第13話 力
「つまり明日から、長い期間大学が休みになるってこと?」
電車の中で俺の横に座り、いつものようにマスクとサングラスを着用し、帽子を被った綾香が俺に問いかけた。
「そういうこと。基本的に4年制の大学は、8月と9月の2ヶ月間、2月と3月の2ヶ月間、合計4ヶ月間休みになるんだよ。今日で授業が終わって、明日から春休みになるってわけ」
「え、1年の内の3分の1が休みってこと? すごいね」
「うん。だから大学生は自由な時間が多くて、出来ることが多い。人生の夏休み、なんて表現する人もいるよ」
「休みってことは、唯斗は大学に行かないってことだよね? ということは、今までよりも唯斗と一緒にいられる時間が増えるってことだよね?」
「まあ、そうだね」
「やった〜!」
綾香はガッツポーズをした。サングラスとマスクをしていて表情は読み取れなかったが、喜んでることが伝わってきた。
綾香と夢のようなクリスマスデートをしてから、1ヶ月と少しが経過した。年が明け、1月も終わりにさしかかり、今日が最後の授業日。明日から春休みに突入する。今日は対面の授業があるので、綾香と一緒に大学に向かっている。
クリスマスデートを機に、ますます綾香との距離が縮まったような気がした。というより、綾香を見るとドキドキすることが増えた。
俺は、綾香のことが好きなのだろうか。
最近俺が綾香に抱いている感情は、恋心なのではないかと思うことが多い。いや、きっとそうなのだと思う。
クリスマスデートを機に、何かが変わった。綾香のことが愛しい、守りたい、という気持ちが、時に切なくなるほど湧き上がるようになった。
綾香は人間ではなく神様だ。人間の世界に、本来いていい存在ではない。そんなこと分かってる。それでも、俺は綾香にこの気持ちを伝えたかった。
綾香も俺に好意を抱いてくれているとは思うが、それが恋心にまで発展しているのは分からないし、そもそも神様が本気で人間を好きになるのかも分からない。
今はまだ怖くて、仮に告白を断られて関係が崩れたら、と思うと怖くて、告白には至っていない。それでもいつか、必ず、この気持ちを伝える。そう俺は心に決めていた。
「唯斗? どうしたの? なんかぼーっとしてるけど」
「ああ、何でもないよ。それより、俺と一緒にいられる時間が増えること、喜んでくれて嬉しいな」
「あ、いや、えっとこれは、か、勘違いしないでよね! 私が唯斗と一緒にいる時間が増えた方が、唯斗がより規則正しい生活を送れると思って、そういう意味で喜んだだけだから! 別に特別な意味はないから!」
「規則正しい生活を送る必要があるのは綾香じゃない? 最近俺が声かけないと全然起きないじゃん」
「う、うるさいなあ! その話はいいじゃん!」
「電車の中では静かに。そろそろ降りるよ」
程なくして大学の最寄り役に到着し、俺は綾香と一緒に電車から降りた。いつものように綾香は俺と腕を組んでいる。
キャンパス内に足を踏み入れ、校舎の中に入った。基礎教養に分類されるその講義を、今まで通りしっかり受け、何事もなく授業が終わった。
「よーし、終わった」
「お疲れ様、唯斗。これで授業は全部終わり?」
「うん。他の授業のレポートも全て提出してるし、晴れて春休み突入だよ」
「そっか、よかったね」
マスク、サングラス、そして帽子を着用し、美貌と猫耳を完全に隠している綾香に、視線を向ける学生はいない。
以前颯太は、綾香が言葉で言い表せないオーラを発していたと言っていたが、最近の綾香はそのオーラを消す術を身につけたのか、美貌と猫耳を隠している限り、学生に視線を向けられることはなかった。
「折角だし、どこか遊びに行こうか」
「え、いいの!?」
「うん。去年のクリスマスに行った商業施設にもう一回行ってもいいし、他の場所に行ってもいいよ。まあ歩きながら考えよう。取り敢えず大学を出よっか」
「うん!」
遊びに行こう、と言われた綾香は目に見えて上機嫌になった。校舎から出て正門に向かう。周りを行き交う学生らの表情は一様に明るかった。明日から始まる春休みにワクワクしている学生が多いのだろう。
「あ、綾香、ちょっとペットボトル捨てさせて。すぐ戻るから」
「分かった。私はここで待ってるよ」
綾香は俺の腕を離し、俺は小走りでゴミ箱がある場所に向かった。
「あれ、唯斗じゃん」
ペットボトルを捨てたその時、近くにいた1人の背の高い男の学生に声をかけられた。たしか、山田という先輩だったはずだ。入学早々加入し、雰囲気に馴染めず、すぐに辞めたバトミントンサークルで少しだけ仲がよかった先輩だ。
「あ、お久しぶりです、山田先輩」
「久しぶりだな。唯斗がすぐにサークル抜けちゃったから、寂しかったぜこっちは」
「すいません、雰囲気にどうも馴染めなかったので」
「まあいいよ。そういう人多いからね。最近どう? ちゃんと授業出てる? 遊びたいだろうけど、ちゃんと単位は取っておいた方がいいよ」
「分かってますよ、単位は一つも落としてません」
「マジか、偉いな。俺なんか、1年生の時落単しまくってエライ目に遭ったからなぁ」
正直、山田先輩との会話に全く集中出来なかった。横目で、綾香が知らない2人の絡まれているのを見ていたからだ。一刻も早く会話を切り上げ、綾香の元へ向かいたかった。
「あの時は大変だったよ。親にめっちゃ怒られて、そして……」
「す、すいません山田先輩! 急いでるので! 失礼します!」
無礼を承知で会話を切り上げ、綾香の元に戻った。
「や、やめてください!」
「え〜いいじゃん! 君、めっちゃかわいいって噂の女の子でしょ? 一度会いたいって思ってたんだよね〜!」
「何でマスクとサングラスしてるの? 折角かわいいのに勿体ないよ。お兄さんにかわいい顔見せてほしいなぁ」
綾香は、見知らぬ2人の男の学生に絡まれていた。
「あの、やめてください!」
「ああ?」
俺が叫ぶと、2人の学生は俺に視線を向けた。どちらも身長は俺より10センチ以上高い。片方の学生はスキンヘッドで、真っ黒な革ジャンを纏っている。もう片方の学生の髪の色は毒々しい赤で、呼応するように纏う上着も赤。そして、2人の手に握られているのは紙タバコ。校内では喫煙が禁止されているにも関わらず、だ。
不良だ、と俺は瞬時に理解した。それなりに偏差値の高いこの大学内にも、こんなに見た目で分かりやすい不良がいたなんて。
「君、誰?」
「俺は、その人の友達です! すぐにその人と帰らなきゃいけないので、その人を解放してください!」
「解放? 何それ? 人聞きの悪いこと言わないでよ。俺はただ、この子とお喋りしてるだけなんだけど」
スキンヘッドの学生が俺に言葉を返す。視線はとても鋭い。
「シゲ、こんな奴ほっといて、この子と遊ぼうぜ」
「そうだな。ねえねえ、そのマスクとサングラス、外しちゃおうよ」
「やめてください! 触らないでください!」
綾香は必死に抵抗したが、2人の学生は無理矢理綾香のマスクとサングラスをもぎ取った。露わになった綾香の顔を見て、2人の学生は俄かに色めきだった。
「うわ! やば! めちゃくちゃかわいいじゃん!」
「モデル? 芸能人? やっぱり噂は本当だったんだな! 信じられないくらいかわいい学生がいるって噂!」
「マスクとサングラスを返してください! この顔を見られるわけにはいかないんです!」
「やだよ〜。君、こんな奴ほっといてさ、俺たちと遊びに行かない? 楽しいことしようよ」
「そうそう。俺たち、すっごい楽しい場所知ってるからさ」
「やめてください! マスクとサングラスを綾香に返してください!」
「うるせえんだよ!」
スキンヘッドの学生が叫び、近づいた俺の体を掴み、足をかけた。柔道の心得があるのか、あっけなく俺は地面に倒されてしまった。
「唯斗!」
倒された俺を見て、綾香は悲痛な叫び声を上げた。
「君、うるさいよ。俺とリョウは、この子に用があるんだよ。君には用がないの。そんなことも分からないの?」
「そうそう。まあ、君の彼女だったらさすがに手は出してなかったけど、友達なら別にいいよな。こんなにかわいい子にマスクとサングラスをつけさせるような、センスのない変な奴と一緒にいない方がいいって」
「何を言ってるんですか! 早く綾香にマスクとサングラスを返してください!」
「しつこいなぁ。さすがにウザい。ちょっとお仕置きするか。シゲ、こいつの腕押さえて」
「あいよ」
シゲ、と呼ばれた学生は瞬時に俺を力で押さえつけた。俺は必死に抵抗するも、体格差がありすぎて抵抗出来ない。もう一方の学生は俺に近づき、俺の左手を掴んで、火のついた紙タバコを俺の手に押し当てた。
「うああああっ!!!」
猛烈な熱さに思わず顔が歪み、俺は叫んだ。
「はい、根性焼き〜。俺たちに楯突くとどうなるか分かったでしょ? 君はおとなしく家に帰りな。この子は、今から俺たちと楽しい場所に……」
「唯斗を傷つけるなっっっ!!!!!!!!!!!」
綾香の叫び声が聞こえたと思ったその時、空気が揺れた。同時に、俺を押さえつけていた学生、そして俺の手に紙タバコを押し当てた学生の体が宙に浮いた。
「う、うわあああああ! な、何なんだよこれ! おい、シゲ、どうなってるんだこれは!?」
「分からねえよ! 何で体が浮いてるんだよ!」
根性焼きの苦痛は瞬時に吹っ飛んだ。綾香が神様の力を使ったのだとすぐに分かった。綾香に視線を向ける。綾香は目から涙を流しながら両腕を突き出し、2人の学生を鋭く睨みつけている。
綾香の体からは、黄色い衝撃波が迸っていた。こんな綾香初めて見た。周りの多くの学生が足を止め、目の前の常識離れした光景に唖然とし、中にはスマホを取り出して撮影している人もいる。
「よくも……よくも大切な唯斗を傷つけたな! 絶対に許さない! お前たち2人とも、ここで殺してやる!」
綾香は叫び、両腕を大きく振り払った。すると衝撃波が揺らぎ、同時に宙に浮かぶ2人の学生が首を手で抑えて苦しみ始めた。
まずい。綾香は、力を使って2人を殺そうとしている。
「駄目だ綾香! 殺しちゃ駄目だ! 力を使うのは今すぐやめるんだ!」
「どうして!? 大好きな唯斗を傷つけられて、今私はめちゃくちゃ怒ってるんだよ! こんな人間、死んで当然だよ!」
「違う! 綾香がここでこの人たちを殺すのは間違ってる! 殺人は、決して取り返しがつかない極めて重大な罪だ! もし綾香が人を殺せば、俺を傷つけたこの人たち以上に、酷くて悪い存在になる! それでもいいのか! 俺は嫌だ! 大好きな綾香に人殺しになって欲しくない! いいから落ち着いてくれ! 今すぐ力を解除して、この人たちを解放するんだ!」
何とかしなきゃ、という一心で叫んだ。俺の言葉が届いたのか、綾香は大きく息を呑み、そして両腕を下げた。同時に、宙に浮いていた2人の学生が地面に叩き落とされた。
「げほっげほっ、な、何なんだったんだ!? 意味分からねえよ!」
「逃げるぞシゲ! あの女は人間じゃねえ、化け物だ! 早く逃げないと殺される!」
2人の学生はどこかに逃げ去っていった。涙を流しながら呆然とする綾香に走り寄り、「逃げるよ!」と俺は叫んだ。綾香の手を握り、人混みを掻き分け、とにかく逃げた。
行き先なんて分からなかった。遠くに逃げたかった。学生から、他の人間から、俺と綾香を脅かす全ての存在から、とにかく逃げたい一心で俺は走り続けた。綾香はひたすら泣いていた。
そんな綾香と走り、走り、体力の限界を迎えたところで、人気のない公園に辿り着いた。足を止めた俺に綾香は思い切り抱きついた。
「ごめん……唯斗……本当にごめん……」
泣きじゃくる綾香の体は震えていた。
「全部私のせいだ……私が……あの人たちに絡まれてなければこんなことにはならなかった……唯斗が傷つけられてるのを見て……感情が爆発して……力を使っちゃった……絶対力を使っちゃ駄目だったのに、使っちゃった……ごめん……ごめん……」
綾香はとめどない悲しみの感情を発露していた。俺は綾香の体を強く抱きしめ、「大丈夫だよ」と言った。
「大丈夫。謝らないで」
「謝るよ……沢山の人に見られた……去年、教室で顔と猫耳を見られたのとは訳が違う……力を使ったのが見られた……もうおしまいだよ……私が人間じゃないってことがバレて、唯斗は今まで通り大学に通うことが難しくなる……本当にごめん……」
「大丈夫だから。落ち着いて」
「うっ……ううっ……唯斗……」
泣き続ける綾香の頭を撫でながら、俺は思考を巡らせていた。
大丈夫だから、と口では言っているものの、決して大丈夫ではない。いや、かなりまずい。綾香が大勢の学生の前で力を使ってしまった。綾香が人間ならざる存在だということが、大勢の学生にバレてしまった。
せめてもの救いは、明日から春休みに突入することだろうか? いや、春休みに突入したところで、学生が綾香の存在を都合よく忘れるとは思えない。もしかしたら今頃SNSに写真や映像が拡散され、一大ニュースになっているかもしれない。
今後綾香が大学に足を運ぶのはまず不可能だろう。俺も、今まで通り大学に通うことが難しくなるかもしれない。綾香と一緒にいた人間として、追及を受けるのは目に見えていた。
俺は首を振り、考えるのをやめた。考えたところで、ネガティブな気持ちになるだけだ。今は、綾香を慰めて元気づけることだけ考えよう。
綾香はよほどショックを受けたのか、なかなか泣き止まなかった。ごめん、本当にごめん、とひたすら謝っていた。いいんだよ、大丈夫、と俺はひたすら言い続けた。1時間ほど綾香は泣き、ようやく落ち着いたのか、俺から体を離した。
「ごめんね、取り乱しちゃって」
「大丈夫だよ。落ち着いた?」
「うん、少しね。あ、手の傷酷いね……治すよ」
綾香は俺の手を取り、何か呪文を唱えた。すると、根性焼きを受けた痛々しい傷跡が瞬時に治った。
「ありがとう。すごいね、傷が治せるんだ」
「神様だからね。……もう、本当に許せないよ。何なのあの人たち。突然現れて、唯斗にあんなことするなんて」
綾香の視線が鋭くなる。
「あんな人がいるなんて知らなかった。まあ、色々な人間がいるってことだよ。いい人がいれば、悪い人もいるんだよ」
「何でそんなに冷静なの? あんなに酷いことされたのに」
「冷静っていうか、まだ状況が飲み込めてないっていうか。とにかく、今日は帰ろう。これからのことはゆっくり考えるとして、家でゆっくりしようよ。今は、綾香と家でゆっくりしたい気分だな」
「唯斗……うん、そうだね。帰ろうか」
「そうはさせない」
突如飛び込んだ見知らぬ声。俺は異常事態を察知した。その声が、耳に届くというよりも、脳内に直接飛び込んでくるような奇妙な感覚だったからだ。
俺と綾香の前に、突然二つの光の球が出現した。球はどんどん大きくなり、やがて一際大きな光を放ったかと思うと、いつの間にかそこには2人の人間のような何かが佇んでいた。
何故人間のような何か、と表現したかと言うと、人間ではないことが一目瞭然だったからだ。一見すると片方は黒い和服を纏った人間の男、もう片方は赤い和服を纏った人間の女に見えるが、どちらも肌が真っ白で、さらに全身から淡い光のオーラのようなものを放っている。
「お父さん……お母さん……」
綾香は、信じられない、といった様子で声を絞り出した。人間の男に見える何かは、俺、そして綾香をじっと見つめ、口を開いた。
「神の立場でありながら、人間相手にあそこまで力を使うとは、どこまでも愚かな奴だ。これ以上人間界にいさせるわけにはいかない。今から天上の世界に戻れ、愛導乃大御神」




