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ep1 星見の塔の日常

【新生歴一二〇年刊・歴史編纂書『五星の鎮魂歌』 序文より抜粋】


 かつて、この大地は「借り物の光」で満ちていた。

 空から墜ちた星々の遺骸――「精霊結晶エーテルコア」がエーテルを噴き出し、人々は詠唱ひとつで火を熾し、万病を癒やし、夜を昼に変えることができた。

 それを「神の時代」と呼ぶ者もいれば、「停滞の時代」と呼ぶ者もいた。

 確かなことは一つだけだ。

 旧暦である第五星歴八九二年、「黄昏の月」の十四日。

 「アル・レイスの落日」をもって、神の時代はその喉笛を食い破られたということである。

 空は焦げ、大地は叫び、数千年の魔法文明は一夜にして灰となった。

 だが、星が沈黙したあの日こそが、我々人間が、膝をついた泥の中から立ち上がり、自らの足で歩き出した「最初の朝」であった。

 これは、その終わりの始まりを、「記述」として視ていた一人の少女の記録である。

 ――ミア・シルベ・クロニクル著『五星の鎮魂歌』より


*


 世界は、巨大な書物である。

 空を巡る星々は神が記した文字であり、大地を吹く風はページをめくる指先の音だ。

 少なくとも、ノア・レクシアという十四歳の少女にとって、この世界はそのように構築されていた。

 大陸エーテルガルドの北西部、険しい断崖絶壁の上に、その塔は建っていた。

 名を「星見の塔」。あるいは、忘れられた大書庫。

 俗世から切り離されたその場所には、常に古い羊皮紙の乾いた匂いと、インクの微かな鉄臭さが漂っている。窓から差し込む陽光は、空気中に舞う無数のダストを照らし出し、まるで光の粒がダンスを踊っているかのようだ。

 静寂。

 時折聞こえるのは、風が石壁を撫でる音と、ページをめくる衣擦れの音だけ。

「……お父様。この『第四星歴・気象図譜』ですが、背表紙の糸が弱っています。修復しても?」

 塔の最上階にある円形の執務室。

 天井まで届く巨大な本棚に囲まれたその部屋で、ノアは作業の手を止めて声を上げた。

 彼女は窓辺の大きなマホガニーのデスクに座っている。豪奢なドレスではなく、動きやすい膝丈のスカートに、父から借りた少しサイズの大きい書記官用のベストという装いだ。

 陽光を透かす亜麻色フラックスの髪は、無造作にハーフアップにまとめられているが、その髪質は絹のように柔らかく、光を受けると金色の粒子が混じったように煌めく。

 塔の主であり、ノアの父である書庫の番人、エリアス・レクシアが、分厚い眼鏡の位置を指で押し上げながら顔を上げた。

「ああ、構わないよ。そこは湿気を吸いやすい箇所だ。……丁寧に頼むよ、ノア。それはもう、王都の図書館にも残っていない貴重な本だからね」

「はい。……まだ、繋がっていますから」

 ノアは愛おしそうに古書の背を指でなぞった。

 道具箱から修復用の亜麻糸と針を取り出し、慣れた手つきで作業を始める。

 彼女の視界。それは常人のそれとは決定的に異なっていた。

 彼女が針を通しているのは、単なる「紙の束」ではない。

 彼女の瞳には、その本が形を保とうとする力が、ぼんやりと光る「銀色の縫い目」として視えているのだ。

 古びて切れかかっているその光の縫い目を、現実の糸でなぞり、補強してやる。

 そうすれば、壊れかけた物は再び意味を取り戻し、物語を紡ぎ続けることができる。

 点と点を、光で結ぶ。

 それが、彼女が生まれつき持っている特異な眼――『星綴り(ほしつづり)』の萌芽だった。

 作業を終えたノアは、ふと手を止めて窓の外を見た。

 午後三時。いつもなら、お茶の時間だ。

 空は高く、どこまでも青く澄み渡っている。断崖の下には雲海が広がり、遥か彼方にはアルカディア王国の象徴である白亜の王都「アル・レイス」が、蜃気楼のように霞んで見えている。

 平和な午後の風景。

 だが、ノアの碧眼には、まったく別の光景が映っていた。

「……お父様」

「ん? どうした、お茶にするかい?」

「いいえ。……インクの乾きが、悪いです」

 ノアのポツリとした呟きに、エリアスの手が止まった。

 彼は羽ペンを置き、ゆっくりと椅子を回転させて娘の方を向く。

「インク? 湿度の話ではないね?」

「はい」

 ノアは窓枠に手をかけ、空を凝視した。

 その瞳の中央、深いサファイアブルーの奥底で、精巧な幾何学模様のような光が静かに回転を始める。

 空中に、無数の「点」が浮かんでいる。

 それらは、風の流れ、大気中のエーテルの濃度、重力の歪み、そして時間の流れそのものが可視化された「世界の文字」だ。

 普段ならば、それらは美しい星座コンステレーションを描き、神が定めた完璧な調和を奏でているはずだった。

 けれど、今は違った。

「空の記述テクストが……乱れています。いえ、滲んでいるの」

 ノアは虚空に細い指を伸ばし、見えない汚れを拭うような仕草をした。

ことわりの配列が、おかしな方向へ書き換えられようとしています。自然な変化じゃありません。まるで、誰かが乱暴にページを破り捨て、その上に真っ赤なインクを壺ごとぶちまけたような……そんな不快な振動」

 エリアスの表情が強張った。

 彼は立ち上がり、娘の隣に並んで窓の外を見る。

 魔力を持たない彼には、ただの青空しか見えない。だが、彼は娘の眼が捉える「真実」を誰よりも信じ、そして恐れていた。

「ノア。王都の方角だね? 何が見える」

 ノアは視線を南へ向けた。

 地平線の彼方。美しい尖塔群が並ぶ王都アル・レイス。

 精霊結晶エーテルコアを組み込んだその都市は、昼間でも淡い燐光を放ち、「地上に落ちた銀河」と謳われている。数千年の歴史と、膨大な魔法の恩恵が集約された、文明の頂点。

 その上空に、どす黒い赤色のノイズが走っていた。

「……赤いです」

 ノアは感情のこもらない、観測者としての淡々とした声で告げた。恐怖よりも先に、目の前の異常事態を「解析」しようとする思考が先行する。

「血のような赤が、王都の記述を塗り潰しています。あれは……星の寿命? いいえ、もっと作為的な……誰かの強い『拒絶』の色」

 それは、世界が悲鳴を上げている色だった。

 空間そのものが、何か巨大な熱量によって焼かれ、存在そのものを抹消されようとしている。

 人が死ぬとか、建物が壊れるとか、そういった物理的な破壊ではない。

 そこにある「歴史」や「意味」が、根こそぎ削除されていくような、寒気のするような喪失感。

「そうか……。とうとう、始まったのか」

 エリアスの声が震えた。

 それは恐怖ではなく、長く予期していた運命がついに訪れたことへの、重い諦念だった。

 エリアスは王都の方角を睨みつける。

 (バカな……。まさか、本当にやるつもりなのか? 国の心臓を止めるような真似を……)

 彼の中に、ある青年の顔がよぎったが、彼はそれを口に出さず、強く拳を握りしめた。まだ幼い娘に告げるには、その推測はあまりに残酷すぎたからだ。

「お父様? 顔色が……」

 ノアが不安げに眉を寄せた、その時だった。

 カッ、と地平線が閃いた。

 音はない。ただ世界が一瞬、真っ白に飛んだ。

「ッ!」

 ノアが窓へ駆け寄る。白亜の王都があった場所から、天を衝くような巨大な黒煙の柱が立ち昇っていた。

 ズゥゥゥゥゥゥン……。

 遅れて、大気を殴りつけるような衝撃波と重低音が届いた。

 本棚がガタガタと鳴り、積み上げられていた古書が数冊、バサリと床に落ちる。

 窓ガラスが共振し、ビリビリと悲鳴を上げる。

「ッ!」

 ノアは窓の外を見た。

 そして、息を呑んだ。

 地平線の彼方。

 白亜の王都があった場所から、天を衝くような巨大な黒煙の柱が立ち昇っていた。

 その根元では、毒々しい紅蓮の炎が渦を巻き、美しい尖塔群を飲み込んでいる。

 空の色が変わっていく。

 青かった空が、赤く、黒く、汚されていく。

物語ページが……燃えている」

 ノアは窓ガラスに手を当てた。熱くはないはずなのに、指先が火傷しそうなほどの「熱量」を感じた。

 それは、数百万の人々の営みが、想いが、歴史が一瞬にして熱エネルギーへと変換され、拡散していく余波だった。

「あれは夕焼けではありません」

 ノアの声が震え始めた。

 ようやく、観測者としての冷静なレンズの向こう側から、人間としての根源的な恐怖が滲み出してくる。

「お父様、あれは……星の断末魔です。王都の結界コアが、内側から強制的に暴れさせられ、壊れています。あんなことをすれば、土地そのものが死んでしまう……!」

 それは不幸な事故なのか。

 それとも、逃れられぬ世界の寿命が尽きた合図なのか。

 この時点でのノアには知る由もない。

 ただ一つ分かることは、数千年の歴史を誇るアルカディアの叡智が、今この瞬間、二度と戻らない「死」を迎えているという事実だけだった。

 ノアは瞬きもせず、その光景を見つめ続けた。

 悲鳴を上げることも、涙を流すことも忘れて。

 ただ、そのサファイア色の瞳の奥で、幾何学的な星図が激しく回転し、崩壊していく世界のロジックを記録し続けていた。

「プロローグが終わる……」

 彼女の唇から、祈るような、あるいは宣告するような言葉がこぼれ落ちた。

「いいえ。――破り捨てられていく」

 その日、世界から色が消えた。

 そして、星なき夜の時代が、音もなく幕を開けたのである。


(第1話 完)

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