第17話 単身、黒帝山へ
スマホのアラームの音で俺はがばっと跳ね起きた。時刻は午前5時半。「……よし」と呟き、気合を入れるべく両の頬をぴしゃりと手で叩いた。
遂に、この日が来た。黒帝山へ乗り込む日が。
緊張で前日は一睡も出来ないかもしれないと心配していたが、前日に運動をしたことが効いたのか、ぐっすり眠ることが出来た。
洗面所で顔を洗い、朝食を用意して胃袋に詰め込む。あまり食欲はなかったが、ここで食べておかないと後々体力切れになると感じ、無理矢理食べた。
食器を洗い、歯を磨き、寝巻きを脱いで着替える。今日のために用意した登山用のタイツ、インナー、ウェアを身に纏った。召喚の儀は山の頂上で行うため、まず頂上に行く必要がある。険しい道のり、と聞いていたため、この日のために登山用の服装を用意した。少々値が張ったが気にならない。全ては綾香に再会するためだ。
続いてリュックの中に、必要なものを詰め込んでいく。
まずは、食料と水分。おにぎり5つと、ゼリー飲料を5つ、さらに水の入ったペットボトルを5本。長期戦を想定して多めに用意した。
次に、塩と木刀。木刀は高校生の時の修学旅行の際に購入し、何故か愛着が湧いて1人暮らしをする際に実家から持ってきたものだ。剣道の心得は全くないが、気休めにはなると思って持って行くことにした。
塩は魔除け用。異形の存在が出現する、と聞いたので、持って行くことにした。気休めにはなるだろう。
さらに、上着。レインウェアとしての機能も備えた上着だ。2月末、さらに山の中ということで、急激な気温の下降を想定して用意した。
さらにタオル、着替えの服、懐中電灯、コンパス、モバイルバッテリーにティッシュに袋にライター。山に乗り込む上で、必要そうなものは全て用意した。
最後に、以前綾香と撮影した写真。スマホのデータを使用し、印刷した。心が挫けそうになった時は、この写真を見ようと思った。
用意した全てのものをリュックに詰め込み、背負った。ポケットにはスマホと財布とハンカチ。忘れ物がないか何度もチェックした。そして、静寂に包まれる部屋の中で、呟いた。
「行ってくるよ、綾香。待っててね。必ず召喚の儀を成功させてみせるから」
登山用の靴を履き、ドアに鍵をかけ、俺は最寄り駅に向かった。快晴、という予報は外れ、空は分厚い雲に覆われている。雨が降るかもしれない、と思い少しだけ憂鬱になった。
最寄り駅から、先生に指定された駅までは電車で2時間半ほどかかる。電車に乗り込んだ俺は、スマホを取り出して颯太にメッセージを送った。今から黒帝山に向かうこと、手筈通り、しばらく俺から連絡がなかった場合は、俺が死んだと判断して用意した遺書を俺の両親に渡してほしい旨を伝えた。
挑戦する前から弱気になるのはよくないと思いつつ、万が一召喚の儀に失敗して命を落とした場合、両親に何の事情も伝えずこの世を去るのは避けたかった。そこで遺書を用意し、颯太に託すことに決めた。「馬鹿野郎、遺書なんて書くんじゃねーよ」と言いつつ、颯太は遺書を受け取ってくれた。
颯太からはすぐに返信があった。
『大好きな三毛山さんに再会するために、頑張れ! 俺は唯斗を信じる! 絶対に、三毛山さんと一緒に生きて帰ってこいよ!』
思わず目頭が熱くなった。颯太がいてくれてよかった、と心から思う。ありがとう、頑張るよ、と返信し、俺はスマホの電源を切った。最寄り駅から指定された駅までのルートは全て頭に入っている。黒帝山に乗り込んだ後のことを考えて、少しでもスマホの充電の消費を抑えたかった。
電車に揺られ、電車を乗り換え、また電車に揺られ、遂に指定された駅に到着した。黒帝駅、という駅だ。この駅で降りるのは見たところ俺だけだった。
改札を通り抜け、駅から出て辺りを見渡す。田舎、と表現出来る風景が広がっている。辺り一面に田んぼが広がっており、建物の数は少ない。そして、遠くには巨大な山脈群。霊峰、黒帝山だ。噂には聞いていたが、とんでもない大きさだ。
空気が澄んでいる。そして、雰囲気が、俺の家がある地域とはまるで違う。上手く表現出来ないが、人気のない神社に足を踏み入れた時にたまに感じる、荘厳で神秘的な雰囲気のようなものを感じた。
腕時計で時刻を確認する。指定された時間よりは少し早くここに辿り着いた。この後は、先生の頼みを受けて来てくれた人が、車で俺を山まで連れて行ってくれることになっている。
そこで俺は、車の車種やボディの色は聞かされてなかったことに気付いた。どの車なんだろう。周囲に視線を向ける限り、一台のパトカーしか見当たらない。パトカーの傍らには1人の警察官が佇んでいる。もしや、と思い恐る恐るパトカーに近づくと、若い男性の警察官もこちらに気付いたようで、「おはようございます」と声をかけてくれた。
「貴方は、千葉黎明大学の蒼守唯斗さんですか?」
「はい」
「学生証を見せていただけますか? すいません、疑うつもりはないのですが、必ず確認しろと上司から指示を受けたもので」
「大丈夫です。はい、どうぞ」
財布から学生証を取り出して見せると、警察官は頷きを返してくれた。
「ありがとうございます。お待ちしておりました。私は、千葉県警の雪元というものです。蒼守さんを黒帝山まで送り届けるよう指示を受けましたので、今から蒼守さんを山まで送り届けさせていただきます」
「本当にありがとうございます。よろしくお願いします。……って、まさかこのパトカーで連れて行ってくれるんですか?」
「勿論です。早速乗ってください。出発しますので」
指示された通り、パトカーの助手席に乗り込んだ。まさかこんな形で、人生で初めてパトカーに乗ることになるなんて。雪元さんはパトカーを発進させ、山に向かった。
「なんとなく事情は把握しています。これから蒼守さんは、大切な人にもう一度会うために、とても危険な儀式をしに行く、と」
運転しながら、雪元さんは口を開いた。
「はい、そうです。俺はもう一度その人と会って、貴方のことが好きです、付き合ってください、ずっとこの世界で一緒にいてください、と伝えたいんです」
「凄いですね……。いや、本当に凄いと思います。私には、蒼守さんのように命をかける度胸も勇気も無いので、尊敬します。部外者の私が言うのもなんですが、心から応援しています。無事に儀式が成功し、大切な人に再会出来ることを願っています」
「ありがとうございます、頑張ります」
そこで会話は途切れ、俺は周囲の風景に視線を向けた。
無の境地、といっていいほど俺の心は落ち着いていた。綾香と再会する、という強い意志が、恐怖を封じ込めているのかもしれない。パトカーは20分ほど走り、遂に黒帝山に到着した。パトカーから降りた俺は、言いようのない圧迫感のようなものを感じた。
この場所は、普通じゃない。本能で理解した。
山は一体にバリケードのようなものが張り巡らされており、侵入出来ないようになっている。近くの看板には、『黒帝山への立ち入りは法律で禁止されています。許可なく立ち入った場合、逮捕されますのでご注意ください』と書かれていた。
そして、近くに黒い着物を着た老人が1人。老人は俺に気付き、笑顔を浮かべた。山に到着したら、山の中の神社の管理者として特別に立ち入りが許可されている、秋永という老人に案内される手筈になっている。恐らくあの老人が秋永さんなのだろう。
「私の仕事はここまでです」
「本当にありがとうございました。わざわざここまで送っていただいて」
「仕事なので、当然です。では、私はこれで失礼します」
雪元さんは一礼し、パトカーに乗って去って行った。
「はじめまして、秋永です。貴方が蒼守唯斗さんですね?」
秋永さんは俺に近づき、話しかけてきた。70歳くらいだろうか。身長は俺より10センチほど低い。
「はい、千葉黎明大学の蒼守唯斗です。本日は、召喚の儀を実行するために、ここに来ました」
「話は聞いています。いやはや、まさかこの時代に、召喚の儀を実行したいという人が現れるとは、思いもよりませんでした。これからの流れを説明します。まず、私が蒼守さんを途中の神社まで案内します。そこで、儀式に必要な道具を渡し、儀式の流れを説明します。私の役目はそこまでです。そこから先は、蒼守さん1人で頂上まで進んでいただく形になります」
「分かりました」
「では、行きましょう。ついてきてください」
秋永さんは歩き出し、俺は後に続いた。少し歩くと、厳重に施錠された巨大な扉が見えた。秋永さんは複数の鍵を取り出し、施錠を解除して扉を開けた。
「ここからは、黒帝山の領域です。科学が進歩したこの時代では考えられないかもししれませんが、山中には我々の理解が及ばない異形の存在が多数います。研究者が研究を放棄するほど、危険に満ちている場所です。故に完全に立ち入りが禁止されているのです。私は、蒼守さんの安全を一切保証しません。それでも、ここから先に進む覚悟はありますか?」
「勿論です。覚悟は決まってます」
「分かりました。それでは行きましょう」
秋永さんに続き、俺は山の中に足を踏み入れた。
空気が変わった。俺は思わず息を呑んだ。圧迫感が増した。そして、視線を感じる。一つや二つじゃない。数十、数百の視線が俺に注がれている。なんだかとても嫌な感じだ。頭が痛い。足を動かすのを体が拒んでいるような、奇妙な感覚に包まれる。
俺の様子を見て、「すぐに慣れますよ」と秋永さんは言った。
「山の中に入り、その雰囲気やオーラに圧倒されて蒼守さんの体がびっくりしている状態です。初めてこの山に足を踏み入れた人は全員そうなります。加えて、多数の異形の存在が蒼守さんに気付き、視線を向けています。興味を持っているのです。数分もすれば体が慣れてきますので、それまで待ちましょう」
秋永さんの言葉通り、圧迫感や頭痛は数分で収まった。人生で始めた味わった不思議な感覚に、俺は思わず言葉を失っていた。
その時、俺の前に一羽のカラスが音もなく降り立った。いや、カラスと表現していいものか。見た目こそカラスに似ているものの、全身は真っ白で、さらに足が4本ある。カラスもどきは俺に視線を向け、嘴を開いた。
「何ダ、貴様ハ」




