な糸で千切れた身体を縫い合わせるしかない。


ノアの手つきは、見事なものだった。

古い書物の破れたページを繕うように、彼女はローランの脇腹の傷口に布を当て、手早く、そして極めて冷徹に圧迫止血を施していく。


そこには、老人が痛みに苦しむことへの「同情」も「躊躇い」も存在しなかった。


数メートル離れた場所で、腰を抜かしたままその光景を見つめているイリアの肩が、小刻みに震えていた。

泥と灰にまみれた王女は、ノアの横顔を、まるで得体の知れない化け物でも見るかのように怯えた目で見つめている。


人がひどい怪我をして血を流しているのに、顔色一つ変えずに手当てをするノアの冷徹さが、彼女には恐ろしいのだろう。

あるいは、先ほどの戦闘の結末――ノアが指先一つで、一切の感傷も交えずに怪物たちの命の糸を切った、あの静かな殺戮の光景が、まだ彼女の脳裏に焼き付いているのかもしれない。


「……怖くないの?」


イリアの口から、ポツリと、問いが漏れた。

自分でも気づかないうちに発していた、風の音にかき消されそうなほど小さな声。


ノアの手が、ピタリと止まった。

ローランの傷口を縛る、最後の結び目を作り終えたところだった。


「何が、ですか?」


ノアは、血で汚れた指先を布で拭いながら、振り返りもせずに訊き返した。

その声の抑揚のなさが、限界まで張り詰めていたイリアの神経を、さらに逆撫でする。


「……人が死んだのよ。私たちだって、殺されるところだったのよ。なのに貴女は……手が震えたりしないの?」


イリアの声が、次第に熱を帯び、震え出した。

死の恐怖の余韻と、理解の及ばないノアという存在に対する生理的な嫌悪感が混ざり合っているのが、その声音からもはっきりと読み取れる。


「あの男たちだって……元は人間だったんでしょう? 言葉の欠片を喋っていたわ。何かを求めて、苦しんでいたわ。それを……あんな……指先一つで命の糸を切るなんて……まるで、壊れたおもちゃを捨てるみたいに……ッ!」


イリアの叫びが、灰色の空間に空しく響き渡る。

命の重さを知る者としての、そして「人間」としての、悲痛な糾弾だった。


しかし、ノアはゆっくりと立ち上がると、イリアの方へ向き直り、静かに首を振った。


「おもちゃではありません。……彼らの苦痛は、本物でしたから」


ノアの視界で、空間の星図がわずかに悲しげな明滅を見せた。


「イリア様。貴女は、私が彼らを『ゴミを掃除するように殺した』と思っているのですね。……違います。私は、彼らの命の暴走を止めただけです」


「言葉遊びよ、そんなの……!」


「いいえ、事実です」


ノアは、灰に覆われた地面――先ほどまで星被が倒れていた場所に視線を落とした。


「彼らを殺したのは私ではありません。彼らの胸に埋め込まれ、その魂を無限に搾取し続けていた『星の渇き』です。私はただ……その果てしない拷問の時間を、強制的に終わらせたに過ぎません」


「拷問……?」


イリアは、そのおぞましい単語に顔をしかめた。


「何を言っているの? 星の渇きが人を襲うのは知っているわ。でも、それがどうして拷問になるの」


「ノアの申す通りです、イリア様」


呻き声のような低い声が、ノアの背後から発せられた。

応急処置を終え、岩壁に背を預けたローランである。彼の顔色は未だ蒼白だが、その藍色の瞳には、長く隠蔽されてきた歴史の暗部を暴くという、重苦しい覚悟が宿っていた。


「ローラン……?」


「イリア様。貴女様は、王宮の家庭教師たちから、我々の使う『星法せいほう』をどのように教わりましたか?」


唐突な問いに、イリアは戸惑いながらも答えた。


「えっと……天から墜ちた星々の遺骸、つまり『精霊結晶エーテルコア』にお願いをして、その内なる力を少しだけ借りること、だって。星々が私たち人間に与えてくれた、尊い『贈り物』だと……」


「贈り物、ですか」


ローランは、自嘲気味に口の端を歪めた。

それは、彼自身もその「美しい嘘」を守る側として生きてきたことに対する、深い悔恨の笑みだった。


「……ふふ、いかにも宮廷魔導士らしい、綺麗な絵空事だ。ですが現実は違います。あれは『借りる』のではありません。完全な『略奪』です」


「略奪……?」


「左様。地に墜ちて死んだ星の遺骸を叩き起こし、無理やりその残光を搾り取って、火や水といった物理現象に変換している。……コアにとって、我々の行う詠唱とは、残された命を強制的に燃やさせる『拷問』に他なりません」


イリアが息を呑む気配が、乾いた空気を震わせた。

暗闇の中でも、彼女が驚愕に目を見開いているのがわかる。


「拷問……私たちが誇っていた星法が……?」


「搾り取れば、当然、コアは枯れます。しかし、人間という生き物は底知れず強欲だ。光が弱まれば、さらに強い詠唱で、無理やりにでも奥底の力を引き出そうとする。そうやって数千年の間、星の光を食い潰し続けた結果が……この、大気からエーテルが消え失せた『死帯ヴォイド』です。我々が、星を殺したのです」


ローランの吐き出す真実は、これまでイリアが信じてきた「輝かしい王国の歴史」という星図を、無惨に引き裂いていく。


ノアは無言のまま、足元の灰を視線でなぞっていた。

彼女の眼には、物心ついた時からその「醜い構造」が視えていた。だからこそ、彼女は星法を極度に嫌悪し、詠唱を拒み、「記述(星綴り)」という別の美学を求めたのだ。


「そして、完全に枯渇し、黒く炭化したコアがどうなるか……」


ローランは、先ほどノアが両断した怪物の残骸――ただの石ころに戻った黒いコアを顎でしゃくった。


「星の渇き(スター・サースト)です。本来、光を放つはずのものが空っぽになれば、今度は周囲から無差別に生命力を吸い込み始める。底なしの暗闇のように」


「それ……が、あの怪物たちだって言うの?」


「そうです。おそらく、帝国の非道な実験でしょう。完全に枯渇したコアを、生きた人間の胸に直接埋め込む。すると、コアは宿主の生命力を猛烈な勢いで吸い取ろうとする」


ローランの言葉を継ぐように、ノアが平坦な声で説明を加えた。


「宿主の肉体は、吸い取られる命の欠損を補おうとして、細胞の増殖を暴走させます。それが、あの醜い紫水晶の正体です。吸い取られては増殖し、増殖してはまた吸い取られる。……それは、死ぬことすら許されない、終わりのない苦痛の螺旋です」


ノアは、冷ややかな碧眼でイリアを見据えた。


「彼らは、人間としての意識をとうに失いながら、脳髄を焼かれるような激痛の中を何年も彷徨っていたはずです。他者のエーテルを奪って、一瞬の渇きを癒やすためだけに。……そんな命の破綻を、生かしておく理由がどこにありますか?」


「…………」


イリアは、言葉を失った。

彼女の喉の奥で、嗚咽のようなものが込み上げては消えていく。


狂気だと思っていたものが果てしない苦痛の叫びであり、その元凶が自分たちアルカディア王国も含む人間の強欲さにあったという事実に、彼女の信じていた世界が音を立てて崩れ去っていくのが、ノアには視えるようだった。


「私が彼らの狂った繋がりを断ち切ったのは、彼らを人として救うためではありません。ただ、世界の記述として『あまりにも醜かったから』です」


ノアは、血と泥に汚れた自分の指先を見つめた。

その声には、冷徹な響きの奥に、世界そのものの歪みに対する深い悲哀が隠されていた。


「これでもまだ、貴女は私を恐ろしい人殺しだと糾弾しますか、イリア様」


風が吹き抜け、灰が舞い上がった。


イリアは、俯いたまま答えることができなかった。

彼女の中で、正義と悪の境界線が完全に溶け落ちてしまったのだろう。

ただ、灰色の風に吹かれるイリアが、ノアの孤独な覚悟に圧倒され、言葉を失っていることだけは確かだった。


「……責めて済まぬ、イリア様」


ローランが、痛む胸を押さえながら静かに言った。


「これが、王城の温室では決して教えられることのない、外の世界の……我々人間の罪の形です。そして、帝国が全大陸に喧嘩を売り、星法文明そのものを破壊しようとしている理由も……おそらく、この『罪』と無関係ではない」


帝国の真意。

その言葉が、重苦しい余韻となって死帯の静寂に溶け込んでいく。


彼女たちの足元には、数千年の栄華を誇った星法の残骸が、ただの冷たい灰となって積もり続けていた。


(第10話 完)


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